忘れられた空のひとかけら
第一章 蒼い残響
リオの指先は、いつも少しだけ冷たかった。それは、忘れ去られた感情の欠片に触れる宿命のせいかもしれない。霧雨が石畳を濡らす旧市街の路地裏、錆びた街灯が頼りなく光を落とすその根元に、それはあった。夜光虫のように淡く、しかし確かな存在感を放つ蒼い結晶。彼はそれを『思念の結晶』と呼んでいた。
膝をつき、そっと指でつまみ上げる。氷のかけらのように冷たい。だが、ただの冷たさではない。それは、誰かが『忘却の泉』に捧げたはずの、悲しみの残滓だった。
目を閉じ、結晶を世界樹の枝で作られた古びた小瓶に近づける。すると、結晶は吸い込まれるように小瓶の中へと落ち、内側から幽かな光を放った。途端に、リオの脳裏に知らない光景が流れ込む。窓辺に座る女性のうなじ。彼女の肩が微かに震え、一粒の涙が頬を伝う。言葉にならない喪失感が、皮膚を粟立たせるようにリオの全身を駆け巡った。それはほんの数秒の幻。だが、その感情の重みは、まるで何年も彼の内にあったかのように生々しかった。
人々は忘れることで世界を保つ。大切な記憶、強すぎる感情。それらを定期的に街の中心にある『忘却の泉』に捧げることで、この世界の物理法則は安定を保つと、誰もが信じて疑わなかった。だが、そのシステムから零れ落ちた雫が、こうして結晶となって現れることを知る者は少ない。リオは、その忘れられた感情の収集者だった。
第二章 囁く結晶
最近、何かがおかしかった。『思念の結晶』の出現頻度が、明らかに増しているのだ。市場の喧騒の中、パン屋の店先で焼きたての小麦の香りに混じって輝く黄金色の結晶。図書館の古書の間に挟まれた、知的好奇心を思わせる紫紺の結晶。それらは、かつては数ヶ月に一度見つかるかどうかという稀有なものだった。
リオは小瓶を握りしめ、街を彷徨った。結晶に触れるたび、様々な感情が彼を通り過ぎていく。喜び、怒り、愛おしさ。だが、そのどれもの奥底に、奇妙な共通点が潜んでいた。それは、空が裂ける音、大地が呻く振動、何かが根底から覆るような、途方もない『恐怖』の断片だった。
ある日、広場の噴水の縁で、ひときわ大きく、血のように赤い結晶を見つけた。激しい怒りの結晶だ。リオがそれに触れた瞬間、視界は真紅に染まった。
「なぜだ! なぜ我々は忘れなければならない!」
男の絶叫が鼓膜を突き破る。燃え盛る街。空には亀裂が走り、そこから黒い何かが溢れ出している。人々は逃げ惑い、建物は砂のように崩れていく。
「偽りの安定など!」
ビジョンはそこで途切れ、リオは激しく咳き込んだ。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。人々が捧げているのは、ただの記憶ではない。この世界が信じている『安定』そのものを揺るがす、何か途方もない過去の記憶なのではないか。小瓶の中の結晶たちが、まるで呼応するかのように一斉に明滅した。
第三章 均衡の番人
彼の異質な行動は、やがて世界の監視者の目に留まった。ある夜、泉へと続く道を歩いていると、純白のローブをまとった人物が静かに彼の前に立ちはだかった。
「『調律師』カイと申します」
穏やかな声だったが、その瞳は氷のように鋭くリオを射抜いていた。
「あなたが収集しているものを、見せていただけますか」
拒否はできなかった。リオが恐る恐る小瓶を差し出すと、カイはそれを手に取ることなく、ただじっと見つめた。小瓶から漏れる光が、カイの顔に複雑な陰影を落とす。
「それは禁忌の欠片。世界の調和を乱す不協和音だ」
「教えてください。この結晶が示す過去は一体何なのですか。なぜ、忘れたはずの記憶が溢れている?」
リオの問いに、カイは静かに首を振った。
「忘却こそが我々の救済。真実は時として、存在そのものを破壊する毒になる。これ以上、過去を掘り起こすのはおやめなさい。世界のために」
カイの言葉は重く、抗いがたい力を持っていた。世界の均衡を守る番人。その警告は、リオの心に深い葛藤を生んだ。偽りの平穏か、それとも破滅を招くかもしれない真実か。彼は答えを出せないまま、ただ白いローブの背中が闇に消えていくのを見送ることしかできなかった。
第四章 満ちる小瓶
警告は、むしろリオの探求心に火をつけた。カイが隠そうとする真実とは何なのか。その答えは、全ての始まりの場所にあるはずだった。彼は『忘却の泉』へと向かった。
月明かりの下、泉は静かに水を湛え、幻想的な光を放っていた。人々が記憶を捧げるその水面は、まるで星空を逆さまにしたようにきらめいている。その泉のほとり、水際に手を伸ばせば届きそうな場所に、今まで見たこともないほど巨大な結晶が鎮座していた。それは虹色に輝き、あらゆる感情が混ざり合った、万華鏡のような光を放っていた。世界の、始まりの記憶。
リオは覚悟を決めた。カイの警告が脳裏をよぎるが、もう引き返せなかった。震える指で、その虹色の結晶に触れる。
その瞬間、世界が音を立てて砕け散った。
腰の小瓶が灼熱を帯び、今まで集めた全ての結晶が共鳴し、一つの奔流となってリオの意識を飲み込んでいく。
――赤い空。大地を覆う機械の残骸。天を突く塔はへし折れ、海は黒く淀んでいる。これは、リオの知る世界ではない。絶望に染まった人々の顔。そして、彼らが見上げる空に浮かぶ巨大な球体。それが『忘却の泉』の真の姿だった。それは、崩壊した現実から人々を救い出すための、最後の箱舟だったのだ。
第五章 忘却の真実
流れ込む記憶の洪水の中で、リオは全てを理解した。
この世界は、現実ではない。
かつて、人類は自らが作り出した技術によって、現実世界を修復不可能なまでに破壊してしまった。生き残ったわずかな人々は、その精神だけでも救おうと、巨大な仮想空間『アルカディア』を創造した。それが、今リオたちが生きているこの世界だった。
そして『忘却の泉』とは、世界の物理法則を安定させるための装置などではなかった。それは、崩壊した現実の記憶という耐えがたいトラウマから人々を守り、同時に仮想世界を維持するための巨大なサーバー兼、記憶消去システムだったのだ。人々が捧げていたのは記憶ではない。仮想世界を維持するための精神エネルギーと、システムにエラーを引き起こす強すぎる『感情』そのものだった。
近年、結晶が頻発していたのは、この巨大なシステムが、永い年月の果てに老朽化し始めた証拠だった。漏洩(リーク)した記憶データが、バグとして世界に物質化していたのだ。カイは、システムの維持を司る管理者であり、この悲しい真実を知りながら、偽りの楽園を守り続けていた『番人』だった。
第六章 夜明けを選ぶ者たち
意識が戻った時、リオは泉のほとりに立っていた。手の中の小瓶は、今や太陽のように眩い光を放っている。彼は選択を迫られていた。このまま真実を胸に秘め、偽りの世界の延命に手を貸すか。それとも――。
リオは、小瓶を高く掲げた。
「たとえ偽りでも、人は感情を失くしては生きられない!」
彼は叫び、小瓶を泉の中心へと投げ込んだ。
世界樹の枝で作られた小瓶は、泉のシステムと共鳴し、蓄えられた全ての『思念の結晶』の記憶を増幅させ、光の波として世界中に解き放った。
街の誰もが、空を見上げた。人々は一斉に思い出す。愛する人を失った悲しみを。故郷が燃える絶望を。そして、それでも誰かと手を取り合った温もりを。空にひびが入り、プログラムで描かれた偽りの青空の向こうに、赤く錆びついた現実世界の空が覗いた。
世界は崩壊を始める。偽りの安定は終わりを告げた。人々は絶望し、泣き叫んだ。だが、その瞳には、忘却によって失われていたはずの、力強い『人間』の光が宿っていた。カイがリオの隣に、いつの間にか立っていた。その顔には、番人としての仮面はなく、一人の人間としての穏やかな諦観が浮かんでいた。
「ありがとう」とカイが言った。「我々は、ようやく死ぬことができる」
崩れゆく街並みの中で、人々は寄り添い、歌い、最後の時を迎えようとしていた。それは破滅の光景のはずなのに、不思議なほど美しかった。リオは、ひび割れた空から差し込む、本物の、しかし終わりの近い光を浴びながら、静かに目を閉じた。短いけれど、本物の人生が、今、始まる。