第一章 肩に積もる鉛
カイの肩には、いつも見えない鉛が積もっていた。それは他人の「諦め」の重さだった。夢を断念した老人の背中からは鈍い圧力が、恋を諦めた少女の吐息からは冷たい質量が、彼の身体にのしかかる。だからカイは、街の喧騒を避けるように、埃と古い木の匂いが満ちる古道具屋の奥で、息を潜めて生きていた。
世界の空気が張り詰める時期が、またやってきた。数日に一度訪れる『記憶の波』。それは街の色を洗い流し、人々の直近の記憶を根こそぎ奪い去る、静かな嵐だ。波が過ぎ去った朝、世界には失われた記憶の代わりに、淡い『感情の痕跡』だけが残される。喜びは薄い黄金色に、悲しみは滲んだ藍色に、街の空気を染め上げる。人々はその色を無意識に感じ取り、新たな一日を始めるのだ。
「こんにちは」
鈴の鳴るような声に、カイは我に返った。入口に立つ少女、リナ。彼女だけが、この重たい世界で不思議なほど軽やかだった。彼女の魂には、諦めの澱みがほとんどない。
「また、このオルゴールを見に来たの」
リナは店の隅にある、古びたメロディオルゴールを指さした。蓋には月の満ち欠けが描かれ、所々塗装が剥げている。ゼンマイを巻いても、奏でられるのは途切れ途切れの、どこか音程の狂った不協和音だけだった。
「壊れているのに、なぜか気になるの。聴いていると、忘れてしまった何かを思い出せそうな気がして」
彼女がそう言って微笑むと、カイの肩の鉛がほんの少しだけ軽くなる気がした。だが、窓の外では、空が奇妙な乳白色に染まり始めていた。記憶の波が、すぐそこまで迫っている。その気配は、金属が錆びていくような、微かな匂いを伴っていた。
第二章 軋むメロディ
波が過ぎ去った。
目覚めたカイの目に映る世界は、昨日とは違う色彩を纏っていた。街角には、愛情の名残である淡い薔薇色が漂い、公園のベンチには、孤独の痕跡である灰色の靄がかかっている。人々は失われた数日間の記憶を気にすることもなく、まるで脚本を渡された役者のように、その日の感情の色に従って動き出す。
カイは店のカウンターで、あのオルゴールを手に取った。ゆっくりとゼンマイを巻く。カチ、カチ、と乾いた音が響き、そしてメロディが流れ出した。
昨日よりも、さらに音のズレが酷くなっている。いくつかの音が抜け落ち、まるで歯の欠けた櫛で旋律を梳くようだ。この軋むような不協和音は、失われた記憶の断片そのものだと、カイは直感していた。波によって歪められた『感情の痕跡』の写し鏡なのだ。
店のドアが開いた。リナだった。
「こんにちは……」
その声には、昨日のような弾む響きがない。彼女はカイから少し距離をとり、戸惑ったように店内を見回している。カイは、彼女の肩に、これまで感じたことのない微かな、しかし確かな重みを感じ取った。それはまるで、湿った砂粒ほどの、小さな小さな諦めだった。
なぜだ? 記憶の波が来るたびに、彼女との間に見えない壁が生まれていく。オルゴールの狂ったメロディが、その壁の正体を囁いているようだった。
第三章 色褪せた約束
カイは確信を深めていた。記憶の波は、ただ記憶を消し去るだけではない。残された『感情の痕跡』を、巧みに書き換えているのだ。
街を歩けば、その証拠は至る所に転がっていた。昨日まで肩を組んで笑い合っていた二人の若者が、今朝は互いに目を伏せ、冷たい沈黙を纏っている。彼らの間には、裏切りの感情を示す、錆びた鉄のような色の痕跡が漂っていた。彼らは何を忘れ、何を書き換えられたのか。
カイは店に戻り、何度もオルゴールを鳴らした。狂ったメロディの断片を繋ぎ合わせ、失われた物語を再構築しようと試みる。このメロディは、きっと若者たちが交わした「友情の約束」が、波によって「果たされなかった期待」という名の諦めにすり替えられたことを示しているのだ。
リナとの関係も同じだった。波が来るたびに、オルゴールのメロディは彼女との間にあったはずの親密さを削り取り、代わりにぎこちない遠慮の旋律を加えていく。彼女の肩にかかる重みは、訪れるたびに少しずつ増していく。まるで、カイ自身が彼女を重くさせているかのように。
このままでは、いつか彼女も、街の他の人々と同じように、重い諦めを背負って生きるようになってしまう。その考えは、鋭い氷の欠片のようにカイの胸に突き刺さった。世界の法則が、カイから唯一の軽やかささえも奪おうとしている。その理不尽な重圧に、カイ自身の肩が軋み始めた。
第四章 世界の中心で鳴る音
空が燃えるような深紅色に染まり、観測史上最大級の『記憶の波』が到来するという予報が街に流れた。人々はただ、なすすべもなくその時を待っている。カイは、今度の波が来れば、リナとの繋がりは完全に断ち切られ、彼女の魂も鉛の重みに覆われてしまうだろうと予感していた。
焦燥に駆られたカイは、店中の古道具をひっくり返し、オルゴールの構造を調べていた。そして、見つけた。ゼンマイのさらに奥、心臓部とも言える小さな歯車の中心に、自分自身の肩にのしかかるものと全く同じ性質の、凝縮された『重み』が核のように存在しているのを。
このオルゴールは、世界の歪みと繋がっている。
「行かなくちゃ」
カイはオルゴールを掴み、店の外へ飛び出した。目指すは、街で最も高い古い時計塔。なぜか、波の中心はいつもそこだと感じていた。
「待って!」
背後からリナの声がした。彼女の瞳には、記憶を失う前の戸惑いと、何かを思い出しかけているような強い光が宿っていた。彼女もまた、この世界の異変の核心に、無意識に引き寄せられていたのだ。
二人は螺旋階段を駆け上がり、時計塔の頂上へ辿り着いた。眼下には、波の到来を前に静まり返った街が広がっている。巨大な波が、地平線の彼方から音もなく押し寄せてくるのが見えた。
カイは天にオルゴールを掲げた。世界が白光に包まれる瞬間、オルゴールの軋むメロディが、まるで共鳴するかのように世界の律動と重なり合った。カイの意識は奔流に呑まれ、彼はこの世界の創生と、その深淵に横たわる巨大な悲しみの記憶を幻視した。
第五章 諦めの奔流、希望の器
カイが見たのは、絶望の光景だった。かつてこの世界は、数えきれない人々の「諦め」の重さに耐えきれず、崩壊しかけていた。夢、希望、愛情…その全てが諦めの泥に沈み、世界そのものが死を迎えようとしていたのだ。
『記憶の波』は、その崩壊を防ぐために世界自身が生み出した、無意識の自己修復システムだった。それは定期的に人々の記憶と共に、そこに付随する「諦め」の感情を洗い流し、浄化する。残された感情の痕跡を書き換えていたのは、人々が再び同じ諦めに至らぬよう、関係性を安全な形に再配置する、苦肉の策だったのだ。
だが、浄化システムにも限界があった。洗い流し、消し去ることのできなかった、あまりにも濃く、重い「諦め」の残留物。それこそが、カイがずっと感じてきた重みの正体だった。
そして、カイは究極の真実を知る。
彼自身が、その浄化されなかった全ての「諦め」を、世界から隔離するために凝縮され、生み出された存在だった。彼は最後の毒を一手に引き受けるための器であり、世界に残された最後の『諦め』の塊そのものだったのだ。
リナが軽やかだったのは、カイが彼女の周りの諦めを無意識に吸い寄せていたから。そして、波が来るたびに彼女との関係が重くなったのは、浄化システムが、世界の『諦め』の器であるカイと、純粋な希望に近い彼女との強い結びつきを危険と判断し、引き剥がそうとしていたからだった。
全てを理解したカイの前に、道は二つだけ示された。このまま器として存在し続け、いずれは世界の重みに耐えきれず、リナをも巻き込んで崩壊するか。あるいは、自らがシステムそのものとなり、この世界から「諦め」という概念を、永遠に消し去るか。
第六章 名もなき光のプレリュード
時計塔の頂上で、カイは隣に立つリナを見つめた。彼女の瞳は、世界の真実を垣間見た恐怖と、それでもカイを信じようとする光で揺れていた。
「君の軽やかさが、僕の唯一の救いだった」
カイはそっと微笑んだ。その言葉も、彼の存在も、間もなく世界から消え去る。
彼はオルゴールを胸に抱き、自らの存在を解放した。彼の身体はまばゆい光の粒子となり、世界を包み込む記憶の波へと溶けていく。肩に積もっていた鉛の重みが、生まれて初めて、温かい希望のエネルギーへと昇華されていくのを感じた。それは、苦痛ではなく、安らかな解放だった。
光は世界中に広がっていく。人々の心から、「諦め」という感情の痕跡が、その言葉の意味さえもが、綺麗に消え去っていく。街角で言い争っていた恋人たちは、なぜ争っていたのかを忘れ、ただ互いを愛おしく思う気持ちだけが残った。夢に破れた若者は、挫折の記憶を失い、新たな可能性に胸をときめかせた。
世界は、永遠の幸福に満たされた。
時計塔の下で、リナは空を見上げていた。なぜか頬を涙が伝うが、その理由がわからない。ただ、世界が信じられないほど軽く、美しく見えた。空から降ってくる光が、とても優しいと感じた。
その時、彼女の手の中にあった古いオルゴールが、ひとりでに澄み切ったメロディを奏で始めた。それは、欠けることのない完璧な旋律。
誰にも知られることのない、一人の青年が世界に贈った、希望の前奏曲だった。