父のキャンバス

父のキャンバス

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第一章 錆びついた鍵と記憶

神崎健太は、数字とロジックで構築された世界に生きていた。広告代理店のエース営業として、彼が扱うのはクライアントの要望を具体的なROI(投資対効果)に変換する作業だ。感情や感性といった曖昧なものは、プレゼン資料を彩るためのスパイス程度にしか考えていない。そんな彼の価値観の根底には、十年以上前に亡くなった父、浩一への軽蔑があった。

父は、売れない画家だった。健太の記憶の中の父は、いつも絵の具の匂いをさせ、家計を顧みず、夢ばかりを語る頼りない男だった。母がパートで家計を支える傍ら、父はアトリエ代わりに使っていた薄暗い納屋に籠もり、誰にも評価されない絵を描き続けた。そんな父が病で呆気なく逝った時、健太は悲しみよりも先に、安堵に近い感情を抱いたことを覚えている。

その父の十三回忌を数日後に控えた週末、母から電話があった。

「健太、悪いんだけど、納屋の整理を手伝ってくれないかしら。もう、お父さんの物もきちんとしないとね」

気乗りしないまま実家へ向かうと、懐かしい土の匂いと、記憶の底に沈んでいた絵の具の微かな香りが鼻を掠めた。納屋の扉は軋みながら開き、埃っぽい空気が舞い上がる。そこは、時が止まった空間だった。壁に立てかけられたいくつかのキャンバスには、健太には理解不能な抽象画が描かれている。やはり、ただの自己満足だ。健太は心の中で毒づきながら、手早くガラクタをゴミ袋に詰めていった。

作業の途中、古い木製の道具箱の底で、何かが指に触れた。取り出してみると、それは凝った装飾の施された、錆びついた真鍮の鍵だった。ずしりと重く、ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。こんな鍵、この家にあっただろうか。

首を傾げながら納屋の奥に目をやると、これまで気づかなかったものがあった。大きな棚の裏、壁の一部に不自然な継ぎ目があり、小さな扉が嵌め込まれている。取っ手はなく、あるのは古びた鍵穴だけ。

健太は無意識に、手の中の鍵を鍵穴に近づけた。まるで吸い寄せられるように、鍵はぴたりと収まった。だが、回すことはしなかった。父の秘密など、今更知りたくもない。面倒事が増えるだけだ。彼は鍵をポケットに押し込むと、何事もなかったかのように作業を再開した。

第二章 灰色の風景

都会のコンクリートジャングルに戻っても、あの錆びた鍵の冷たい感触は、健太のポケットの奥で微かな存在感を放ち続けていた。仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間に納屋の薄闇と、開かずの扉のイメージが脳裏をよぎる。

週明け、健太は大きな壁にぶつかっていた。肝いりのプロジェクトで、クライアントから根本的な見直しを突きつけられたのだ。彼のロジックは完璧なはずだった。しかし、クライアントの担当者は「君の提案には、人の心が感じられないんだよ」と言い放った。上司からは厳しい叱責を受け、チームの同僚たちの視線も冷たい。完璧だと思っていた自分の世界に、静かに亀裂が入っていく。

その夜、健太は冷たい雨が降りしきる街を、傘も差さずに歩いていた。ビルのショーウィンドウに映る自分の姿は、まるで色のない、灰色の風景に溶け込んだ幽霊のようだった。惨めさと焦燥感が胸を締め付ける。こんな時、誰かに弱音を吐ければ楽なのだろうか。だが、彼にはそんな相手はいなかった。人間関係さえも、コストパフォーマンスで測ってきたツケが回ってきたのだ。

不意に、父の姿が頭をよぎった。誰にも理解されず、評価もされず、それでも納屋に籠って絵筆を握り続けた父。あの人も、こんな風に孤独だったのだろうか。自分の信じる世界が誰にも届かない無力感に、打ちひしがれていたのだろうか。

今まで考えたこともなかった視点だった。軽蔑の対象でしかなかった父に、ほんのわずか、自分の姿を重ねていた。

「……確かめなければ」

誰に言うでもなく、健太は呟いた。何を、という明確な答えはない。ただ、このままではいけないという強い衝動が、彼を突き動かしていた。タクシーを拾い、運転手に行き先を告げる。目指す場所は一つしかなかった。

第三章 開かずの扉の告白

深夜、明かりの消えた実家に忍び込み、健太はまっすぐ納屋へ向かった。湿った夜気が肌を撫でる。ポケットから取り出した鍵を、震える手で鍵穴に差し込んだ。カチリ、と乾いた音が響き、固く閉ざされていた錠が開く。ゆっくりと扉を引くと、埃と、そして濃厚な油絵の具の匂いが健太の鼻腔を満たした。

中は、人が一人やっと入れるほどの狭い隠し部屋だった。壁一面に、大小様々なキャンバスがぎっしりと立てかけられている。健太はスマートフォンのライトで、その一枚を照らした。

息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、健太が知る父の抽象的な絵ではなかった。

公園のベンチで、アイスクリームを頬張りながら笑う幼い自分。台所で鼻に小麦粉をつけながら、楽しそうに料理をする若い母。縁側で昼寝をする家族の何気ない日常。そのどれもが、驚くほど写実的で、まるで写真のように精密でありながら、写真には写らない温かい光と愛情に満ち溢れていた。父の画才は、健太の想像を遥かに超えていた。なぜ、こんな絵を隠していたんだ?

部屋の隅に置かれた小さな机の上に、一冊の古い大学ノートが置かれていた。父の日記だった。ページをめくると、そこには健太の知らない父の苦悩が、震えるような文字で綴られていた。

『――今日、医師から最終宣告を受けた。このまま絵を描き続ければ、いずれ完全に光を失うだろう、と。網膜の病気は、もう進行を止められないらしい』

『広告デザイナーとして、徹夜続きで働いてきたツケか。だが、俺から絵を取り上げないでくれ。それだけは』

『妻には、病気のことは言えなかった。心配をかけたくない。会社を辞め、これからは趣味で絵を描くことにしたと嘘をついた。本当は、もう細かい線が見えない。焦点が合わない。それでも、描きたいものがある』

『健太が、初めて自転車に乗れた日。あいつの誇らしげな顔。忘れたくない。この目に焼き付けて、キャンバスに残すんだ。俺が生きた証、家族を愛した証として』

日記は、父の視力が少しずつ失われていく恐怖と、それでもなお家族の姿を描き残そうとする、壮絶な闘いの記録だった。健太が軽蔑していた「夢ばかり見るダメな男」は、そこにはいなかった。いたのは、失明の恐怖と闘いながら、たった一人で家族への愛をキャンバスに刻みつけようとした、孤独で、あまりにも愛情深い父親の姿だった。

一番奥に立てかけられていた、一枚の未完成の絵。そこに描かれていたのは、中学生になったばかりの健太だった。ぶっきらぼうな表情で、父を避けていた頃の自分。父は、そんな息子の横顔さえも、愛おしげな眼差しで見つめ、描き留めようとしていたのだ。

「……親父」

健太の頬を、熱い雫が伝った。それは、後悔と、感謝と、そしてどうしようもないほどの愛しさが入り混じった涙だった。

第四章 父が見た光

翌朝、健太は隠し部屋から数枚の絵を運び出し、リビングの壁に飾った。朝の柔らかな光が、キャンバスに描かれた家族の笑顔を照らし出す。絵を見た母は、最初は何が起きたのか分からずに立ち尽くしていたが、やがて日記の存在を知ると、静かに泣き崩れた。

「あの人、そんなことを……。何も言ってくれなかったのに……」

母の涙は、長年の誤解が溶けていく音のようだった。家の中に、今までなかった温かい光が灯った気がした。

父の十三回忌は、穏やかな空気の中で行われた。健太は、親戚たちに父が残した絵を見せ、父の本当の姿を語って聞かせた。誰もが驚き、そして父の深い愛情に心を打たれていた。健太は、初めて胸を張って「俺の親父は、すごい画家だったんだ」と言うことができた。

会社に戻った健太は、別人になっていた。クライアントとの打ち合わせでは、数字やロジックだけでなく、その先にいる「人」の心を想像しようと努めた。同僚たちの意見にも真摯に耳を傾け、時には自分の弱さを見せることも厭わなかった。灰色の風景に見えた世界は、少しずつ彩りを取り戻していった。人の心の温かさに、ようやく気づくことができたのだ。

数週間後のある晴れた日、健太は再び実家の納屋に立っていた。彼は、父が使っていたイーゼルと、空のキャンバスを譲り受けた。絵を描くつもりはなかった。自分に父のような才能がないことは分かっている。

ただ、知りたかったのだ。

失われゆく光の中で、父はどんな想いでこの白いキャンバスに向き合っていたのか。この真っ白な四角い世界に、どんな光を見ていたのか。

健太は、イーゼルに立てかけた真っ白なキャンバスの前に、静かに立った。

それは、父が最後に見た光であり、これから自分が歩き出す、新しい人生の始まりを象徴しているようだった。父の愛に満たされた記憶を胸に、健太はゆっくりと、自分だけの色を探し始める決意を固めていた。

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