水彩の夢が褪せる時
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水彩の夢が褪せる時

第一章 褪せた街の眠り

ミナトの見る夢は、いつも他人のものだった。

ひたひたと足首を濡らす、冷たい後悔の記憶。喉の奥にこびりつく、嘘のざらついた味。誰かが必死に忘れようと藻掻く記憶は、夜ごとミナトの精神に流れ込み、鮮明すぎる夢となって彼を苛んだ。

目覚めはいつも最悪だ。シーツは汗で湿り、心臓は他人の絶望を鳴らしている。

とりわけ、この街の色が褪せ始めてから、夢の質は悪化していた。かつて煉瓦の壁が夕日に燃えていた通りは、今では洗い晒したような灰色に沈んでいる。人々が交わす記憶の水が薄まり、世界から色彩が蒸発しているのだと、誰もが肌で感じていた。

その夜の夢は、今までとはまるで違っていた。個人の後悔ではない。もっと巨大で、無数の叫び声が混ざり合った、歴史の澱のような光景。炎が天を舐め、黒い煙が星を隠し、石畳の上を名も知らぬ人々が絶望の貌で駆け抜けていく。これは誰の記憶だ? いや、誰か一人のものではない。まるで、街そのものが忘れたがっている悲鳴のようだった。

記憶が完全に「忘れ去られる」瞬間、ミナトの全身を灼けるような痛みが貫いた。断末魔の叫びと共に意識が浮上する。現実の、静まり返った自室の天井が滲んで見えた。心臓が肋骨を叩き、呼吸が浅い。

不意に、部屋の隅で何かが微かな光を放った。祖父の遺品である、古びたガラスの砂時計。その中の砂が、まるで燐光を宿したかのように、淡く、儚く明滅していた。

第二章 記憶の砂時計

その砂時計は、ミナトが営む小さな古道具屋の片隅で、ずっと埃を被っていた。中の砂は、月の光を浴びた雪のように白く、奇妙なほどに微細だった。

昨夜の光が脳裏に焼き付いて離れない。ミナトは導かれるように砂時計を手に取った。ガラスの表面は、人の体温のように温かい。

衝動的に、それをひっくり返した。

さらさらと、音もなく白い砂が落ち始める。すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。部屋の空気が陽炎のように揺らめき、昨夜の夢の断片が幻影となって浮かび上がったのだ。燃え盛る街。天を突く火柱。逃げ惑う人々の、声なきシルエット。それはまるで、音を失った古い映画のようだった。

幻影は、砂がすべて落ち切ると同時に、すうっと霧のように消えた。残されたのは、心臓の鼓動と、部屋に満ちる焦げ付いたような匂いの残滓だけ。二度と、この幻影を見ることはできない。砂は、一度落ちればその記憶を永遠に失うのだ。

「集合的記憶……」

ミナトの口から、無意識に言葉がこぼれた。個人が忘れたいと願う記憶ではない。街が、世界が、忘れ去ろうとしている巨大な記憶の断片。世界の色彩を奪っている元凶。

この現象の正体を知りたい。突き動かされるように、ミナトは祖父が遺した手帳に記されていた、街の外れにある『水脈図書館』へと向かった。分厚い石の扉が、彼を待っていたかのように静かに開いた。

第三章 地下水脈の囁き

図書館の中は、古い紙と、そして微かな水の匂いがした。膨大な書架の迷路を抜けた先、最も奥まった閲覧室で、一人の男が彼を待っていた。

「ミナト君だね。お待ちしていたよ」

カイと名乗った男は、年の頃も分からない不思議な雰囲気を纏っていた。その瞳は、まるで静かな湖面のようだ。

「なぜ、俺の名前を……」

「君が見る夢について、そしてその砂時計について、少しばかり知識がある」

カイは動揺するミナトを促し、図書館の地下へと続く螺旋階段へと導いた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。辿り着いた先は、広大な地下空洞だった。そこには、無数の細い流れが岩盤を走り、所々で小さな泉を成していた。しかし、そのほとんどは干上がり、水面は淀んで輝きを失っている。

「これが、この地に生きた人々の記憶が眠る、地下水脈だ。故人の記憶はここに還り、新たな命の記憶の源となる。だが……」

カイは枯れた水脈の一つを指差した。

「世界の色彩が褪せているのは、この源泉が枯れつつあるからだ。人々の記憶の総量が減っている。特に、世界を支える太古からの『集合的記憶』が、何者かによって意図的に蒸発させられている」

カイの言葉は、ミナトが見た夢と幻影を、一本の線で結びつけた。

「誰が、そんなことを……」

「誰、ではない。この世界、そのものだよ」

第四章 破滅の輪廻

カイの言葉は、静かだが重く響いた。

「この世界は、何度も同じ過ちを繰り返してきた。戦争、災害、疫病……その度に文明は崩壊寸前まで追い込まれ、その『破滅の記憶』は強大な負の遺産として水脈の底に澱のように溜まっていった」

「……」

「世界は、自らを守るために、その負の記憶を消し去ることを選んだ。繰り返される破滅の輪廻を断ち切るためにね。それが、君が感じている集合的記憶の喪失の正体だ。世界の自浄作用だよ」

自浄作用。その言葉は、ミナトにとってあまりに冷たい響きを持っていた。

「だが」とカイは続けた。「痛みだけを都合よく消し去ることなどできはしない。火傷の記憶を消せば、火の扱い方を忘れるようにね。破滅の記憶と共に、そこから人類が学んだ教訓も、苦しみの中で生まれた絆も、誰かを守ろうとした愛の記憶さえも……全てが等しく蒸発していく」

その瞬間、ミナトの頭をハンマーで殴られたような衝撃が襲った。

忘れていたはずの光景が、奔流となって意識を飲み込む。燃え盛る家屋。降り注ぐ瓦礫。幼い自分を庇い、何かを叫ぶ両親の顔。それは、ミナト自身が忘れたかった、そして集合的記憶の喪失の波に飲まれて失いかけていた、彼自身の記憶だった。

「ああ……っ!」

自我が溶けていくような感覚。他人の夢と、集合的記憶と、自分自身の記憶が混濁し、境界が曖昧になる。強烈な苦痛に膝から崩れ落ちたミナトは、ようやく悟った。このままでは、世界だけでなく、自分という存在そのものが、薄っぺらな抜け殻になってしまうのだと。

第五章 選択の刻

息もできないほどの苦痛の中で、ミナトは一つの真理にたどり着いた。全ての記憶を無理矢理に留め置くことは、世界に再び破滅の呪いをかけることと同義だ。しかし、このまま全てが忘れ去られるのを待てば、世界は魂のない灰色の荒野と化すだろう。

どちらも、答えではない。

「……俺に、何ができる」

掠れた声で問いかけるミナトに、カイは静かに答えた。

「君の能力は、単に他人の悪夢を見るだけのものではない。それは、忘れ去られようとする記憶の『声』を聞き、その本質に触れる力だ。痛みも、悲しみも、全てを受け止めた上で、その中から未来へ繋ぐべき一筋の物語を選び取るんだ」

選び取る。その言葉が、ミナトの心に光を灯した。

彼は震える手で、懐の砂時計を強く握りしめた。砂はもう残りわずかだ。ミナトは目を閉じ、意識を記憶の奔流へと沈めていく。憎悪、絶望、悲嘆の濁流。だが、そのさらに奥深くで、彼は見つけた。

破滅の炎の中、差し出された手。瓦礫の下で、分け与えられた一杯の水。見ず知らずの他人が、互いを庇い合い、小さな命を守ろうとした、名もなき人々の絆の記憶。

それは、巨大な悲劇の記憶に比べれば、あまりに小さな、ささやかな光だった。だが、確かに未来へ繋ぐべき温かさを持っていた。

第六章 新たな物語の紡ぎ手

ミナトは、もはや他人の悪夢にただ苛まれるだけの存在ではなかった。彼は夢の中で、忘れ去られようとする記憶たちと対話する。悲劇の裏側に隠された小さな希望を、絶望の淵で生まれたひとかけらの愛を、丁寧に、慈しむように掬い上げていく。

そして、彼はそれを新たな物語として紡ぎ始めた。

彼の紡いだ物語は、詩となり、歌となり、人々の口伝えとなって、乾いた世界へと染み渡っていった。それは、人々の心に新たな「記憶の水」を静かに満たしていく。すると、洗い晒したようだった街の灰色に、ほんのりと夜明けの薄紫色が差し始めた。失われた色彩が、少しずつ、しかし確実に世界に戻りつつあった。

彼は全てを救ったわけではない。多くの悲劇の記憶は、世界の自浄作用によって、静かに忘却の彼方へと消えていった。痛みは和らぎ、過去の呪縛は解かれた。しかし、その痛みの中から生まれた小さな光だけは、ミナトという新たな語り部によって、確かに未来へと繋がれたのだ。

ミナトは、夜明けの丘の上から街を見下ろしていた。かつての色褪せた風景ではない。水彩絵の具をそっと落としたような、淡い色彩に満ちた世界がそこにはあった。

彼の傍らには、砂が完全に落ちきった砂時計が静かに置かれている。もうそれに頼る必要はない。

彼自身が、忘れ去られた記憶の中から真実を見出し、未来へと物語を定着させる、唯一無二の存在となったのだから。風が彼の頬を撫で、遠い昔の誰かの、優しい歌声を運んでくるようだった。


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