第一章: 殺意の味
湿った夜風が、白髪交じりの無造作な短髪を揺らす。
遠藤清治は、皮膚のように馴染んだ黒いコートの襟を立てた。喪服ではない。だが、そう見紛うほどに色は褪せ、繊維はくたびれている。街灯の頼りない光。それが照らし出すのは、深く刻まれた眉間の皺と、生気の一切宿らない、底光りする瞳のみ。
足元に転がる黒い塊。
ずぶ濡れの作業着を纏い、泥濘(ぬかるみ)に顔を埋めている青年。痩せこけて骨ばった背中が、痙攣するように小さく跳ねていた。
[A:遠藤清治:冷静]「……おい。生きてるか」[/A]
返答なし。泥にまみれた横顔。伸びかけの濡れた黒髪が視線を遮断している。
清治は舌打ちを一つ、アスファルトに捨てた。関わりたくない。だが、その痩躯(そうく)。三年前に失ったあの子の最後の姿と、嫌でも重なる幻影。冷たい雨が、清治の古傷じみた記憶を容赦なく叩いた。
◇◇◇
出汁の匂い。
かつお節と昆布が湯の中で踊り、黄金色の魂へと昇華していく芳香。
清治は狭い長椅子の上で跳ね起きた。定食屋の厨房、使われなくなって久しい聖域から、包丁がまな板を叩く音が響く。トントン、トントン。正確なリズム。
[A:遠藤清治:驚き]「誰だ」[/A]
厨房に立っていたのは、昨夜拾ったあの青年。安物の薄汚れたTシャツから覗く首筋に、古い火傷の痕が赤黒く張り付いている。彼は清治の視線に気づくと、ビクリと肩を震わせ、濡れた子犬のように身を縮めた。
[A:南雲蓮:恐怖]「あ……すみません、勝手に……。食材が、痛みそうだったので」[/A]
消え入りそうな声。前髪の隙間から、怯えきった視線が床を這う。
清治は無言で椀を受け取った。湯気と共に立ち上る味噌の香り。一口、含む。
思考が、凍てつく。
舌の上で広がる、甘く、少し塩気の強い、独特の配合。隠し味の生姜。
心臓が早鐘を打つ。胃の腑が熱くなり、指先が震えた。これは、美咲の味。死んだ娘が、父のためにと試行錯誤して完成させた、世界に一つだけのレシピ。
[A:遠藤清治:驚き]「貴様……その味を、どこで」[/A]
[A:南雲蓮:照れ]「え……あの、なんとなく。手癖、みたいなもので……不味かった、ですか?」[/A]
蓮は不安げに首を傾げる。その仕草。箸の持ち方。吸い口の角度。
あまりにも似すぎている。
清治の脳裏に、どす黒い違和感がオイルのように広がった。偶然にしては出来すぎだ。だが、目の前の青年は、ただひたすらに無害で、透明な罪悪感を全身から発散させている。
[Think]なぜだ。なぜ、この見知らぬ小僧が、美咲の味を知っている?[/Think]
清治は椀をテーブルに叩きつけた。汁が数滴、黒いテーブルクロスに染みを作る。
[A:遠藤清治:怒り]「……飯は、残すな。食ったら出て行け」[/A]
[A:南雲蓮:悲しみ]「はい……申し訳、ありません」[/A]
深々と頭を下げる蓮。その項(うなじ)が無防備に晒された瞬間、清治の右手が、意思に反してピクリと動く。殺意ではない。もっと別の、例えば迷い猫の首根っこを掴むような、所有欲に似た衝動。
この男は危険だ。本能が警鐘を鳴らす。
だが、清治はまだ知らない。この台所で味噌汁を作る青年こそが、三年前に愛娘・美咲の命を奪い、その未来を永遠に閉ざした「少年A」その人であることを。
第二章: 硝子の箱庭
渓流の水面が、陽光を弾いて砕け散る。
清治はリールのハンドルをゆっくりと回した。隣には蓮。不慣れな手つきで竿を握り、水面を凝視する横顔は、張り詰めた糸のように緊張している。
[A:佐伯洋子:冷静]「アンタたち、本当の親子みたいじゃないの」[/A]
土手の上から、紫煙を燻らせた洋子が呆れたように声をかけた。派手な化粧に負けない品のある顔立ち。着古したカーディガンを羽織り、いつものようにどこか達観した瞳で二人を見下ろしている。
[A:遠藤清治:照れ]「余計なことを言うな。ただの暇つぶしだ」[/A]
[A:南雲蓮:照れ]「あの、すみません……僕なんかが」[/A]
蓮が慌てて頭を下げる。清治の胸の内で、凍りついていた何かが、音を立てて崩れ落ちていく感覚。
あの日から一ヶ月。蓮は出て行かず、清治も追い出さなかった。奇妙な引力が、二人を繋ぎ止めていたのだ。蓮の作る料理は、日を追うごとに美咲の味に近づいていく。いや、最初から同じだった。清治はその味に溺れ、娘の幻影をこの薄汚れた青年に重ねている。
[A:遠藤清治:冷静]「蓮。竿先が上がってるぞ」[/A]
[A:南雲蓮:驚き]「えっ、あ、はい! すみません!」[/A]
慌てふためく蓮を見て、清治の喉の奥から、乾いた音が漏れた。笑い声。三年ぶりに発したその音は、自分自身の耳にも奇妙に響く。
蓮が目を丸くして清治を見る。その瞳が一瞬、濡れたように揺らいだ。
[A:南雲蓮:喜び]「……清治さんが、笑った」[/A]
その言葉に、清治はハッとして口元を引き結ぶ。
幸福だ。吐き気がするほどに、温かく、柔らかい。
娘を殺された男が、見知らぬ若者と並んで釣りをし、笑い合っている。これは裏切りではないか。美咲への、血の滲むような忠誠に対する冒涜ではないか。
夕暮れ。
二人は並んで家路につく。蓮の影が、長く伸びて清治の影と重なる光景。
[A:南雲蓮:悲しみ]「清治さん。僕は……いつか、罰を受けるべきなんです」[/A]
唐突な独白。蓮の声は震えていた。
[A:遠藤清治:怒り]「何の話だ。飯の支度が遅れるぞ」[/A]
清治はあえてぶっきらぼうに遮る。聞きたくない。この硝子細工のような日常に、ひびが入る音など。
だが、破滅の足音は確実に近づいていた。蓮の荷物の奥底、古い布に包まれた「それ」が、呪いのように二人を待ち受けているとも知らずに。
第三章: 魂の嘔吐
激しさを増す雨音。屋根を叩く飛沫が、まるで誰かの助けを求める拳の連打にも聞こえる。
清治は蓮の部屋――かつて美咲が使っていた部屋――に立っていた。蓮は入浴中。開け放たれたボストンバッグ。そこからこぼれ落ちた、小さな巾着袋。
何気なく拾い上げた指先が、氷のように冷たくなる。
見覚えのある刺繍。赤い糸で縫われた「交通安全」の文字。端が焦げ、血のような黒ずんだしみが付着している。
[Think]これは。[/Think]
呼吸停止。視界が明滅し、耳鳴りがキーンと脳髄を貫く。
美咲が最期に持っていたお守り。警察からは紛失したと聞かされていた。なぜ、蓮がこれを持っている?
答えは一つしかない。
記憶の蓋が吹き飛ぶ。ニュース映像。モザイクのかかった少年A。今の蓮と同じ年頃。首元の火傷。
全てのパズルが、最悪の形で噛み合う。
「あぁ……あぁぁ……」
声にならない呻き。愛おしさが、信頼が、安らぎが、瞬時にしてどす黒いコールタールのような憎悪へと反転する。
風呂場から出てきた蓮が、廊下で立ち尽くしていた。清治の手にあるお守りを見て、その顔から血の気が引いていく。
[A:南雲蓮:絶望]「……あ」[/A]
弁解はない。逃走もない。ただ、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちるのみ。
[Shout]「貴様ァァァ!!!」[/Shout]
清治は獣のような咆哮を上げ、蓮に飛びかかった。細い首を両手で締め上げる。熱い皮膚の感触。脈打つ血管。
殺してやる。こいつが美咲を奪った。こいつが、俺の春を殺した。
[A:遠藤清治:狂気]「死ね! 返せ! 美咲を返せ!!」[/A]
蓮の顔が赤黒く鬱血していく。だが、彼は抵抗しない。清治の手首を掴もうともせず、ただ涙を溢れさせながら、酸素の足りない喉で言葉を絞り出す。
[A:南雲蓮:悲しみ]「殺して……ください……」[/A]
[A:南雲蓮:愛情]「清治さん……僕を……殺して……」[/A]
その目は、安らぎさえ湛えていた。ようやく終わるのだという、深い安堵。
清治の指が凍りつく。殺意よりも深く、鋭い刃が胸を刺した。こいつは、死にたがっている。俺の手で裁かれることを、至上の喜びとしているのだ。
殺せば、こいつは救われる。俺は、こいつを楽にしてやるだけだ。
[A:遠藤清治:絶望]「……ふざ、けるな……」[/A]
脱力。清治は蓮の体を突き飛ばした。
激しい咳き込みと共に、蓮が床に這いつくばる。その背中を見下ろしながら、清治は自身の魂が嘔吐するのを感じた。
第四章: 煉獄の雨
[A:遠藤清治:怒り]「失せろ!! 二度と俺の前に顔を見せるな!!」[/A]
怒号と共に、清治は蓮の荷物を玄関の外へ放り投げた。泥水が跳ねる。
蓮は一言も発さず、ただ深く一礼した。その顔は死人のように蒼白で、目からは光が完全に消え失せている。
雨の中へ消えていく背中。細く、頼りなく、今にも闇に溶けてしまいそうな輪郭。
清治は扉に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
心臓が痛い。憎い。憎い憎い憎い。殺してやりたいほどの憎悪と、昨夜までこの手の中にあった温もりが、体内で激しく衝突し、精神を引き裂いていく。
◇◇◇
三日後。
清治はカウンターの中で、空のグラスを磨き続けていた。営業は再開していない。ただ、手を動かしていないと狂ってしまいそうだったのだ。
[A:佐伯洋子:怒り]「アンタ、バカだねぇ。本当にバカだ」[/A]
洋子が店に入ってくるなり、濡れた傘を床に叩きつけた。
[A:佐伯洋子:悲しみ]「あの子、駅前でずっと座り込んでたよ。雨の日も、風の日も。……まるで、捨てられた犬みたいにさ」[/A]
[A:遠藤清治:冷静]「知らん。俺には関係ない」[/A]
[A:佐伯洋子:怒り]「関係ない!? アンタ、自分の顔を鏡で見てみな! 娘を殺した相手を愛しちまった自分を許せないって、そう顔に書いてあるよ!」[/A]
[A:遠藤清治:怒り]「黙れ!!」[/A]
グラスが床で砕け散る。破片が清治の頬を掠め、一筋の血が流れた。
その時、遠くでサイレンの音が鳴り響く。一台ではない。何台も、何台も。不吉な不協和音が近づいてくる。
「火事だ! 近所の安アパートだぞ!」
通りを走る野次馬の声。
清治の背筋に悪寒が走る。あそこは、洋子が言っていた、蓮がうずくまっていた場所の近く。
[System]緊急速報。○○区にて大規模火災発生。逃げ遅れた子供がいるとの情報あり。[/System]
テレビから流れる無機質な音声。画面に映し出されたのは、紅蓮の炎に包まれる木造アパート。そして、レポーターが叫ぶ。
「今、一人の青年が火の中に飛び込みました! 制止を振り切って、中へ!」
青い作業着。黒い髪。
清治は弾かれたように店を飛び出した。
雨は止んでいる。だが、空は炎の照り返しで血の色に染まっていた。
[Think]バカ野郎。勝手に死ぬな。俺の許可なく、楽になることなど許さん。[/Think]
肺が焼けつくほど走りながら、清治は初めて自覚した。
復讐でもない。許しでもない。
ただ、あの絶望的なまでに孤独な魂を、この世に繋ぎ止めたいという、エゴイズムの塊のような執着。
第五章: 業火の抱擁
熱波が肌を焼く。消防隊員の制止を振り切り、清治は規制線の内側へ踏み込んだ。
[Shout]「蓮!!!」[/Shout]
喉が裂けるほどの絶叫。崩れかけたアパートの入り口から、黒い煙と共に人影が転がり出てくる。
蓮だ。腕には、煤だらけの幼い子供を抱えている。
子供を救急隊員に手渡すと同時に、蓮の膝が折れた。その体はボロ布のように地面に崩れ落ちる。
清治は駆け寄り、蓮の胸倉を掴んで引き起こした。
顔の半分が煤と火傷で爛れている。意識は朦朧とし、瞳の焦点が合っていない。それでも、清治の顔を見ると、ひび割れた唇が微かに動いた。
[A:南雲蓮:愛情]「……これで、償え……まし、たか……?」[/A]
死の淵での問いかけ。これで許されるか。これで、あなたの娘のところへ行けるか。
清治は歯を食いしばり、蓮の頬を平手打ちした。乾いた音が、爆ぜる炎の音にかき消される。
[A:遠藤清治:怒り]「ふざけるな。誰が許すと言った」[/A]
[A:南雲蓮:驚き]「あ……」[/A]
[A:遠藤清治:悲しみ]「死んで楽になることは許さん。生きて、這いつくばってでも生きて、私の憎しみを背負い続けろ。それがお前の罰だ」[/A]
清治は蓮の体をきつく抱きしめた。
[Sensual]
熱い。焼けただれた皮膚の熱と、清治の体温が混ざり合う。汗と煤、そして鉄錆のような血の匂い。清治の涙が蓮の傷口に落ち、塩となって痛みを刻み込む。それは抱擁と呼ぶにはあまりに暴力的で、処刑と呼ぶにはあまりに情熱的な、魂の結合だった。
[/Sensual]
蓮の喉から、獣のような慟哭が漏れた。死という救済を奪われ、生き地獄という名の愛を与えられた絶望と歓喜。
◇◇◇
季節が巡る。
定食屋のシャッターは半分だけ開いていた。厨房には、再び出汁の香りが漂う。
郵便受けに、一通の手紙。差出人の名前はない。消印は遠い北の街。
封を開ける。中には一枚の写真と、短い便箋。
写真は、雪景色の中で野良猫に餌をやる蓮の後ろ姿。
そして、震える文字で書かれた一行。
『今日も、生きています。申し訳ありません』
清治は写真を指でなぞり、ふっと息を吐いた。熱いほうじ茶をすする。苦味が、喉の奥へ落ちていく。
許しはしない。憎しみは消えない。
だが、この胸の痛みがある限り、俺たちは繋がっている。
[A:遠藤清治:冷静]「……飯は、残すなよ」[/A]
誰に言うでもなく呟き、清治は空を見上げた。
そこには、三年前の春と同じ、残酷なほどに青い空が広がっている。
[System]物語は幕を閉じるが、二人の業(カルマ)は終わらない。[/System]