君が忘れても、僕の脳は君の罪を愛し続ける

君が忘れても、僕の脳は君の罪を愛し続ける

主な登場人物

久遠 ミナト (Kuon Minato)
久遠 ミナト (Kuon Minato)
24歳 / 男性
常に頭痛に耐えるように眉間を寄せている。色素の薄い茶髪、寝不足で隈のある三白眼。全身黒づくめの服装。
白波 ツムギ (Shiranami Tsumugi)
白波 ツムギ (Shiranami Tsumugi)
24歳 / 女性
透き通るような白い肌、ショートカットの黒髪。儚げだが、瞳には強い光を宿す。白いワンピースを好む。
御子柴 ゲン (Mikoshiba Gen)
御子柴 ゲン (Mikoshiba Gen)
62歳 / 男性
白髪交じりの無精髭、くたびれた白衣。常にキャンディを舐めている。
11 4485 文字 読了目安: 約9分
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第1章: 呪われた記憶と空っぽの少女

激しさを増す雨脚。アスファルトを叩く水音は、鼓膜の奥で数億個のガラス玉が砕けるようなノイズ。

久遠ミナトは、こめかみの鈍痛に眉間を深く寄せた。濡れた茶色の前髪が、街灯の光を頼りなく吸い込んでいる。寝不足で隈の浮き出た三白眼。見下ろす先は、濁流うねる川面。水を吸った黒いロングコートが、鉛のごとき重さで肩に食い込んでいた。

「記録によれば、ここからの落下生存率は〇・二パーセント」

口をついて出たのは、死への恐怖ではない。無機質なデータ。ミナトの脳は、三歳の頃に見た道路標識の錆から、昨日すれ違った野良猫の毛並みまで、視界に入った全情報をハードディスクのように焼き付ける。決して忘却しない呪い。脳容量の飽和。過去という名の汚泥が、現在の思考回路を寸断しようとしている。

冷たい鉄の感触。指紋の溝を埋める欄干。

その時。

「ねえ、死ぬならさ、その脳みそ、私にちょうだいよ」

背後で焚かれた、フラッシュのごとき衝撃。

振り返るミナトの目に映ったのは、傘もささずに立つ一人の少女。闇の中で発光するかのような、透き通る白い肌。ショートカットの黒髪から滴る雨の雫が、あごのラインを伝い、鎖骨のくぼみへと滑り落ちていく。泥ハネで裾の汚れた白いワンピース。手には不釣り合いなほど無骨なポラロイドカメラ。

「……何だ、お前は」

「シャッターチャンスを逃した女、かな」

悪戯っぽく唇を尖らせ、濡れたコンクリートを跳ねるように近づいてくる少女。その瞳に、自殺志願者を前にした動揺など微塵もない。獲物を見つけた肉食獣か、あるいは純粋な子供か。強烈な光の宿り。

「君、すごい顔してる。世界の終わりを全部一人で背負い込んだみたい。私の名前はツムギ。白波ツムギ。君の名前は?」

「……久遠だ」

「クオンくん。ねえ、私ね、明日になると今日の君のこと、全部忘れちゃうんだ。病気でさ」

自身の頭を指先でトントンと叩き、へらりと笑うツムギ。

「私の脳みそ、ザルなんだよね。だから君が羨ましいよ。ねえ、死ぬのやめてさ、私の代わりになってよ」

「代わり?」

「そう。私の『外部記憶装置』。私が忘れる世界を、君が覚えててよ」

論理的思考の停止。忘れたい男と、覚えられない女。あまりに滑稽で、あまりに不条理な提案。しかし、彼女が手首を掴んだ瞬間、その体温の高さに、脳内のノイズが一瞬だけ止んだ。

「契約成立ってことで! 家、来てくれるっしょ?」

第2章: 氷解

六畳一間のアパート。漂うのは現像液の酸味と、日向のような石鹸の香り。壁一面に貼られたポラロイド写真。そこにあるのは、ありふれた街角、捨てられた三輪車、そしてミナトの横顔。

「これ、いつ撮ったんだ?」

「えーっと、写真の裏見てよ。日付書いてあるっしょ!」

スプーンでプリンを掬いながら答えるツムギ。白いワンピースから覗く細い足が、行儀悪くブラブラと揺れている。

写真を裏返す。『4月12日。ミナト、初めて笑う』。丸い文字。

同居生活は奇妙なバランスの上に成り立っていた。眠るたびにリセットされるツムギ。朝起きるたび、ミナトは彼女に「初めまして」と告げられ、二人の関係性とルールを一から説明する。

「ふうん。じゃあ私、君のこと結構気に入ってるんだね」

「記録によれば、昨日の君は僕の作った味噌汁を『味が薄い』と文句を言いながら二回おかわりした」

「マジ? 私、生意気じゃん!」

ケラケラと笑うツムギ。その笑顔を見るたび、ミナトの脳裏に焼き付く「あの日の炎」――両親が家屋の下敷きになり、断末魔を上げる極彩色の記憶――が、薄皮を剥ぐように遠のいていく。彼女の笑顔は、脳の容量を圧迫するゴミデータではない。保存すべき「宝石」として、ミナトの海馬に新たなフォルダを形成させていた。

ある夜。雷鳴に怯えるツムギの背中を、不器用にさする。

彼女の髪からは安っぽいシャンプーの香り。

「ミナト、明日も私、君のこと覚えてられるかな」

「無理だ。君の海馬は機能していない」

「うわ、現実的。……でもさ、ミナトが覚えててくれるなら、私が忘れても、それは『あったこと』になるよね?」

ミナトの胸に額を押し付けるツムギ。シャツ越しに伝わる鼓動は、ミナト自身の心臓のリズムと同期していた。

「ああ。僕が覚えている。君がどれだけ馬鹿で、どれだけよく笑い、どれだけ温かいか。全部、僕が記録し続ける」

生まれて初めて口にした、未来への誓い。忘却という救いを捨て、記憶という呪いを抱きしめて生きる覚悟。ミナトの瞳から、三白眼特有の鋭さが消え、穏やかな色が宿り始めていた。

第3章: 残酷な真実

死と消毒液のにおいで満ちた回廊。

ツムギが倒れたのは、買い物の途中。突然の痙攣、そして意識の消失。

「ご家族の方ですか?」

「……同居人です」

主治医の御子柴ゲンは、くたびれた白衣のポケットからキャンディを取り出し、包装紙をカサカサと鳴らして剥く。無精髭の生えた顎をさすりながら、ミナトを値踏みするように見つめた。

「彼女の荷物、まとめておいたよ。……見るかい?」

御子柴の視線が、不自然にパイプ椅子の上へ向けられる。置かれた革鞄。ミナトは無言で鞄を開けた。中には愛用のカメラと、一冊の古びた手帳。

黒い革張り。日記だ。

指先の微かな震え。前向性健忘の彼女が、日記をつける意味。それは記憶の代用品。ページをめくる。そこには、ミナトが知る「明るいツムギ」の筆跡で、信じ難い事実が羅列されていた。

『X月X日。今日もミナトを騙せた。彼は私の演技を信じている』

『Y月Y日。罪悪感で吐き気がする。でも、あの日見た炎の色が消えない』

止まらない手。浅くなる呼吸。視界の明滅、キーンと響く耳鳴り。

そして、最後の日付のページ。殴り書きのような文字が、ミナトの網膜を焼き尽くす。

『あの日、ミナトの家に入り込み、火を点けたのは私だ。ごめんなさい。ごめんなさい。償うために、私は記憶を失ったフリをして、彼に近づいた。私を殺してほしい。彼の手で』

反転する世界。

足元の床が抜け落ち、無限の闇へと落下していく感覚。胃の腑から込み上げる酸。口元を手で覆う。

「嘘だ……」

脳内でオーバーラップする、愛しいツムギの笑顔と、両親を焼き殺した炎の赤。強制的に、最悪の形で噛み合うジグソーパズルのピース。

第4章: 愛と憎悪の煉獄

風に揺れる病室のカーテン。不規則な光の遮断。

ベッドの上、身を起こし窓の外を見るツムギ。その横顔は、ミナトが愛した儚げな少女そのもの。だが、今のミナトには、それが精巧に作られた悪魔の仮面にしか見えない。

「……読んだんだね」

振り返るツムギ。その瞳には、いつもの天真爛漫な光はなく、深く澱んだ沼のような諦観。脈拍を変えずに嘘をつける女。

「答えろ。全部、演技だったのか。忘れてなど、いなかったのか」

ミナトの声は、割れたガラスのように掠れている。渇く喉。張り付く舌。

「そうだよ」

微笑む彼女。聖母のようでもあり、断罪を待つ罪人のようでもある、静かな微笑み。

「毎日、君の苦しむ顔を見るのが辛かった。でも、それ以上に嬉しかった。私が奪った『幸せ』の欠片を、少しでも君に返せている気がして」

「ふざけるなッ!!」

咆哮と共に、蹴り飛ばされるサイドテーブル。砕け散る花瓶、飛び散る水とガラス片。

「僕の両親を殺した手で、僕に触れていたのか!? 僕がどんな思いで……どんな思いで君を!!」

沸騰する脳。両親の焼ける臭い。ツムギの石鹸の香り。愛おしさ。憎悪。殺意。恋慕。相反する感情が泥のように混ざり合い、ミナトの理性を食い破る。

「殺してよ、ミナト」

ベッドから降り、裸足でガラス片を踏みつけながら歩み寄るツムギ。白い足の裏から滲む鮮血が、床に赤い花を咲かせた。彼女はミナトの手を取り、自分の細い首へと導く。

「君になら、殺されたい。それが私の、最後の贖罪」

「やめろ……触るな……ッ!」

「憎んで。お願いだから、私を憎んで!」

悲痛な叫び。手指に感じる首の熱さ。力を込めれば、容易く折れる細さ。

殺せ。こいつは仇だ。

愛してる。こいつは光だ。

殺せ! 愛してる! 殺せ! 愛してる!

「うああああああああああああああッ!!」

獣のような咆哮。突き飛ばされたツムギが壁に激突し、崩れ落ちる。

過呼吸。白濁する視界。ミナトは病室を飛び出した。背後で、ツムギの啜り泣く声だけが、いつまでも、いつまでも耳にこびりついて離れない。

第5章: 優しい嘘

流れた数年の歳月。

潮風と錆の匂いに包まれた、海辺の療養院。白髪の増えた御子柴医師の隣で、ミナトは中庭のベンチに座る一人の女性を見つめていた。

「皮肉なもんだねえ」

包み紙も剥かずにキャンディを弄びながら、御子柴が呟く。

「罪の意識に耐えきれなかったんだろう。彼女の心は、今度こそ本当に壊れてしまった。解離性健忘……いや、もっと深い、魂の防衛本能かな。彼女は、自分の名前さえ覚えていない」

ベンチの上のツムギは、相変わらず白いワンピース姿。だが、その瞳はガラス玉のように透明で、何の感情も、何の記憶も映していない。空を飛ぶカモメを目で追い、幼子のように口を開けている。

黒いコートの襟を立て、砂利を踏みしめて近づくミナト。足音への反応はない。

落ちた影に気づき、ようやく彼女は顔を上げた。

「……こんにちは」

首を傾げるツムギ。その表情は無垢そのもの。彼女はもう、放火犯ではない。ミナトを騙した詐欺師でもない。ただの、空っぽの器。

ミナトの胸の内で、どす黒い憎悪の残り火と、焼き尽くされたはずの愛が、静かに灰となって混ざり合う。

復讐することはできる。真実を突きつけ、彼女を地獄へ叩き落とすことも。

だが、ミナトは知っている。彼女がくれた「嘘の笑顔」が、かつて自分を死の淵から救った事実を。

膝を折り、視線を合わせる。目尻に滲む熱いもの。頬を伝う雫。

「初めまして」

震える声。けれど、これ以上ないほど優しい響き。

「初めまして、だね? 君、だあれ?」

不思議そうに尋ねるツムギ。

かつて火を放ち、かつて自分を抱きしめたその手を、そっと握りしめる。

「僕は久遠ミナト。……君に、恋をするために来ました」

嘘だ。

これは、生涯をかけた復讐であり、魂を削る贖罪であり、そして、世界で一番残酷な愛の告白。

ミナトは、彼女の罪という真実をたった一人、その巨大な記憶の倉庫に永久保存し、彼女には何も知らない無垢な明日を与え続ける道を選んだ。

吹き抜ける海風。乾いていく涙。

「そうなんだ! えへへ、よろしくね、ミナトくん!」

ツムギが笑った。

その笑顔は、かつてミナトが何より守りたいと願った、あの日の笑顔と同じだった。

AI物語分析

【物語の考察:記憶という名の牢獄】

本作の核となるのは「記憶」と「忘却」の対比です。主人公ミナトは「忘れることができない」能力を持ち、ヒロインのツムギは「忘れたフリをして生きる」罪人として描かれます。ミナトにとって、過去は常に現在進行形の痛みですが、ツムギにとっての忘却(演技)は、罪からの逃避であり、同時にミナトへの歪んだ贖罪でもありました。

【メタファーの解説:カメラと炎】

ツムギが持つポラロイドカメラは「一瞬を永遠に固定する」象徴であり、ミナトの脳機能のメタファーでもあります。対して、彼女が過去に犯した「放火」は、全てを灰にして消し去る行為。この「保存」と「消去」の対立構造が、ラストシーンで逆転します。本当に記憶を失ったツムギ(消去された器)に対し、ミナトは彼女の罪を永遠に記憶し続ける(保存する)ことを選びます。これは表面的にはハッピーエンドに見えますが、本質的には「彼女に一生罪を背負わせず、無垢なまま生かす」という、ミナトによる最も優しく、最も残酷な復讐の形とも解釈できるのです。

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