共鳴の残滓

共鳴の残滓

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第一章 触れられざる痛み

柏木湊の世界は、常に微かなノイズに満ちていた。それは耳で聞く音ではない。皮膚を、神経を、直接震わせる他人の痛みの残響だった。この呪いとも祝福ともつかない共感能力のせいで、湊は救急医の道を諦めた。患者の肉体的な苦痛、死の間際の恐怖が、フィルターなしで彼の心身に流れ込み、ついには彼自身を壊しかけたのだ。今では都心の片隅にある古いビルの二階で、古書の修補家として息を潜めるように生きている。紙の乾いた匂いと、インクの静かな香りだけが、彼の世界を乱さない唯一の聖域だった。

その聖域に、ある雨の日の午後、予期せぬ来訪者が現れた。ドアベルの音に顔を上げると、ガラスの向こうに、雨に濡れたトレンチコートの女性が立っていた。早川沙希と名乗った彼女は、湊が能力のことを誰にも話していないはずなのに、まっすぐに彼の目を見て言った。

「弟の痛みを感じてほしいんです」

その言葉は、静かな仕事部屋に落ちた鋭利なガラス片のように、不穏な光を放った。湊の全身が、見えない棘で覆われるような感覚に陥る。

「人違いです」

冷たく突き放す湊に、沙希は一歩も引かなかった。彼女の瞳は、長い間涙を堪えてきた湖のように、深く澄んで、そして悲しみに揺れていた。

「弟は、三年前の事故で意識が戻りません。植物状態です。でも、生きている。私は、あの子が今、何を感じているのか知りたいんです。苦しんでいるのなら、それを取り除いてあげたい。もし……もし何も感じていないのなら、それでもいい。ただ、知りたいんです」

彼女自身の胸の内から発せられる、切り刻まれるような痛みが、湊の胸にじわりと染みてくる。それは、湊が最も恐れているものだった。他人の感情という名の激流。

「医者に行ってください。私にできることは何もありません」

「お医者様は、脳波は平坦だと言います。でも、時々、弟の顔が苦痛に歪むことがあるんです。誰も信じてくれない。でも、私にはわかる。あの子は、声にならない何かを叫んでる」

沙希は鞄から一枚の写真を取り出した。日に焼けた少年が、ひまわり畑の中で満面の笑みを浮かべている。写真の中の彼は、生命力そのものだった。

「この子は、樹。私の、たった一人の弟です」

湊は目を逸らした。写真からでさえ、燃えるような生命の躍動が伝わってきて、胸が苦しくなる。断らなければならない。これ以上、他人の人生に深入りすれば、今度こそ自分は粉々になってしまう。

「お断りします」

湊が最後の通告を口にした瞬間、沙希の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。その雫が彼女の頬を伝うと同時に、湊の心臓を熱い鉄の棒で貫かれたかのような、灼ける痛みが走った。絶望。それは、湊がかつて救えなかった患者たちの瞳に見た色と同じだった。彼は思わず胸を押さえ、息を呑んだ。

沙希は、湊の反応に気づいたのか、はっとした顔で彼を見つめた。「……あなたなら、わかるはずです」

その言葉は、もはや依頼ではなく、同じ痛みを分かち合う者同士の、魂の呼びかけのように聞こえた。湊は、逃げられないことを悟った。この女性の痛みから、そしてその先にいる弟の沈黙の叫びから、もう目を背けることはできないのだと。

第二章 沈黙の海の底で

数日後、湊は白く消毒された匂いが立ち込める病室に立っていた。早川樹は、機械の電子音に囲まれて静かに横たわっていた。日に焼けていたはずの肌は青白く、写真で見た溌溂とした面影はどこにもない。まるで精巧な蝋人形のようだった。

「樹、お兄さんを連れてきたわよ」

沙希が優しく語りかける。湊は深呼吸を一つして、覚悟を決めた。過去のトラウマが蘇り、指先が冷たくなる。彼はゆっくりと樹のベッドに近づき、シーツから伸びる力ない手に、そっと自分の指を触れさせた。

目を閉じた瞬間、世界が反転した。

予想していた激痛は、しかし、訪れなかった。代わりに彼を包んだのは、どこまでも深く、穏やかで、そして途方もなく孤独な感覚だった。まるで、水深数千メートルの深海の底に、たった一人で沈んでいるような、絶対的な静寂。痛みも、苦しみも、喜びも、怒りもない。ただ、存在する、という事実だけがそこにあった。

「……何も、感じませんか?」

背後から聞こえる沙希の不安げな声に、湊はゆっくりと目を開けた。

「いえ……痛みはありません。ただ……とても、静かです」

湊はもう一度、樹の意識に集中した。静寂の海の中を漂っていると、不意に遠くで何かがきらめいた。光の粒子のような、記憶の断片。手を伸ばすと、イメージが流れ込んできた。

夏草の匂い。高く澄み渡る青い空。黄金色に揺れる広大なひまわり畑。そして、幼い少女の快活な笑い声。それは、沙希の声によく似ていた。幸せに満ちた、完璧な夏の一日。だが、その美しい光景の中心には、奇妙な空白があった。パズルのピースが一つだけ欠けているような、埋めがたい喪失感。この温かい記憶の中でさえ、樹は何かを探しているようだった。

「何か、見えましたか?」

「ひまわり畑……あなたと、遊んでいた記憶でしょうか」

湊の言葉に、沙希は息を呑んだ。「ええ……よく行きました。弟が一番好きだった場所です」

その日から、湊は定期的に樹の病室を訪れるようになった。樹の手に触れるたび、湊は彼の意識の海にもっと深く潜っていく。断片的な記憶は少しずつ繋がり始めたが、謎は深まるばかりだった。どの記憶にも共通しているのは、幸福感と、それを覆い隠すほどの巨大な「欠落感」。樹の痛みとは、肉体的な苦痛ではなく、この魂の欠落そのものなのではないか。

湊は、沙希と話す時間も増えていった。彼女から聞く樹は、いつも太陽のように笑い、誰よりも他人の痛みに敏感な少年だったという。転んで泣いている子がいれば、自分の膝が擦りむけているのも忘れて駆け寄るような、そんな子だったと。

「あの子は、優しすぎたのかもしれない」沙希は寂しそうに微笑んだ。

その言葉が、湊の胸に小さく引っかかった。他人の痛みに敏感な少年。それは、まるで自分のことを言われているかのようだった。湊は、樹の中に、かつての自分、あるいは今の自分と重なる何かを感じ始めていた。人を避けて生きてきた湊の心が、沙希と樹という姉弟によって、少しずつ溶かされていくのを感じていた。

第三章 盗まれた共鳴

季節が移り、木々の葉が色づき始めた頃、湊は決定的なビジョンを見ることになる。

その日も、彼は樹の意識の海に深く潜っていた。いつものように静寂が彼を包む中、これまでで最も鮮明で、強烈な記憶の奔流が彼を襲った。

それは、事故の日の記憶だった。

蟬の鳴き声が降り注ぐ、真夏の午後。公園の隅にある、古びたジャングルジム。そこで、二人の少年が遊んでいた。一人は樹。そしてもう一人――湊は息を呑んだ。そこにいたのは、紛れもなく幼い頃の自分自身だった。

記憶の中の湊と樹は、今日初めて会ったばかりのようだったが、すぐに意気投合していた。鬼ごっこをして、笑い転げて、秘密の宝物を見せ合った。湊は、そんな過去があったことなど、全く覚えていなかった。

その時だった。バランスを崩した幼い湊が、ジャングルジムの最上段から落下した。下のコンクリートに叩きつけられる、その寸前。樹が、驚異的な速さで間に割って入り、湊をかばうように抱きしめた。

――ゴッ、という鈍い衝撃音。

次の瞬間、湊の全身を、今まで経験したことのないほどの激痛が駆け巡った。それは、樹が感じた痛みだった。骨が砕け、内臓が破裂する、絶望的な破壊の感覚。しかし、それだけではなかった。痛みの奔流とともに、何か別のもの――暖かく、脈打つエネルギーのようなものが、樹の体から湊の体へと、凄まじい勢いで流れ込んできたのだ。

それは、樹が持っていた共感能力そのものだった。

幼い湊は、激痛と混乱の中で、無意識にそれを「受け取って」しまった。樹を助けたいという一心で、彼の痛みも、苦しみも、そして彼の魂の核である能力さえも、根こそぎ奪い取ってしまったのだ。

「あ……」

湊は現実の世界に引き戻された。彼は樹の手を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。全身から汗が噴き出し、心臓が激しく鼓動していた。

全てを思い出した。忘却の彼方に追いやっていた、幼い日の断片的な記憶。事故の後、高熱にうなされ、それから突然、他人の感情や痛みがわかるようになったこと。両親はそれを、事故のショックによる繊細な感受性の目覚めだと思っていた。湊自身も、いつしかそれが自分の生まれ持った特性なのだと信じ込んできた。

だが、違った。この能力は、自分のものじゃなかった。

柏木湊の人生を決定づけ、彼を苦しめ、そして同時に、彼に他者への深い理解を与えてきたこの力は、目の前で眠るこの青年から、盗んだものだったのだ。

樹が植物状態になったのは、事故のせいだけではない。生きる上で不可欠な、世界と共鳴するための魂の器官を、湊に奪われたからだ。彼が感じていた「欠落感」の正体は、これだったのだ。

そして、湊が医師時代に体験した、あの地獄のような患者の痛み。それさえも、元は樹が引き受けるはずだった、世界の痛みのほんの一欠片に過ぎなかった。

「どうかなさいましたか……?顔色が……」

心配そうに覗き込む沙希に、湊は何も言えなかった。自分は、彼女のたった一人の弟から、人生そのものを奪った泥棒だった。その罪の重さに、立っていることさえ困難だった。

第四章 還すための痛み

真実を知ってからの数日間、湊は仕事部屋に閉じこもった。インクと古い紙の匂いも、もはや彼を慰めてはくれなかった。自分が背負ってきた痛み、自分を形作ってきたはずの共感は、すべてが借り物で、盗品だった。その事実は、彼のアイデンティティを根底から揺るがした。

彼は、樹から奪った力で、多くの人を救おうとした。だが、結局はその力に耐えきれず、逃げ出した。なんという傲慢で、滑稽な結末だろうか。

湊は決意した。この力を、本来の持ち主である樹に還さなければならない。

再び病室を訪れた湊を、沙希は安堵の表情で迎えた。湊は彼女に向き合い、震える声で、全てを打ち明けた。幼い日の事故のこと。能力が樹のものであったこと。自分が、知らぬ間に彼の人生を奪っていたこと。

沙希は、ただ黙って聞いていた。その表情は驚きから悲しみへと変わり、やがて、深い理解の色を帯びていった。

「……そうだったんですね」長い沈黙の後、彼女は静かに言った。「弟が、あなたをかばったんですね。あの子らしい……。あなたは、何も盗んではいない。あの子が、あなたに託したんだと思います」

その言葉は、罪悪感に苛まれる湊にとって、予期せぬ救いだった。だが、湊の決意は変わらなかった。

「これを、樹くんに還します」

「でも、そしたら、あなたは……」

「普通の人間に戻るだけです」湊は穏やかに微笑んだ。「でも、この力で感じてきたことは、決して忘れません」

彼は樹の前に立った。これが、他人の痛みを直接感じる、最後の瞬間になるだろう。湊は、怖くはなかった。むしろ、不思議な解放感と、そして一抹の寂しさを感じていた。

彼はもう一度、樹の手に触れた。意識を集中させると、記憶の中の、あの夏の日のジャングルジムに立っていた。目の前には、幼い樹が立っている。

『ずっと、持っていてくれてありがとう』

樹が、声ではなく、心で直接語りかけてくる。

『君のおかげで、僕はたくさんの人の心を知ることができた。本当の痛みと、本当の優しさを学ぶことができた。ありがとう』

湊がそう伝えると、彼の体から暖かい光が溢れ出し、樹の小さな体へと吸い込まれていった。湊の体を常に覆っていた微かなノイズ、他人の痛みの残響が、潮が引くようにすうっと消えていく。世界が、初めて体験するほど静かになった。

湊が目を開けると、ベッドの上の樹の指が、ぴくりと動いた。心電図の波形が、力強くリズムを変える。沙希が息を呑む気配がした。樹の瞼が、ゆっくりと持ち上がっていく。

湊は、誰にも告げずにそっと病室を出た。廊下を歩きながら、彼は自分の体に耳を澄ませた。もう、隣の病室の患者の苦痛も、廊下を急ぐ看護師の焦りも感じない。世界との間に、一枚の薄い膜ができたようだった。それは寂しくもあったが、同時に、自分の足でしっかりと大地に立っているという、確かな感覚を与えてくれた。

病院の外に出ると、空は燃えるような夕焼けに染まっていた。

他人の痛みを直接感じることは、もうない。だが、彼の心には、これまで感じてきた無数の痛みの記憶が、消えない残滓として刻み込まれている。それは呪いではなく、樹が、そして出会った全ての人々が彼に託してくれた、かけがえのない道標だった。

静かになった世界で、湊はゆっくりと歩き出した。これから彼は、自分の心で、自分の足で、他人の痛みを想像し、寄り添っていくのだろう。それは、以前よりもずっと不確かで、困難な道かもしれない。しかし、今の彼には、その道を歩いていく覚悟と、確かな温もりが胸にあった。

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