極彩色の祈り、灰色の懺悔
第一章 透明な喪失
雨が地下室の壁を叩く音が、不整脈のように響いていた。
カビと消毒液が混じり合った淀んだ空気が、目の前の男の顔を歪ませている。男の名はカジワラ。その脂ぎった皮膚の下で、血管がミミズのように脈打っていた。
彼は今、限界を迎えていた。
「もう……限界なんだ」
男が吐き出した言葉と共に、胸の奥からどす黒い粘液のような煙が溢れ出した。
視える。私にだけは、はっきりと。
――腐敗した嫉妬。保身のための嘘。そして、かつて愛した女への、熟れすぎて腐り落ちた果実のような執着。
それがカジワラの『色』だった。
「先生、頼む」カジワラはテーブルに縋り付いた。グラスの水が揺れ、波紋が広がる。「毎晩、あいつの泣き顔が夢に出るんだ。首を絞めた時の指の感触が、朝になっても消えない。……消してくれ。この罪悪感を、俺から切り取ってくれ」
私は無言で彼を見つめた。白衣のポケットの中で、鋭利なガラス片が指先を刺す。その痛みだけが、私の輪郭を保っていた。
私は椅子から立ち上がり、部屋の隅にある棚へ向かう。そこには、空っぽのガラス瓶が整然と並んでいた。
「理解されていますか、カジワラさん」
私は瓶の一つを手に取り、彼の背後に回った。
「あなたが差し出そうとしているのは、単なる『苦しみ』ではない。あなたが誰かを愛し、そして裏切ったという『事実』そのものです。痛みを失えば、痛みを感じていた心も失われる」
「構わん!」
カジワラは叫び、自分の頭を掻きむしった。
「飯が不味いんだ。酒を飲んでも酔えないんだ。あいつの記憶がある限り、俺は生きた心地がしない。全部持っていってくれ。空っぽでいい。楽になりたいんだ!」
彼の背中から立ち昇る暗緑色の煙が、私の指先にまとわりつく。冷たく、ヌルヌルとした不快な感触。それは生きたヒルが皮膚を食い破ろうとする感触に似ていた。
私は息を止め、両手をその煙の中に突き入れた。
指先が焼けるように熱い。
他人の人生、他人の地獄。それに直接触れる行為は、神経をやすりで削られるような摩耗を強いる。
私は煙を掴んだ。根は深い。心臓の動脈に絡みつく蔦のように、その後悔は彼の一部と同化している。
「ぐ、ぐぅぅ……!」
カジワラが白目を剥き、獣のような唸り声を上げた。
私は構わず、渾身の力で引き剥がした。ベリベリという、濡れた紙を引き裂くような幻聴が鼓膜を打つ。
一瞬の抵抗の後、暗緑色の塊が彼から離れた。
私はそれを逃さぬよう、素早くガラス瓶へと押し込み、コルクで封をした。瓶の中で、煙は憎悪に満ちた顔の形を模しながら暴れ回り、やがて静かに液状化して沈殿した。
部屋の空気が、急激に軽くなる。
カジワラの肩がガクリと落ちた。荒い呼吸だけが残る。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見て、私は胸の奥が冷えるのを感じた。
澄み切っていた。雨上がりの水たまりのように。
そこにはもう、苦悩の色も、反省の色も、人間らしい湿り気さえも存在しなかった。ただ、底の抜けた井戸のような空洞があるだけだった。
「……あれ? 先生、会計は?」
「済みましたよ」私は努めて事務的に告げた。「お帰りください」
「ああ、そうですか。……腹が減ったな。今日はステーキでも食うか」
彼は鼻歌交じりに立ち上がり、軽やかにコートを羽織った。かつて愛した女性を死に追いやった男の顔ではなく、休日のランチを楽しみにする老人の顔だった。彼の中の『人間』の一部は、あの瓶の中に置き去りにされたのだ。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
私は一人、地下室に残された。
自分の両手を見る。
そこには、何も視えない。
他人の色はこれほど鮮明に見えるのに、私自身を覆っているのは、常に薄汚れた『灰色』の靄だけだった。
鏡を見るまでもない。私の魂は、コンクリートのような灰色に塗り固められている。悲しみなのか、怒りなのか、それとも恐怖なのか。色のない後悔は、味のしないガムのように、ただ不快な異物感として私にへばりついていた。
ポケットの中のガラス片を握りしめる。血が滲む。
かつて誰かがくれた、虹色のガラス細工の欠片。
だが、今の私の濁った眼には、その輝きさえも灰色に塗りつぶされて見えた。
第二章 プリズムの咆哮
その夜、雪が降った。
季節外れの重い雪が、地下室への入り口を塞ごうとするかのように降り積もっていた。
突然、ドアが乱暴に開かれた。
ベルの音が鳴るよりも早く、凍てつく冷気と共に『それ』が雪崩れ込んできた。
私は思わず目を覆った。
網膜を焼くような閃光。
極彩色。そう表現するしかなかった。
赤、青、黄、紫、金、銀。ありとあらゆる色が、吐瀉物をぶちまけたように激しく明滅し、渦を巻き、互いを食らい合っている。それはオーラというよりも、色彩の暴動だった。
「……あ、あ……リス」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が早鐘を打った。
極彩色の嵐の中心、色彩のノイズに埋もれるようにして立っていたのは、レオだった。
かつての彼は、こんな色ではなかった。
彼は無色透明だった。水晶のように澄んでいて、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、美しい青年だったはずだ。
「レオ……?」
私が名を呼ぶと、彼は奇妙な動きで首を傾げた。
操り人形の糸が絡まったような、不自然な痙攣。
彼の顔を見て、私は息を呑んだ。
右側の口角は吊り上がり、満面の笑みを浮かべている。だが、左目は焦点が合わず、大粒の涙がとめどなく溢れ出ていた。
笑顔と号泣が、一つの顔に同居している。感情の回路が焼き切れているのだ。
「寒いんだ、アリス」
レオは笑いながら、ガチガチと歯を鳴らした。
「ここがいっぱいで、すごく熱いのに、凍えそうで、指が動かないんだよ」
彼は自分の胸を掻きむしった。コートの下のシャツは引き裂かれ、皮膚には無数の爪痕が残っている。
その傷口から溢れ出しているのは血ではない。蛍光色の光だ。
誰かの『激怒』の赤。誰かの『絶望』の青。誰かの『嫉妬』の黄。
街中に漂う他人の汚泥のような感情を、彼は無差別に拾い集め、自分の空っぽの器に無理やり詰め込んでいた。
「どうして……こんなこと」
私が近づこうとすると、彼の身体から放たれる極彩色の衝撃波が、私の灰色の靄を弾いた。
キィン、と耳鳴りがする。
私の『灰色』が、彼の狂気的な色彩に共鳴し、さざ波を立てて震え始めた。
「拾ったんだ」
レオは床に崩れ落ち、這いつくばるようにして私を見上げた。
「ゴミ捨て場にあった。路地裏に落ちてた。みんなが捨てた『意味』を。僕には中身がないから。空っぽだと、風が通り抜けて痛いから。だから、埋めたんだ」
彼はポケットから、何かを取り出した。
虹色のガラス細工の本体。一部が欠けている、美しい球体。
私のポケットの中にある欠片が、熱を持って暴れ出す。磁石のように、互いを引き寄せ合っている。
「返してくれとは言わない」
レオは虚空を掴むような手つきで、ガラス球を私に差し出した。
「ただ、止めてほしいんだ。頭の中で、千人の人間が同時に叫んでる。僕が誰なのか、もうわからないんだ。アリス、君ならできるだろう? 調律師なんだから」
彼の言葉は支離滅裂だったが、その瞳の奥にある懇願の色だけは、痛いほどに鮮明だった。
それは、迷子の子供の目だった。
第三章 空白のカンバス
私はレオをソファに座らせたが、彼は一瞬たりともじっとしていなかった。
貧乏ゆすりが止まらず、視線は部屋中を彷徨い、時折、何もない空間に向かって「ごめんなさい」と謝罪したり、「殺してやる」と呟いたりした。
彼の中にある他人の後悔が、主導権争いをしているのだ。
私は震える手で紅茶を淹れたが、カップを持つ手が定まらない。
彼が放つ色は、ただ派手なだけではない。不協和音だ。
不快な高周波音が脳を直接削ってくるような感覚。
「レオ、私を見て」
私は彼の前のテーブルに、紅茶ではなく、空のガラス瓶を置いた。
「その色を取り除くことはできる。でも、あなたはわかっているの? これを取り除けば、あなたはまた……」
「空っぽに戻る」
レオが私の言葉を遮った。彼はニタニタと笑いながら、涙を流し続けている。
「いいや、最初から空っぽだったわけじゃない。君が空っぽにしたんだ」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
私の灰色の靄が、嵐のように渦巻き始める。
「僕が忘れていると思ってる?」レオの声色が、突然、冷徹なものに変わった。「記憶はなくなった。でもね、身体が覚えているんだ。君の手の感触を。君が僕の中身を、内臓ごと引きずり出した時の、あの痛みを」
彼はガラス球を弄んだ。虹色の光が、私の灰色の視界を切り裂いていく。
私の脳裏で、錆びついた扉が軋みながら開こうとしていた。
私が、彼を空っぽにした?
違う。私は彼を救ったはずだ。
彼が苦しんでいたから。彼があまりにも辛そうだったから。
「私には、自分の後悔が見えない」私は呻くように言った。「灰色にしか見えないの」
「見たくないだけだよ」レオが囁く。極彩色のオーラが、触手のように私に伸びてくる。「君も同じだ。自分の罪から目を逸らすために、自分で自分に蓋をしたんだ」
ポケットの中のガラスの欠片を取り出す。レオの手にある本体。
二つを近づける。
カチリ、と音がして、二つのガラスが触れ合った瞬間。
極彩色の光と、灰色の光が交差した。
閃光。
そして、世界が反転した。
第四章 灰色の正体
記憶は、吐き気と共に戻ってきた。
それは数年前の冬。この地下室。
目の前に座っているのは、今よりもずっと幼さの残るレオ。
当時の彼は、美しかった。
透き通るような肌、長い睫毛。だが、その全身からは、この世のものとは思えないほど深く、濃く、そして美しい『群青色』の後悔が溢れ出していた。
それは、火事で家族を失い、自分だけが生き残ってしまったことへの、純粋で強烈な自責の念。
愛していたからこその、深い深い絶望。
『アリス、助けてくれ。息ができないんだ』
彼は床に蹲り、喉を掻きむしっていた。
『母さんの叫び声が聞こえる。僕だけが生きているのが申し訳なくて、毎秒、心臓をナイフで刺されているようだ』
私は若く、傲慢だった。
自分の持つ『調律』の能力が、万能のメスだと信じていた。
私はレオを愛していた。彼の苦痛を見るのが耐えられなかった。彼に笑ってほしかった。
だから、私は言ったのだ。無邪気な死刑執行人のように。
『大丈夫。私がその痛みを、全部消してあげる』
私は彼に触れた。
群青色の後悔は、彼の人格そのものと複雑に癒着していた。それは癌細胞ではなく、心臓そのものだった。
それを摘出することが何を意味するのか、深く考えもしなかった。
私は両手を突き入れ、彼の魂の根幹を掴んだ。
『や、やめて……! それは、僕の……!』
レオが叫んだ。抵抗した。
痛い。彼も痛いし、私も痛い。
だが私は「あなたのため」という独り善がりの正義に酔っていた。
『じっとしてて。すぐに楽になるから』
ブチリ。
生木を引き裂くような、鈍く湿った音が響いた。
私は引き抜いたのだ。
彼の家族への愛も、生きていくための指針も、優しさも、情熱も。すべてがその『群青色』に含まれていたのに。
色が抜けた瞬間、レオの瞳から光が消えた。
彼は糸の切れた人形のように崩れ落ち、そして数秒後、虚ろな目で私を見上げた。
『……君は、誰?』
『ここで何をしてるの? 僕は……誰だっけ?』
私が手の中に握りしめていたのは、美しく輝く群青色の塊。
それはレオの『魂』そのものだった。
私は恐怖した。自分の手で、愛する男を殺してしまったのだと悟った。
肉体は生きていても、中身は死んでいる。私が殺したのだ。
その瞬間、耐え難い罪悪感が私を襲った。
嘔吐した。胃液と涙で床を汚しながら、私は逃げた。現実から逃げた。
私は自分の能力を、自分自身に向けた。
この罪の記憶を、後悔を、恐怖を、二度と見なくて済むように。
分厚い灰色のコンクリートで塗り固めて、心の底に沈めたのだ。
「……思い出した?」
現実の声が、鼓膜を打つ。
私は床に膝をついていた。涙で視界が歪んでいる。
目の前のレオは、極彩色のツギハギだらけのコートを纏い、悲しげに微笑んでいた。
私の灰色が、音を立てて剥がれ落ちていく。
下から現れたのは、かつての彼が持っていたのと同じ、深く、冷たく、けれど愛に満ちた『群青色』。
それは、私が奪った彼の色であり、私が一生背負うべき罪の色だった。
「私は……」
喉が焼けつくように熱い。
「私は、あなたを助けたかっただけなのに……あなたを、壊した」
レオは静かに首を振った。
「空っぽになって、初めてわかったよ。痛みは、僕の輪郭だったんだ。苦しみこそが、僕が家族を愛した証だったんだ。それを失った僕は、ただの有機物に過ぎなかった」
彼は私の手を取り、自分の胸――無数の他人の色が暴れ回る、心臓の場所――に押し当てた。
「アリス。やり直してくれ。消すんじゃない。戻すんだ。たとえそれが、どんなに痛くても」
最終章 後悔と共に生きる未来
私の指先が、彼の胸で脈打つ極彩色の嵐に触れる。
不快な熱。他人の悪意のヘドロ。
かつての私なら、これを汚物として処理していただろう。
だが、今は違う。
「……調律、するわ」
私は震える声で告げた。
それは『治療』ではない。『贖罪』だ。
彼が無理やり詰め込んだ異物を解体し、あるべき形へ、彼自身の物語へと編み直す。
そして、私自身の群青色の後悔――彼から奪った魂の一部――を、彼の中に戻すのだ。
「覚悟して、レオ。死ぬほど痛いから」
「望むところだ」
私は能力を解放した。
これまでの「抜き取る」だけの施術とは次元が違う。
泥の中に手を突っ込み、絡まり合った有刺鉄線を素手で解くような作業だ。
ズブッ、と両手が彼の中に沈む。
「ぐ、あああああああ!」
レオが絶叫する。極彩色の光がスパークし、私の肌を焦がす。
痛い。私の神経も焼き切れるようだ。
誰かの『殺意』が私の指を噛む。誰かの『嫉妬』が爪を立てる。
私は歯を食いしばり、血の味を噛み締めながら、一つ一つ、彼のものではない色を剥がしていく。
拒絶反応が私を襲う。意識が飛びそうになる。
それでも、私は手を離さない。
二度と、彼を離さない。
泥にまみれ、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は彼の中の空洞を探り当てた。
そして、私自身の胸を引き裂く。
私の中に隠していた、あの日の『群青色』を取り出す。
それは私の罪悪感と混ざり合い、より深く、暗く、重たい色に変色していた。
「返すわ……あなたの、痛みを」
私はその塊を、レオの胸の空洞に押し込んだ。
ジュウゥゥッ!
焼けた鉄を水に入れたような音が響く。
レオが弓なりに背を反らせ、声にならない悲鳴を上げた。
拒絶と融合。破壊と再生。
彼の魂が、失われた半身を受け入れようと軋みを上げる。
私は残った極彩色の欠片――彼がこの数年、苦しみながら集めた人間の感情の残滓――を、あえて全ては捨てなかった。
それらもまた、彼が空虚の中で足掻いた生きた証だからだ。
私はそれらを溶かし、接着剤のようにして、群青色と繋ぎ合わせた。
夜明け前の空のような、静かで、それでいて複雑な光を含んだ『紫紺』。
それが、新しく生まれた彼の色だった。
レオの痙攣が収まる。
引きつった笑みが消え、穏やかな、しかし深い疲労と哀しみを湛えた顔に戻っていく。
彼は思い出したのだ。家族を失った悲しみを。私によって心を奪われた屈辱を。そして、それを取り戻すまでの長い孤独を。
痛みは戻ってきた。
だが、その痛みこそが、彼が『レオ』であるための重石だった。
私はポケットから取り出した接着剤で、ガラス細工の欠片を本体に繋ぎ合わせた。
完全な球体には戻らない。
つなぎ目には、はっきりと白く濁った亀裂が残っている。
光にかざすと、その亀裂が複雑な屈折を生み、傷一つない新品よりも、深く妖艶な影を落としていた。
「……痛いな」
レオが胸を押さえながら、掠れた声で言った。涙が頬を伝う。
「すごく、痛いよ、アリス」
「ええ。ごめんなさい」
私も泣いていた。自分の罪の重さに、押しつぶされそうだった。
「でも、温かい」
レオは私の手の上に、自分の手を重ねた。
「これが、生きているってことなんだね」
雨は上がり、地下室の小さな天窓から、白々とした朝の光が差し込んでいた。
私たちは救われてなどいない。
失った時間は戻らない。私が彼を壊したという事実は、未来永劫消えない。
彼も私も、一生治らない傷跡を抱えて、びっこを引きながら歩いていくしかないのだ。
だが、私の視界から『灰色』は消え去っていた。
世界は鮮やかで、残酷で、血の匂いがして、そして息が詰まるほど美しい色に満ちていた。
「行こうか」
レオがよろめきながら立ち上がり、手を差し出す。
私はその手を取った。
泥と血にまみれた私たちの手は、しっかりと繋がれていた。
私たちは、後悔を消し去る魔法使いではなく、傷跡を愛おしむ人間として、眩しすぎる朝へと歩き出した。