第一章 失われた最後の欠片
柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、琥珀色の夕陽が満たす妻の記憶の中でだけ、完璧だった。
彼の部屋の空気は、いつもよどんでいる。遮光カーテンは一日中閉め切られ、床にはデータストレージの空箱が散乱していた。唯一、清浄な光を放つのは、部屋の中央に鎮座する没入型記憶再生装置《ダイブ・ギア》のコンソールだけだ。湊は、この三年、現実のほとんどをこの機械の中で生きてきた。
三年前、妻の沙耶(さや)が突然の事故でこの世を去ってから、湊の時間は止まった。かつては最先端の記憶技師として、人の記憶を抽出し、編集する仕事をしていた彼だったが、今はその技術を、ただ一つ、失われた妻の面影を追い求めるためだけに使っていた。
記憶がデジタル化され、売買されるのが当たり前になったこの時代、人の死は完全な喪失を意味しなくなった。故人が生前に記録した記憶《ライフログ》は、遺品として、あるいは商品として市場に出回る。湊は、職を辞し、貯えを切り崩しながら、闇市場に流出した沙耶の記憶データを買い集めることにすべてを捧げていた。
朝食のトーストを焦がしてはにかむ笑顔。雨上がりの公園で、虹を見上げて弾ませた声。喧嘩した翌日、気まずそうに差し出されたマグカップの温もり。断片的な記憶を繋ぎ合わせるたび、沙耶は湊の中で息を吹き返す。しかし、それは同時に、決して取り戻せない過去を突きつける刃でもあった。
「見つかりましたよ、柏木さん」
モニターに表示されたメッセージに、湊の心臓が大きく跳ねた。送り主は、裏社会の情報屋だ。
「探し物の件です。『S.K.のロスト・メモリ』。事故当日の朝、彼女が最後に記録したメモリです」
湊は息を飲んだ。探し続けていた、最後のピース。沙耶が死の直前、何を思い、何を見ていたのか。それが分かれば、この三年間の空虚が埋まるかもしれない。まるでパズルの最後のピースをはめ込むように、彼の沙耶の記憶が完成するはずだ。
だが、情報屋が提示してきた金額は、常軌を逸していた。湊の全財産を投げ打っても、まだ足りない。
『どうします? このメモリを欲しがっている蒐集家は、他にもいる』
湊は震える指でキーボードを叩いた。迷いはなかった。
「買います。必ず」
彼は自分の記憶を売る決意をした。記憶技師として成功を収めた栄光の日々、若き日の情熱、父から受け継いだ大切な思い出。沙耶と出会う前の、彼を形作ってきた記憶の数々。それらすべてを売り払い、空っぽの器になったとしても、沙耶の最後の記憶が手に入るなら、それでよかった。
湊はダイブ・ギアのヘッドセットを装着した。彼の意識は、現実の薄暗い部屋から、陽光が降り注ぐ三年前の海辺へと飛んだ。裸足で砂浜を駆ける沙耶が、振り返って笑いかける。
「湊、早く!」
その声、その笑顔。それが彼のすべてだった。この完璧な世界を完成させるためなら、どんな代償も厭わない。湊は、自分の過去を切り売りする覚悟を、固く、固く決意した。
第二章 過去を売る男
湊の自己破壊的な記憶売却が始まった。彼はまず、記憶技師として国際的な賞を受賞した日の記憶から手放した。壇上でスポットライトを浴びた高揚感、鳴りやまない拍手、そして胸に輝くメダルの重み。それらは数瞬のデジタルノイズに変換され、匿名のバイヤーの元へと送られていった。記憶を失った後、彼の本棚に飾られたトロフィーは、ただの冷たい金属の塊にしか見えなくなった。
次に、彼は亡き父と最後に交わした会話の記憶を売った。病床の父の、皺だらけだが温かい手。掠れた声で託された「幸せになれ」という言葉。その記憶が消えた瞬間、湊の胸にはぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き抜けた。
「正気か、湊。それはお前自身の一部じゃないか」
親友の悠人(ゆうと)が、湊の部屋を訪ねてきて声を荒げた。悠人は今も現役で活躍する記憶技師で、湊の才能を誰よりも惜しんでいる男だった。
「沙耶さんのことを想う気持ちは分かる。だが、これは違う。自分を消してどうするんだ」
「悠人には分からないさ」湊は虚ろな目で応えた。「俺には、もうあれしか残ってないんだ。沙耶のいない現実は、俺にとって価値がない」
「データの中の彼女は本物じゃない! それはただの電気信号の残響だ。お前が本当に向き合うべきなのは、お前の心の中にいる、不完全で、少しずつ薄れていく、だけど本物の沙耶さんだろう!」
悠人の言葉は、正論だった。だが、今の湊には届かない。彼は、薄れていく記憶の儚さに耐えられなかったのだ。完璧な形で保存されたデータこそが、永遠の証だと信じていた。
湊は次々と自分の過去を売り払った。初めて自転車に乗れた日の達成感。大学の卒業式で仲間と肩を組んで歌った校歌。沙耶と出会う前の、孤独だが希望に満ちていた青春の日々。記憶が一つ消えるたびに、湊という人間の輪郭は曖昧になり、感情の起伏も乏しくなっていった。彼は、沙耶の記憶を迎え入れるための、空っぽの器になろうとしていた。
数週間後、情報屋から連絡が入った。要求された金額が、ついに湊の手元に用意できた。取引場所は、旧市街の廃棄されたデータバンクだという。
湊は、ほとんど空になった自分のデータストレージを撫でた。かつては彼の人生そのものであった記憶のライブラリは、今や沙耶の記憶データで埋め尽くされている。そして、その最後の空白を埋めるためのピースが、もうすぐ手に入る。
彼はふらつく足で立ち上がり、コートを羽織った。窓の隙間から差し込む一筋の光が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。それはまるで、過去の自分が流した涙のように見えた。
第三章 さよならの再生
錆びついた鉄の扉が、軋みながら開いた。取引は滞りなく終わった。湊の指先には、指輪のケースほど大きさの、白銀に輝くデータチップが握られていた。沙耶の『ロスト・メモリ』。これが、彼の旅の終着点だった。
自宅に戻る足取りは、まるで夢の中を歩いているようだった。逸る気持ちを抑え、彼は厳かな儀式のようにダイブ・ギアの電源を入れる。起動音が静かな部屋に響き渡った。
チップをスロットに差し込む。認証完了の電子音。湊はゆっくりとヘッドセットを装着し、目を閉じた。意識が現実から乖離していく感覚。全身が柔らかな光に包まれ、そして――世界が構築された。
しかし、そこは湊が予想していた場所ではなかった。海辺でも、公園でも、二人の思い出のカフェでもない。見渡す限り、真っ白な壁と天井。消毒液の匂いが鼻をつく。病室だった。
そして、ベッドの上に、沙耶が横たわっていた。彼女は、湊の知る沙耶よりも少し痩せ、顔色も悪かったが、紛れもなく沙耶だった。彼女はカメラ――つまり、この記憶の記録者である自分自身――に向かって、穏やかに微笑みかけた。
『見てる? 湊』
その声は、湊の鼓膜ではなく、脳に直接響いた。
『ごめんね、湊。あなたに黙っていたことがあるの』
沙耶の言葉に、湊の思考が停止する。何のことだ? 事故は突然だったはずだ。
『あの事故、ただの事故じゃなかった。本当は、病気だったの。ずっと前から。あなたの海外出張中に、運転中に発作が起きて……。あなたに心配をかけたくなくて、ずっと隠してた。本当にごめん』
湊は声にならない悲鳴を上げた。知らなかった。なぜ、なぜ言ってくれなかったんだ。後悔と罪悪感が、津波のように押し寄せる。
だが、沙耶の告白はそこで終わらなかった。彼女は、さらに衝撃的な事実を口にした。
『あなたに、もう一つ、伝えなきゃいけないことがある。あなたとの幸せな記憶は、すべて売りました』
「……え?」
湊の理解が追いつかない。何を言っているんだ、この人は。
『あなたが私の記憶を集めてくれることは、分かってた。あなたはそういう人だから。でもね、湊。私は、あなたに過去を生きてほしくない。私が死んだ後も、あなたはあなたの人生を歩んでほしい。だから、私たちの思い出は、私が手放すことにしたの。あなたが、前を向けるように。あなたを過去に縛り付けたくないから』
湊が今まで血眼になって買い集めてきた、かけがえのない宝物だと思っていた記憶の数々。あれはすべて、沙耶自身が、湊を解放するために市場に流したものだったのだ。愛ゆえの、あまりにも残酷な裏切り。
『この記憶も、私が死んだら自動的に売却されるように、悠人さんにお願いしてあるの。彼なら、きっとあなたを支えてくれる』
沙耶の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
『これが、あなたへの最後の我儘。どうか、私のことは忘れて、前を向いて生きて。あなたと過ごした時間は、データなんかじゃなく、私の心にちゃんとあるから。それで十分。……愛してるわ、湊。さよなら』
映像が途切れ、世界がノイズに包まれる。湊の意識は、薄暗い自室へと強制的に引き戻された。ヘッドセットを外すと、頰を冷たいものが伝っていた。涙だった。
彼は、自分が追い求めていたものが、砂上の楼閣だったことを知った。愛だと思っていた行為は、沙耶の願いを踏みにじる自己満足に過ぎなかった。彼は沙耶を救おうとしていたのではなく、沙耶の記憶という檻に、自分自身を閉じ込めていただけだったのだ。
床に散らばるデータストレージが、今はただのガラクタに見えた。彼の世界は、音を立てて崩れ落ちた。
第四章 心に灯る残響
どれほどの時間が経っただろうか。湊は、床に座り込んだまま、動けずにいた。部屋には静寂だけが満ち、壁一面に並べられた沙耶の記憶ストレージが、まるで墓標のように見えた。
そのとき、静かにドアが開いた。悠人だった。彼は何も言わず、湊の隣に腰を下ろした。
「……見たんだな」
「……ああ」
湊は、かろうじてそれだけを口にした。
「すまなかった。彼女との約束だったんだ。お前が最後のメモリを手に入れたら、本当のことを話すつもりだった」
「なんで……なんで彼女は……」
「お前を愛していたからだ」悠人は、きっぱりと言った。「彼女は、お前が自分の死に囚われて、未来を失くしてしまうことを一番恐れていた。だから、自分の手で思い出を断ち切った。お前を自由にするために」
自由。なんと皮肉な言葉だろうか。湊は、沙耶の記憶という鎖に、自ら喜んで繋がれてきたというのに。
「俺は、どうすればよかったんだ……」
「彼女は、データの中じゃなく、お前の心の中に生きていてほしかったんだよ」悠人は、湊の肩を叩いた。「データは劣化しない。完璧なままだ。でも、人の記憶は違う。忘れたり、間違って覚えたり、美化したりもする。不完全で、曖昧で、でも……温かいだろう? それが、人が生きているってことなんだ。彼女は、お前に生きてほしかったんだよ」
悠人の言葉が、湊の凍りついた心に、じんわりと染み込んでいく。
湊は、ゆっくりと目を閉じた。ダイブ・ギアは使わない。ただ、自分自身の力で、記憶を辿る。
思い出すのは、沙耶と初めて出会った日。雨宿りした古本屋の軒先。彼女の濡れた髪の匂い。
思い出すのは、プロポーズした夜。緊張で震える声と、驚きと喜びに潤んだ彼女の瞳。
思い出すのは、何でもない日常。二人で並んで歯を磨いた朝の、少し眠たい時間。
それらは、データのように鮮明ではない。細部は曖昧で、ところどころ虫食いだ。しかし、そこには確かに、温かい感情の残響があった。データには記録されない、肌触りや、空気の匂いや、心の震えが。
沙耶は正しかった。大切なのは、完璧な記録ではない。不完全に揺らぎながらも、心の中で生き続ける温かい光なのだ。
湊は、静かに立ち上がった。そして、壁のデータストレージの一つを手に取ると、初期化のボタンに指をかけた。
「湊……?」
「彼女の願いを、叶えなきゃな」
湊は、微笑んでいた。三年間、忘れていた笑顔だった。彼は、一つ、また一つと、沙耶の記憶データを消去していく。それは喪失ではなく、解放の儀式だった。琥珀色の夕陽も、雨上がりの虹も、彼の心の中にあるだけで十分だった。データという檻から、沙耶を、そして自分自身を解き放つ。
すべてのデータを消し終えたとき、部屋には朝日が差し込み始めていた。湊は、三年間閉ざしていたカーテンを、勢いよく開けた。眩しい光が部屋に溢れ、埃っぽい空気を浄化していく。
彼は窓を開け放ち、夜明けの冷たく新鮮な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
彼の心の中では、沙耶が振り返って、あの頃と同じように笑いかけていた。それはもう、再生されたデータではない。彼の心にだけ灯る、永遠の残響だった。
記憶技師に、戻ろう。今度は、誰かを過去に縛り付けるためじゃない。誰かが未来へ踏み出す、その背中を押すために。
湊は、新しい朝に向かって、確かな一歩を踏み出した。