第一章 灰色の残滓
俺、蓮(れん)の目に映る世界は、いつからか色褪せていた。人々が言う空の青も、信号機の赤も、公園の木々の緑も、まるで薄い灰色の膜を一枚隔てたかのように、その彩度を失っている。その代わり、俺の目には余計なものが視えた。
他人の「過去の後悔」だ。
それは実体のない、黒く小さな虫の群れとして、人々の肩や背中にまとわりついている。深く、重い後悔を抱える者ほど、その群れは濃く、粘着質で、まるで第二の影のようにその主に付き従う。時折、その群れの一部がふわりと剥がれ、俺に取り憑こうと寄ってくる。そのたびに、肌を這うような不快な幻覚と、他人の苦い記憶の断片が流れ込んでくるのだ。
今日もそうだ。雑踏を行き交う人々は、誰もが大小の虫の群れを引き連れていた。羽音こそ聞こえないが、そのおぞましい蠢きは、世界の沈黙をより一層際立たせる。世界は緩やかに死に向かっている。人々は気づいていないが、俺には分かった。
人生の終盤に差し掛かった老人の周りを舞う『幸福の形見』。蝶や小鳥の形をとった光り輝く記憶の結晶。本来、それらは持ち主が亡くなると共に美しい光の粒子となり、世界に還元され、世界の色彩を保つ源となるはずだった。だが近年、その光の粒子が目に見えて減っているのだ。幸福な記憶を抱えて旅立つ老人は増えているというのに、世界は日に日に色を失い、代わりに俺だけが視える「後悔の虫」が、まるで養分を得たかのように異常繁殖していた。
ポケットを探り、冷たく滑らかな感触を確かめる。幼い頃から持っている、小さな巻貝。表面には無数の微細な穴が空いている。それを耳に当てると、雑音に混じって、過去に失われた誰かの感情の微かな囁きが聞こえてくる。今日はひときゆわ低く、飢えたような声がした。
「足りない…まだ…足りない…」
その声が誰に向けられたものなのか、俺は知る由もなかった。
第二章 幸福の墓標
古びたベンチに腰掛ける老婆、千代さんと出会ったのは、そんな灰色の午後だった。彼女の周りには、目を見張るほど美しい『幸福の形見』が舞っていた。瑠璃色の羽を持つ蝶、黄金の尾を引く小鳥。それらは彼女の穏やかな微笑みに合わせて、優雅に軌跡を描いている。遠い昔の恋人との散歩、生まれたばかりの我が子を抱いた日の温もり。彼女の幸福が、色褪せた公園の中で唯一、鮮やかな色彩を放っていた。
だが同時に、俺は息を呑んだ。彼女の足元には、これまで見たこともないほど濃密な「後悔の虫」の群れが、まるでコールタールのように渦を巻いていたのだ。それは千代さんの幸福の光を妬むかのように、じりじりとその距離を詰め、彼女の穏やかな時間を侵食しようとしていた。
「坊や、そんな怖い顔をして、どうしたんだい」
千代さんが、皺の刻まれた優しい目で俺を見た。俺は咄嗟に視線を逸らす。この人に、おぞましい虫の群れがまとわりついているなどと、どうして言えるだろう。
「いえ…蝶が、綺麗だったので」
「ああ、これかい。私の宝物だよ」。彼女は一羽の光の小鳥を指先でそっと撫でた。「嬉しいことも、悲しいことも、たくさんあった。でもね、振り返れば、みんな愛おしい時間だった。この子たちは、その証なんだよ」
彼女の言葉は、乾いた俺の心に染み渡るようだった。この美しい光景を守りたい。柄にもなく、そう思った。だが、彼女が穏やかに語るほどに、足元の「後悔の虫」は勢いを増し、その黒い顎をカチカチと鳴らす幻聴が、俺の鼓膜を震わせた。
第三章 消えゆく光彩
千代さんと会うようになって数日が過ぎた。俺は毎日、彼女の傍らに座り、他愛もない話をした。彼女の幸福の記憶が、少しでも長くこの世界に留まることを祈りながら。しかし、世界の浸食は待ってはくれなかった。
ある日、千代さんの周りを舞っていた瑠璃色の蝶の一羽が、ふっとその輝きを失った。まるでランプの油が切れたように光が弱まり、その輪郭が滲んでいく。そして、すうっと音もなく、闇に吸い込まれるように消えてしまったのだ。
「あら…」
千代さんは少し寂しそうに呟き、消えた蝶があった空間に手を伸ばした。彼女には、それが寿命だとしか思えないだろう。だが、俺には分かった。これは寿命などではない。何者かが、彼女の幸福を、その記憶を、すぐ傍で捕食しているのだ。
それからだった。彼女の『幸福の形見』は、日に日にその数を減らし、輝きを失っていった。比例するように、世界の色彩はさらに抜け落ち、街全体が古びたモノクロ写真のように沈んでいく。俺の視界を埋め尽くす「後悔の虫」だけが、ますます数を増やし、黒々と肥え太っていく。
いてもたってもいられず、俺はポケットの貝殻を強く握りしめ、耳に押し当てた。囁きは、以前よりもずっと鮮明になっていた。それはもう、単なる囁きではなかった。幾千、幾万もの声が重なり合った、悲痛な叫びだった。
『もっと…幸福を…!我々の世界が、消えてしまう…!』
その声は、この世界のどこからでもない場所から響いてくるようだった。空虚で、絶望的で、そして貪欲な響きを伴って。俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
第四章 虚ろな万華鏡
その日は、空が鉛色に垂れ込めていた。病院のベッドに横たわる千代さんは、もうほとんど言葉を発することができなかった。彼女の周りを舞っていた『幸福の形見』は、今や最後の力を振り絞るように瞬く、小さな光の鳥が一羽だけになっていた。そしてその足元には、黒い絶望の渦が、今か今かとその時を待っている。
千代さんの呼吸が、ふっと止まった。
穏やかな、眠るような最期だった。光の鳥が彼女の胸の上で高く舞い上がり、美しい光の粒子となって世界に還ろうとした、その瞬間だった。
空間が歪んだ。
見えない亀裂から、巨大な影のような何かが現れ、光の鳥を、その粒子の一粒まで残らず貪り食った。それは一瞬の出来事だった。そして、役目を終えたとばかりに、千代さんの足元で渦巻いていた全ての「後悔の虫」が、一斉に俺へと襲いかかってきた。
「ぐっ…!」
無数の虫が俺の体にまとわりつき、他人の後悔、絶望、苦しみが濁流となって脳内に流れ込んでくる。意識が黒く塗りつぶされ、遠のいていく。その時、ポケットの中の貝殻が、心臓のように強く、熱く脈打った。
世界が反転した。
俺は、色も形もない、無限の意識の海に漂っていた。目の前に、巨大な万華鏡のような存在が揺らめいている。それは、数え切れない人々の意識が寄り集まった、集合体だった。
『我々は、未来だ』
声が、直接思考に響く。
『我々の時間は、もう尽きかけている。エネルギーは枯渇し、世界は崩壊寸前だ。生き延びる唯一の方法は、過去へと遡り、エネルギーの源である"幸福"を摂取すること』
未来人類。彼らが、世界の色彩を奪っていた元凶だった。
『後悔は、幸福を抽出した後に残る、ただの副産物に過ぎない。我々には不要な、感情の澱だ。君のような特異点が、それを視覚化していただけの話だ』
彼らの言葉に、温度はなかった。ただ、生き延びるための、冷徹な摂理があるだけだった。俺たちの世界の彩りも、千代さんの大切な記憶も、彼らにとっては単なる燃料でしかなかったのだ。
第五章 虹色の蛹
意識が現実世界に引き戻された時、世界は完全なモノクロームと化していた。音もなく、匂いもなく、ただ濃淡の異なる灰色だけが広がる、死んだ世界。絶望が、肺腑の底にまで染み渡るようだった。
だが、異変はそれで終わりではなかった。
千代さんから溢れ出た後悔。街中に蔓延していた後悔。この世界に存在する、ありとあらゆる「後悔の虫」が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、俺の元へと集まり始めたのだ。黒い嵐が空を覆い、蠢く絶望の奔流が、俺を中心に巨大な渦を形成していく。
それは、おぞましい光景のはずだった。しかし、俺は恐怖を感じなかった。未来人が「不要な澱」と切り捨てた、無数の後悔。その一つ一つに、確かに生きた人間の、消せない痛みと愛おしさが宿っているように感じられたからだ。
虫の群れは、やがて一つの巨大な塊となった。それはもはや、おぞましい虫の集合体ではなかった。黒い体表の下から、微かな光が漏れ始める。赤、青、黄、緑…奪われた全ての色が、その内側で混ざり合い、輝きを放ち始めた。
それは、巨大な蛹だった。
表面は滑らかな黒曜石のようでありながら、その内側からは、まるでオーロラのような虹色の光が絶えず明滅している。未来人が捨てた後悔が、奪われた幸福の残滓と結びつき、全く新しい何かに生まれ変わろうとしていた。
第六章 新しい形見
俺は、まるで何かに導かれるように、その虹色の蛹へと歩み寄った。それは静かに、しかし力強く脈打っている。失われた世界の色彩の、全てを内包して。
これが、未来人が見落としたもの。幸福だけでは、世界は成り立たない。光があるから影ができ、喜びがあるから悲しみがある。後悔とは、幸福だった過去があったからこそ生まれる、愛おしい痛みの証なのだ。未来人は、世界の半分だけを奪い、最も重要なもう半分を、この色褪せた世界に遺していったのだ。
俺はポケットから忘れ貝を取り出し、そっと虹色の蛹に当てた。
耳に響いていた、あの飢えたような囁きは、もう聞こえなかった。代わりに聞こえてきたのは、暖かく、深く、そして穏やかな鼓動の音。それは、過去に生きた全ての人々の喜びと悲しみ、幸福と後悔、その全てが調和して奏でる、新しい生命の産声のようだった。
見上げると、モノクロームの空が広がっている。だが、もう絶望は感じなかった。俺の目の前には、この灰色の世界でただ一つ、虹色に輝く巨大な『希望の形見』が鎮座している。
いつかこの蛹が孵り、世界に再び色が戻る日が来るのか。それは誰にも分からない。だが、俺はこの新しい世界の始まりを、ただ静かに見守っていこうと決めた。失われた感情の囁きを宿した貝殻を、強く握りしめながら。