レテの岸辺で、君を思い出す

レテの岸辺で、君を思い出す

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第一章 凍てついた記録、溶け出す音色

氷室朔(ひむろ さく)の世界は、完璧な秩序で満たされていた。光ファイバーの網の目が都市の神経系のように張り巡らされた巨大なデータアーカイブ。その最深部にある主席記録官室が、彼の聖域であり、砦だった。室内に満ちるサーバーの冷却ファンの低い唸りだけが、世界の存在を証明する唯一の音だった。

朔が服用する向精神薬「レテ」は、彼の感情を凪いだ湖面のように静め、その代償として、常人には及びもつかない記憶力と情報処理能力を与えていた。悲しみも、喜びも、怒りさえも、彼の内面では意味をなさない記号の羅列に過ぎない。彼は人類史の膨大な記録を分類し、関連付け、未来のために保存する。それは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい自然で、感情を必要としない、完璧な仕事だった。

その日も、彼は古代シュメール文明の楔形文字で書かれた粘土板のデジタルデータを、最新の量子通信記録とクロスリファレンスしていた。ディスプレイに流れる膨大な情報を、彼の脳は瞬時に解析し、最適化していく。すべてが順調だった。

その時だった。

ふと、胸の奥深く、長い間凍てついていたはずの領域に、小さな疼きが走った。まるで、分厚い氷の下で何かが身じろぎしたかのような、微かで、しかし確かな感覚。朔は眉をひそめ、作業の手を止めた。論理で説明できない身体的反応。エラーだ。

そして、次の瞬間。彼の頭の中に、ありえない音が響いた。それは、サーバーの唸りでも、空調の音でもない。古びたオルゴールが奏でるような、どこか懐かしく、そして切ない旋律。金属の櫛がシリンダーの突起を弾く、か細く、優しい音色。

完璧だったはずの記憶の宮殿に、初めてノイズが混入した瞬間だった。

「どうした、氷室主席。顔色が悪い」

モニター越しに、主治医の東山が心配そうに声をかけてきた。定期的なバイタルチェックの時間だった。

「……些細な聴覚幻覚です。すぐにおさまります」

朔は、感情のない平坦な声で答えた。しかし、彼の指先は、自分でも気づかないうちに微かに震えていた。

「薬の血中濃度が少し不安定になっているのかもしれない。増量は……いや、これ以上は危険だ。しばらく様子を見よう。何か異変があればすぐに連絡を」

東山の言葉は、朔の不安を増幅させた。レテの効果が弱まっている? 感情という名の混沌が、この秩序だった世界に再び流れ込んでくるというのか。

朔は、十年前のあの日以来、涙を流したことがない。妻と、まだ幼かった娘を一度に失ったあの豪雨の日の事故。彼の記憶の中で、その出来事は一つの「事象ファイル」として、客観的なデータと共に記録されているだけだ。日付、時刻、天候、車両の損傷具合、そして死亡診断書のデジタルコピー。そこに、悲しみという主観的なタグは付けられていない。レテが、彼をその地獄から救い出してくれたのだ。

それなのに、今、耳の奥で鳴り続けるこのオルゴールの音色はなんだ? それは、まるで失われたはずの感情の残響のように、彼の精神の壁を静かに、しかし執拗に叩き続けていた。朔はディスプレイに映る自分の顔を見た。血の気の失せた、無表情な男。だが、その瞳の奥に、かつてないほどの微かな動揺が揺らめいていた。秩序が、崩れ始めようとしていた。

第二章 感情の残響、過去への扉

オルゴールの幻聴は、日増しに鮮明になっていった。それは仕事中だけでなく、食事の時も、眠りにつこうとする無機質なベッドの上でも、予期せぬ瞬間に朔の意識に侵入してきた。彼はその音から逃れるように、さらに仕事に没頭しようとしたが、無駄だった。

それだけではない。彼の五感は、忘れていたはずの「意味」を取り戻し始めていた。淹れたてのコーヒーの苦い香りが、なぜか胸を締め付けた。窓の外で揺れる銀杏の葉の鮮やかな黄色が、目の奥をちりちりと焼いた。街ですれ違った子供の笑い声に、心臓が大きく脈打った。

それらはすべて、かつて彼が持っていた感情の断片だった。レテによって深く沈められていた記憶の残骸が、薬効の揺らぎと共に浮上してきているのだ。朔は恐怖した。感情は、判断を鈍らせ、論理を破壊するバグだ。あの耐え難い喪失の痛みを、もう一度味わうことになるのかもしれない。

「この音の正体を突き止めなければならない」

彼は自身の記憶アーカイブにアクセスした。超人的な記憶力を持つ彼にとって、自分の人生は生まれた瞬間から現在まで、すべてが検索可能なデータベースとなっている。彼は「オルゴール」というキーワードで検索をかけた。

数秒後、ディスプレイに一件のファイルがヒットした。それは、事故が起きる半年前、娘の陽菜(ひな)の三歳の誕生日の映像記録だった。再生ボタンを押すと、色褪せた映像が流れ始める。柔らかな陽光が差し込むリビングで、妻の美咲(みさき)が微笑みながら、小さなオルゴールを陽菜に手渡している。陽菜の小さな手がそれを開くと、あの旋律が流れ出した。きらきら星だ。

映像の中の朔は、幸せそうに笑っていた。今の彼からは想像もつかない、穏やかで、愛情に満ちた表情。彼は、陽菜を抱き上げ、その柔らかな髪に顔をうずめている。その瞬間、朔の胸に、再びあの疼きが走った。それは痛みであり、同時に、どうしようもないほどの愛おしさだった。

「なぜ、この記憶だけが?」

彼は事故の記録ファイルを再度開いた。そこには、豪雨、地滑り、大破した車、そして三名の乗員のうち、生存者は氷室朔一名、という冷たい事実が記載されているだけだ。妻と娘の死亡時刻も、正確に記録されている。彼の記憶に、間違いはないはずだ。

だが、蘇りつつある感情は、そのデジタルな記録だけでは説明がつかない何かを訴えかけていた。まるで、物語の重要な一節がごっそりと抜け落ちているかのように。

彼は決意した。レテを服用して以来、一度も足を踏み入れたことのない場所へ行くことを。妻と娘と、そして「感情」と共に暮らした、あの家へ。今はもう誰も住んでいない、郊外にひっそりと佇む古い屋敷。そこに、このノイズの根源があるような気がしてならなかった。封印された過去の扉を、自らの手で開ける時が来たのだ。

第三章 オルゴールの真実、砕かれた記憶

埃の匂いが、朔の鼻腔を鋭く刺した。十年ぶりに開かれた玄関の扉から差し込む光が、宙を舞う無数の塵をきらきらと照らし出す。時間はここで止められていた。リビングには、家族三人で囲んだテーブルがそのまま置かれ、壁には陽菜が描いた拙い太陽の絵が、色褪せながらも貼られていた。

一つ一つの家具、一つ一つの傷が、朔の中に眠っていた記憶の断片を呼び覚ます。ソファでうたた寝をする美咲の寝顔。キッチンで聞こえた陽菜の笑い声。それらはもはや単なる情報ではなく、温もりと手触りを伴った「思い出」として、彼の心を揺さぶり始めた。レテの氷壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

彼は、幻聴に導かれるように、二階の子供部屋へと向かった。陽菜の部屋。小さなベッドと、壁一面の絵本。その一角に、小さな木箱が置かれていた。映像で見た、あのオルゴールだ。

朔は震える手でそれを手に取った。蓋を開ける。

――カチリ、という小さな音と共に、あの旋律が流れ出した。きらきら星。

その瞬間、彼の頭の中で、何かが弾けた。

洪水のようになだれ込んできたのは、彼が今まで「真実」だと思っていた記録とは全く違う、もう一つの記憶だった。

豪雨。車のスリップ。崖から落ちる衝撃。

気がついた時、彼は病院のベッドにいた。隣には、妻の美咲の両親が、泣き腫らした顔で立っていた。

「美咲は……」

義父が、静かに首を横に振った。絶望が朔の全身を貫いた。

「陽菜は? 陽菜はどこだ!」

彼は叫んだ。その問いに、義母が顔を覆って嗚咽し、義父は苦渋に満ちた顔でこう言ったのだ。

「陽菜も……美咲と一緒だ。すまない……」

それが、朔が信じてきた「事実」だった。彼はその絶望に耐えきれず、レテに逃げ込んだ。感情を消し去り、悲しみをデータに変えて、自分を守ったのだ。

だが、オルゴールの音色が呼び覚ました記憶は、その続きを映し出した。

義父の言葉は、嘘だった。

真実はこうだ。陽菜は生きていた。奇跡的に、軽傷で助かっていた。しかし、目の前で母の死を目の当たりにしたショックで、彼女は心を完全に閉ざしてしまった。言葉を失い、誰にも反応を示さなくなった。そして、精神が不安定になった朔が、その悲しみのあまり、陽菜をさらに傷つけてしまうことを、義理の両親は恐れた。

だから、彼らは苦渋の決断をした。陽菜を、遠い親戚の元へ預けることにしたのだ。そして朔には、「陽菜も死んだ」と告げた。それが、当時の彼らができる、二人を守るための、あまりにも残酷で、歪んだ愛情の形だった。

朔は、自らもその嘘を受け入れたのだ。いや、望んだのかもしれない。妻と娘を同時に失ったという「完璧な絶望」の中に身を置くことで、生き残ってしまった罪悪感から逃れようとした。レテは、その「偽りの記憶」を強固に固定し、真実を心の奥底に封印する手助けをした。彼が感じていた疼きや幻聴は、偽りの記憶の壁を突き破ろうとする、封印された陽菜への愛情そのものだったのだ。

「ああ……ああ……!」

朔の口から、十年ぶりに、声にならない声が漏れた。膝から崩れ落ち、彼は床に突っ伏した。オルゴールの優しい音色が響く部屋で、彼の目から、熱い雫が次から次へと溢れ出し、乾いた床板に染みを作っていった。それは、後悔と、罪悪感と、そして、娘が生きているという、かすかな希望が入り混じった、あまりにも人間的な涙だった。

第四章 解氷の朝、二人の時間

朔は、レテの服用を完全にやめた。

感情の奔流が、彼を容赦なく襲った。十年分の悲しみ、後悔、罪悪感、そして娘へのどうしようもないほどの愛情。それは、身を引き裂かれるような激痛だった。彼は何日も部屋に閉じこもり、泣き、叫び、嵐が過ぎ去るのをただ耐えた。それは、彼が人間性を取り戻すための、過酷な儀式だった。

嵐が静まったある朝、朔は震える手で義父に電話をかけた。全てを思い出した、と。電話の向こうで、年老いた義父はただ、泣いていた。そして、何度も、何度も謝った。

数週間後、朔は、ある地方都市の小さな公園のベンチに座っていた。心臓が、まるで自分のものではないかのように激しく鼓動している。やがて、向こうから、一人の少女が義母に手を引かれて歩いてくるのが見えた。十三歳になった陽菜だった。

ショートカットの髪。少し不安げな、しかし強い光を宿した瞳。面影は、確かに美咲と、そして自分に似ていた。陽菜は彼の前で立ち止まり、不思議そうに朔を見上げた。彼女は、事故の後遺症で感情を表に出すのが少し苦手になっていたが、義両親の愛情のもと、健やかに育っていた。

「陽菜」

朔が、かすれた声で名前を呼んだ。

陽菜は、何も言わずに、ただじっと朔を見つめている。その瞳が、何を考えているのかは分からない。十年という時間は、あまりにも長い。父親だと名乗るこの男を、彼女はどう受け止めたらいいのか。

沈黙が、二人を包む。気まずく、そして聖なる時間。

朔は、無理に父親らしく振る舞うことをやめた。ただ、ありのままの自分を見せようと思った。彼はポケットから、あの古いオルゴールを取り出した。そして、ゆっくりと蓋を開ける。

きらきら星の旋律が、公園の午後の空気に溶けていく。

その音を聞いた瞬間、陽菜の瞳が、かすかに揺れた。彼女の記憶の奥深くにも、この音色は眠っていたのだ。

「……きれいな、おと」

陽菜が、ぽつりと呟いた。十年ぶりに聞く、娘の声だった。

その一言が、朔の心の最後の氷壁を、完全に溶かし去った。彼は、もう泣かなかった。ただ、穏やかに、心の底から微笑んだ。

失われた時間を取り戻すことはできない。父親でなかった十年を埋めることは、不可能だろう。だが、これからの時間を共に生きることはできる。ぎこちなくても、少しずつ。

朔は陽菜の隣に座り、二人で黙って空を見上げた。空はどこまでも青く、頬を撫でる風は暖かかった。彼は、コーヒーの苦味も、銀杏の葉の黄色も、子供の笑い声も、もう恐れてはいなかった。感情と共に生きる世界の、その痛みと、その輝きを、彼はようやく受け入れることができたのだ。

レテの岸辺で失ったはずのものが、今、確かにここにある。朔は、陽菜の小さな手の温もりを想像しながら、ゆっくりと目を閉じた。長い、長い冬が、ようやく終わろうとしていた。

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