忘れられたソリチュードと、君の過去
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忘れられたソリチュードと、君の過去

第一章 無重力の少女

この街の人々は、誰もが過去を背負って生きている。それは比喩ではない。後悔は鉛のように重く、未練は錆びた鎖となって肩に食い込む。人々は皆、古びた革鞄や木箱といった物理的な「荷物」として、自らの過去をその背に負っているのだ。

私、澪(ミオ)の背中には、何もない。

生まれた時から持つこの奇妙な能力のせいだ。私が誰かと話しても、触れ合っても、数時間もすればその人の記憶から私の存在は綺麗に消え去る。まるで水面に描いた絵のように。だから私の過去はどこにも堆積せず、私の背負うべき荷物は生まれない。風が吹けば飛ばされてしまいそうな、無重力の孤独。それが私のすべてだった。

石畳の広場を、重そうな荷物を引きずる人々が行き交う。荷物から漏れ聞こえる微かな泣き声や、軋む鎖の音。そんな喧騒の中で、私だけが音もなく、影もなく、世界から浮遊している。

「また、そんな寂しそうな顔をしてる」

不意に声をかけられ、振り返る。そこにいたのは、陽(ハル)だった。彼だけが、この世界で唯一、私を忘れない人間だった。彼の背中には、歳の割に不釣り合いなほど大きく、使い古された画材ケースが重々しく鎮座している。彼が歩くたび、地面がかすかに軋む音がした。

「寂しそうに見える?」

「見えるよ。世界で一番軽いのに、世界で一番重いものを探してる顔だ」

陽はそう言って、悪戯っぽく笑った。その笑顔を見るたび、私の無重力の世界に、ほんの一瞬だけ、確かな重力が生まれる気がした。

第二章 空白のノート

広場の隅にあるカフェのテラス席。陽はいつも、スケッチブックではなく、一冊の古びたノートを広げていた。革の表紙は擦り切れ、タイトルも何も書かれていない、ただの「空白のノート」。

「何を書いてるの?」

「君のことだよ」

彼はペンを走らせながら答える。私が昨日話したこと、食べたもの、笑った時の些細な癖。まるで忘却に抗う儀式のように、彼は私たちの時間をそのノートに刻みつけていた。

「どうして、陽だけが私を覚えているの?」

何度も繰り返した問い。陽はいつも、少し困ったように眉を下げて、こう答えるのだ。

「さあ、どうしてだろうね。でも、僕が忘れたら、君は本当にこの世界から消えてしまいそうだから」

彼がノートにインクを落とす。すると、書き込まれた文字の周りのページが、まるで星屑を振りまいたかのように、一瞬だけ淡い光を放って消えた。それは私と彼だけが知る秘密の奇跡だった。ノートは、表紙を開けば次のページも、その次のページも、まるで何も書かれていないかのように真っ白に見える。だが、インクが触れた場所だけが、確かに「過去」の存在を主張していた。

カフェのテーブルに置かれたシュガーポットの硬い感触、遠くで鳴り響く鐘の音、そして陽が使うインクの微かな香り。彼と共にいる時間だけが、私の五感に確かな輪郭を与えてくれた。

第三章 過去の影

季節が移ろうにつれて、陽が背負う荷物は目に見えて重くなっていった。以前は聞こえなかった軋む音が常に彼の歩みに付きまとい、その肩は荷物の重みで痛々しいほど下がっている。息遣いは荒く、額にはいつも汗が滲んでいた。

「荷物、重くなったんじゃない?」

ある日、たまらずに尋ねると、彼は一瞬動きを止め、わざと明るい声で答えた。

「そうかな? 最近、昔のことで悩むことが多くてね。僕の過去は、ちょっと厄介なんだ」

彼の瞳の奥に、深い疲労と、私には窺い知れない影が揺らめいていた。彼を苦しめる「過去」とは何なのだろう。私には、彼を助ける術がない。背負うべき過去を持たない私は、他人の荷物の重さを本当の意味で理解することも、ましてや軽くしてあげることもできないのだから。

彼の荷物に手を伸ばしかけて、私はその指を引っこめた。触れる資格がない気がした。風に揺れる柳のように頼りない私と、大地に根を張る大木のように重く、動けない彼。二人の間には、埋めようのない溝が横たわっているようだった。

第四章 崩れ落ちる現在

その日は、冷たい雨が街を濡らしていた。私たちは、いつものように広場を歩いていた。その時だった。

ガシャン、と金属が砕けるような鈍い音と共に、陽が膝から崩れ落ちた。彼の背中の画材ケースが、限界を超えた重さで石畳に叩きつけられる。ケースの隙間から、まるで押し殺された悲鳴のような、無数の声が微かに漏れ出ていた。

「陽!」

駆け寄る私に、彼は喘ぐような呼吸を繰り返しながら、顔を歪めて言った。

「ごめん…もう、立てないかもしれない…」

彼の荷物は、もはやただの「過去」ではなかった。それは、彼自身の存在を押し潰そうとする、巨大な呪いのように見えた。

「どうして…どうしてこんなに重いの!?」

雨に打たれながら、陽はゆっくりと真実を告白した。

「…君が、忘れられるたびに…その記憶の欠片が、僕の荷物に積もっていくんだ」

「え…?」

「君と出会ったあの日から、ずっと。君という存在が世界から消されるたびに、その痕跡が、僕の過去に降り積もる。僕が君を忘れられないのは…君の『過去』を、僕が全部、背負っていたからなんだ」

彼の言葉が、冷たい雨粒となって私の心を穿った。私の空白は、彼の重力になっていた。私の無重力は、彼の自由を奪っていた。私が軽やかでいられたのは、彼が私の代わりに、すべての記憶の重さに耐えてくれていたからだったのだ。

第五章 決断の夜

私は決めた。雨に濡れた石畳の上で、動けなくなった彼を見下ろしながら、静かに、しかし揺るぎない意志で決めたのだ。

「その荷物、私にちょうだい」

「…何を、言ってるんだ…?」陽は信じられないという顔で私を見上げた。「駄目だ、ミオ。君は『過去』の重さを知らない! 一度背負ったら、もう二度と、昔の君には戻れないんだぞ!」

彼の制止の声は、雨音にかき消されそうだった。私は彼の前に屈み込み、その冷たい手を握った。

「あなたのいない『今』を軽やかに生きるくらいなら、あなたと生きた『過去』の重さを背負いたい」

私の瞳に映る決意を見て、陽は言葉を失った。私は知っている。過去とは、ただ重いだけのものではない。それは痛みと共に、温もりや愛おしさを内包している。私が今まで手に入れることのできなかった、人間であることの証なのだ。

私はゆっくりと立ち上がり、彼の背中にある、巨大な画材ケースへと手を伸ばした。

第六章 重力の夜明け

私の指先が、彼の荷物に触れた瞬間。

世界が反転した。

膨大な記憶の奔流が、私の内に雪崩れ込んでくる。カフェの店主との何気ない会話。公園で出会った子供の笑顔。本屋で立ち読みした物語の一節。陽と交わした数えきれない言葉、視線、沈黙。それらすべてが、忘れ去られたはずの「私の過去」として、鮮烈に蘇る。痛み。喜び。悲しみ。愛おしさ。感情の濁流が、空っぽだった私の器を満たしていく。

「――っ!」

息が詰まるほどの重みが、私の背中にのしかかった。初めて感じる、確かな「過去」の重力。それは、私がこの世界に確かに存在していたという、何よりの証だった。

ふと顔を上げると、陽が軽々と立ち上がっていた。彼の背中からは荷物が消え、その表情は信じられないほど晴れやかだった。だが――彼の瞳から、私を映していた光が、すぅっと消えていくのが見えた。

彼は、戸惑ったように私を見つめ、そして、尋ねた。

聞いたことのない、他人行儀な声で。

「あの…君は、誰?」

第七章 見慣れない人

私は初めて「過去」を手に入れ、もう二度と、誰からも忘れられることのない存在になった。

その代償に、世界でたった一人、私を覚えていてくれたはずの人が、私のすべてを忘れてしまった。

陽の足元に、あの「空白のノート」が落ちていた。雨に濡れたそれを拾い上げ、開いてみる。真っ白だったはずのページは、今や端から端まで、淡く輝く文字でびっしりと埋め尽くされていた。

『彼女は今日、初めて見る花の名前を知りたがった』

『彼女の笑い声は、古い鈴の音に似ている』

『どうか、明日も僕が彼女を覚えていますように』

それは、陽だけが覚えていてくれた、私の物語。私が背負うことになった、温かくて、ひどく重い、私の過去そのものだった。

私はノートを胸に抱きしめ、初めて私を「見慣れない人」として見る彼に、静かに背を向けた。

石畳を踏みしめる。一歩、また一歩。背中にのしかかる過去の重みは、決して心地よいものではない。けれど、もう私は、風に消えることはない。

この重さを抱いて、失われた「今」の先にある未来へと、私は歩き出す。たとえ、その道がどれほど長く、孤独なものであっても。

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