第1章: 呪われた記憶と空っぽの少女
激しさを増す雨脚。アスファルトを叩く水音は、鼓膜の奥で数億個のガラス玉が砕けるようなノイズ。
久遠ミナトは、こめかみの鈍痛に眉間を深く寄せた。濡れた茶色の前髪が、街灯の光を頼りなく吸い込んでいる。寝不足で隈の浮き出た三白眼。見下ろす先は、濁流うねる川面。水を吸った黒いロングコートが、鉛のごとき重さで肩に食い込んでいた。
「記録によれば、ここからの落下生存率は〇・二パーセント」
口をついて出たのは、死への恐怖ではない。無機質なデータ。ミナトの脳は、三歳の頃に見た道路標識の錆から、昨日すれ違った野良猫の毛並みまで、視界に入った全情報をハードディスクのように焼き付ける。決して忘却しない呪い。脳容量の飽和。過去という名の汚泥が、現在の思考回路を寸断しようとしている。
冷たい鉄の感触。指紋の溝を埋める欄干。
その時。
「ねえ、死ぬならさ、その脳みそ、私にちょうだいよ」
背後で焚かれた、フラッシュのごとき衝撃。
振り返るミナトの目に映ったのは、傘もささずに立つ一人の少女。闇の中で発光するかのような、透き通る白い肌。ショートカットの黒髪から滴る雨の雫が、あごのラインを伝い、鎖骨のくぼみへと滑り落ちていく。泥ハネで裾の汚れた白いワンピース。手には不釣り合いなほど無骨なポラロイドカメラ。
「……何だ、お前は」
「シャッターチャンスを逃した女、かな」
悪戯っぽく唇を尖らせ、濡れたコンクリートを跳ねるように近づいてくる少女。その瞳に、自殺志願者を前にした動揺など微塵もない。獲物を見つけた肉食獣か、あるいは純粋な子供か。強烈な光の宿り。
「君、すごい顔してる。世界の終わりを全部一人で背負い込んだみたい。私の名前はツムギ。白波ツムギ。君の名前は?」
「……久遠だ」
「クオンくん。ねえ、私ね、明日になると今日の君のこと、全部忘れちゃうんだ。病気でさ」
自身の頭を指先でトントンと叩き、へらりと笑うツムギ。
「私の脳みそ、ザルなんだよね。だから君が羨ましいよ。ねえ、死ぬのやめてさ、私の代わりになってよ」
「代わり?」
「そう。私の『外部記憶装置』。私が忘れる世界を、君が覚えててよ」
論理的思考の停止。忘れたい男と、覚えられない女。あまりに滑稽で、あまりに不条理な提案。しかし、彼女が手首を掴んだ瞬間、その体温の高さに、脳内のノイズが一瞬だけ止んだ。
「契約成立ってことで! 家、来てくれるっしょ?」
第2章: 氷解
六畳一間のアパート。漂うのは現像液の酸味と、日向のような石鹸の香り。壁一面に貼られたポラロイド写真。そこにあるのは、ありふれた街角、捨てられた三輪車、そしてミナトの横顔。
「これ、いつ撮ったんだ?」
「えーっと、写真の裏見てよ。日付書いてあるっしょ!」
スプーンでプリンを掬いながら答えるツムギ。白いワンピースから覗く細い足が、行儀悪くブラブラと揺れている。
写真を裏返す。『4月12日。ミナト、初めて笑う』。丸い文字。
同居生活は奇妙なバランスの上に成り立っていた。眠るたびにリセットされるツムギ。朝起きるたび、ミナトは彼女に「初めまして」と告げられ、二人の関係性とルールを一から説明する。
「ふうん。じゃあ私、君のこと結構気に入ってるんだね」
「記録によれば、昨日の君は僕の作った味噌汁を『味が薄い』と文句を言いながら二回おかわりした」
「マジ? 私、生意気じゃん!」
ケラケラと笑うツムギ。その笑顔を見るたび、ミナトの脳裏に焼き付く「あの日の炎」――両親が家屋の下敷きになり、断末魔を上げる極彩色の記憶――が、薄皮を剥ぐように遠のいていく。彼女の笑顔は、脳の容量を圧迫するゴミデータではない。保存すべき「宝石」として、ミナトの海馬に新たなフォルダを形成させていた。
ある夜。雷鳴に怯えるツムギの背中を、不器用にさする。
彼女の髪からは安っぽいシャンプーの香り。
「ミナト、明日も私、君のこと覚えてられるかな」
「無理だ。君の海馬は機能していない」
「うわ、現実的。……でもさ、ミナトが覚えててくれるなら、私が忘れても、それは『あったこと』になるよね?」
ミナトの胸に額を押し付けるツムギ。シャツ越しに伝わる鼓動は、ミナト自身の心臓のリズムと同期していた。
「ああ。僕が覚えている。君がどれだけ馬鹿で、どれだけよく笑い、どれだけ温かいか。全部、僕が記録し続ける」
生まれて初めて口にした、未来への誓い。忘却という救いを捨て、記憶という呪いを抱きしめて生きる覚悟。ミナトの瞳から、三白眼特有の鋭さが消え、穏やかな色が宿り始めていた。
第3章: 残酷な真実
死と消毒液のにおいで満ちた回廊。
ツムギが倒れたのは、買い物の途中。突然の痙攣、そして意識の消失。
「ご家族の方ですか?」
「……同居人です」
主治医の御子柴ゲンは、くたびれた白衣のポケットからキャンディを取り出し、包装紙をカサカサと鳴らして剥く。無精髭の生えた顎をさすりながら、ミナトを値踏みするように見つめた。
「彼女の荷物、まとめておいたよ。……見るかい?」
御子柴の視線が、不自然にパイプ椅子の上へ向けられる。置かれた革鞄。ミナトは無言で鞄を開けた。中には愛用のカメラと、一冊の古びた手帳。
黒い革張り。日記だ。
指先の微かな震え。前向性健忘の彼女が、日記をつける意味。それは記憶の代用品。ページをめくる。そこには、ミナトが知る「明るいツムギ」の筆跡で、信じ難い事実が羅列されていた。
『X月X日。今日もミナトを騙せた。彼は私の演技を信じている』
『Y月Y日。罪悪感で吐き気がする。でも、あの日見た炎の色が消えない』
止まらない手。浅くなる呼吸。視界の明滅、キーンと響く耳鳴り。
そして、最後の日付のページ。殴り書きのような文字が、ミナトの網膜を焼き尽くす。
『あの日、ミナトの家に入り込み、火を点けたのは私だ。ごめんなさい。ごめんなさい。償うために、私は記憶を失ったフリをして、彼に近づいた。私を殺してほしい。彼の手で』
反転する世界。
足元の床が抜け落ち、無限の闇へと落下していく感覚。胃の腑から込み上げる酸。口元を手で覆う。
「嘘だ……」
脳内でオーバーラップする、愛しいツムギの笑顔と、両親を焼き殺した炎の赤。強制的に、最悪の形で噛み合うジグソーパズルのピース。
第4章: 愛と憎悪の煉獄
風に揺れる病室のカーテン。不規則な光の遮断。
ベッドの上、身を起こし窓の外を見るツムギ。その横顔は、ミナトが愛した儚げな少女そのもの。だが、今のミナトには、それが精巧に作られた悪魔の仮面にしか見えない。
「……読んだんだね」
振り返るツムギ。その瞳には、いつもの天真爛漫な光はなく、深く澱んだ沼のような諦観。脈拍を変えずに嘘をつける女。
「答えろ。全部、演技だったのか。忘れてなど、いなかったのか」
ミナトの声は、割れたガラスのように掠れている。渇く喉。張り付く舌。
「そうだよ」
微笑む彼女。聖母のようでもあり、断罪を待つ罪人のようでもある、静かな微笑み。
「毎日、君の苦しむ顔を見るのが辛かった。でも、それ以上に嬉しかった。私が奪った『幸せ』の欠片を、少しでも君に返せている気がして」
「ふざけるなッ!!」
咆哮と共に、蹴り飛ばされるサイドテーブル。砕け散る花瓶、飛び散る水とガラス片。
「僕の両親を殺した手で、僕に触れていたのか!? 僕がどんな思いで……どんな思いで君を!!」
沸騰する脳。両親の焼ける臭い。ツムギの石鹸の香り。愛おしさ。憎悪。殺意。恋慕。相反する感情が泥のように混ざり合い、ミナトの理性を食い破る。
「殺してよ、ミナト」
ベッドから降り、裸足でガラス片を踏みつけながら歩み寄るツムギ。白い足の裏から滲む鮮血が、床に赤い花を咲かせた。彼女はミナトの手を取り、自分の細い首へと導く。
「君になら、殺されたい。それが私の、最後の贖罪」
「やめろ……触るな……ッ!」
「憎んで。お願いだから、私を憎んで!」
悲痛な叫び。手指に感じる首の熱さ。力を込めれば、容易く折れる細さ。
殺せ。こいつは仇だ。
愛してる。こいつは光だ。
殺せ! 愛してる! 殺せ! 愛してる!
「うああああああああああああああッ!!」
獣のような咆哮。突き飛ばされたツムギが壁に激突し、崩れ落ちる。
過呼吸。白濁する視界。ミナトは病室を飛び出した。背後で、ツムギの啜り泣く声だけが、いつまでも、いつまでも耳にこびりついて離れない。
第5章: 優しい嘘
流れた数年の歳月。
潮風と錆の匂いに包まれた、海辺の療養院。白髪の増えた御子柴医師の隣で、ミナトは中庭のベンチに座る一人の女性を見つめていた。
「皮肉なもんだねえ」
包み紙も剥かずにキャンディを弄びながら、御子柴が呟く。
「罪の意識に耐えきれなかったんだろう。彼女の心は、今度こそ本当に壊れてしまった。解離性健忘……いや、もっと深い、魂の防衛本能かな。彼女は、自分の名前さえ覚えていない」
ベンチの上のツムギは、相変わらず白いワンピース姿。だが、その瞳はガラス玉のように透明で、何の感情も、何の記憶も映していない。空を飛ぶカモメを目で追い、幼子のように口を開けている。
黒いコートの襟を立て、砂利を踏みしめて近づくミナト。足音への反応はない。
落ちた影に気づき、ようやく彼女は顔を上げた。
「……こんにちは」
首を傾げるツムギ。その表情は無垢そのもの。彼女はもう、放火犯ではない。ミナトを騙した詐欺師でもない。ただの、空っぽの器。
ミナトの胸の内で、どす黒い憎悪の残り火と、焼き尽くされたはずの愛が、静かに灰となって混ざり合う。
復讐することはできる。真実を突きつけ、彼女を地獄へ叩き落とすことも。
だが、ミナトは知っている。彼女がくれた「嘘の笑顔」が、かつて自分を死の淵から救った事実を。
膝を折り、視線を合わせる。目尻に滲む熱いもの。頬を伝う雫。
「初めまして」
震える声。けれど、これ以上ないほど優しい響き。
「初めまして、だね? 君、だあれ?」
不思議そうに尋ねるツムギ。
かつて火を放ち、かつて自分を抱きしめたその手を、そっと握りしめる。
「僕は久遠ミナト。……君に、恋をするために来ました」
嘘だ。
これは、生涯をかけた復讐であり、魂を削る贖罪であり、そして、世界で一番残酷な愛の告白。
ミナトは、彼女の罪という真実をたった一人、その巨大な記憶の倉庫に永久保存し、彼女には何も知らない無垢な明日を与え続ける道を選んだ。
吹き抜ける海風。乾いていく涙。
「そうなんだ! えへへ、よろしくね、ミナトくん!」
ツムギが笑った。
その笑顔は、かつてミナトが何より守りたいと願った、あの日の笑顔と同じだった。