第一章 インクの染みた追憶
水野楓の日常は、灰色がかった水彩画のようだった。色の薄い空、アスファルトの単調な濃淡、そして満員電車に揺られる人々の無個性なシルエット。契約社員としてデータ入力を繰り返す日々は、生きるというより、ただ時間が過ぎるのをやり過ごしている感覚に近かった。喜びも悲しみも、乾いたパンのように味気ない。
そんな楓の唯一の逃避行は、神保町の古書店巡りだった。埃とインクと古い紙の匂いが混じり合った静寂の中で、彼女は自分ではない誰かの人生の断片に触れる。その日も、楓は書架の迷宮を彷徨っていた。ふと、一番奥の、忘れられたような棚の隅に、一冊の本が埋もれているのが目に入った。
深い瑠璃色の革で装丁された、手のひらサイズの小さな本。タイトルはなく、ただ表紙に銀色の線で、複雑に枝を伸ばす一本の樹木が描かれているだけだった。何かに導かれるように、楓はその本を手に取った。ページをめくると、古風なインクで綴られた、流麗な手書き文字が目に飛び込んできた。
『玻璃の森の物語』
そう始まる物語は、奇妙だった。そこは、すべてが硝子でできた森。地面は磨かれた黒曜石で、空には七色の光を放つ水晶の月が浮かんでいる。木々は繊細なガラス細工で、風が吹くたびに、ちりん、ちりんと澄んだ音を立てて葉を揺らす。その森を、「エクリア」という名の少女がひとり、旅をしていた。
楓は読み進めるうちに、全身が粟立つのを感じた。これはただの物語ではない。硝子の葉が奏でる音色が耳の奥で響き、水晶の月の冷たい光が肌を撫でるような、生々しい感覚があった。エクリアが口にする木の実の、蜜のように甘く、どこか切ない味まで、舌の上に再現されるかのようだ。
そして、楓の心臓を鷲掴みにする一文が現れた。
『エクリアは忘れてしまった。大切な、大切な半身の名を。ただ、その響きだけが胸の奥でこだまする。――カエデ、と』
自分の名前。鳥肌が腕を覆った。これは偶然か。しかし、単なる偶然で片付けるには、この物語はあまりにも楓の五感に深く侵食してきていた。閉店間際の古書店で、楓はその本を買い求めると、逃げるように自宅アパートへの道を急いだ。瑠璃色の本が、まるで生きている心臓のように、カバンの中で微かな熱を帯びている気がした。
第二章 二つの世界の境界線
その日から、楓の世界は二つに分かたれた。昼は色褪せた現実、夜は鮮やかな玻璃の夢。
本を枕元に置いて眠ると、必ずエクリアの夢を見た。楓はもはや傍観者ではなかった。彼女自身がエクリアとなり、硝子の森を歩いていた。歌うように共鳴する石に耳を寄せ、涙の味がする泉の水を掬い、光を食べて生きる蝶の群れが舞うのを見上げた。夢の中では、現実の自分が抱える閉塞感も無力感も存在しない。そこには、ただ純粋な驚きと、凛とした孤独だけがあった。
目覚めると、現実世界がますます色褪せて見えた。キーボードを叩く音は、森の音楽に比べてなんと無機質だろう。コンビニの弁当は、光の蝶が運ぶ花粉の甘さに比べてなんと空虚だろう。楓の意識は、急速に玻璃の森へと傾いていった。
仕事のミスが増えた。会議中、窓の外の街路樹が風に揺れるのを見て、それが硝子の枝のようにきらめく幻覚に囚われた。同僚に声をかけられても、一瞬、誰だか分からなくなる。現実と夢の境界線が、ゆっくりと溶け始めている。恐怖よりも、抗いがたいほどの甘美な引力が勝っていた。このまま、あの美しい世界に溶けてしまえたなら。
楓は憑かれたように本を読み進めた。しかし、物語が進むにつれて、森の描写に不穏な影が差し始める。
『玻璃の木々に、細かな亀裂が走り始めた。風が吹いても、かつてのような澄んだ音色は響かない。低く、呻くような軋みが森を満たす。歌っていた石は沈黙し、光の蝶は色を失い、地に落ちていく』
森が、崩壊を始めている。
エクリアはひび割れた大地を彷徨い、その原因を探していた。彼女の旅は、もはや美しい探求ではなく、必死の延命行為へと変わっていた。楓の胸は締め付けられた。エクリアを救わなければ。あの美しい森を、失うわけにはいかない。それは、自分自身を救いたいという悲痛な叫びでもあった。楓は、もはや現実の生活を維持することに興味を失い、ただひたすらに、エクリアと森を救う方法を求めて、夜ごと夢の世界へと沈んでいった。
第三章 砕け散る万華鏡
崩壊は加速していた。夢の中の玻璃の森は、今や巨大な万華鏡が砕け散る寸前のように、危うい光を放っていた。空に浮かぶ水晶の月は赤黒く濁り、硝子の木々は次々と砕け、鋭い破片となって降り注ぐ。エクリア=楓は、その破片で傷つきながらも、ただひたすらに森の中心を目指していた。そこに、すべての答えがある気がしたからだ。
そしてある夜、彼女はついに森の中心にたどり着く。そこにあったのは、静寂に満ちた巨大な「鏡の湖」だった。水面はどこまでも滑らかで、ひび割れた空と砕け散る森を、完璧に映し込んでいる。エクリアは、これが最後の希望だと感じ、おそるおそる湖面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、エクリアの姿ではなかった。
映っていたのは、見知らぬ部屋の隅で膝を抱え、声を殺して泣いている、幼い少女の姿だった。肩を震わせ、小さな背中を丸めて、絶望の淵にいる、五歳か六歳ほどの、幼い楓自身だった。
その瞬間、雷に打たれたように、すべての記憶がエクリアの内に流れ込んできた。
そうだ、私は。私は、楓だった。
両親が毎晩のように怒鳴り合い、物が壊れる音が響く家。学校ではうまく馴染めず、いつもひとりぼっちだった幼い日々。孤独と恐怖に押し潰されそうになった小さな楓が、自分の心を守るために、無意識のうちに創り出した魂の避難場所。それが、この玻璃の森だったのだ。
エクリアは、楓の魂から切り離された半身。楓が現実で傷つくたびに、その痛みを引き受け、彼女の代わりに泣き、眠っている間に美しい夢を見せるためだけに存在していた。エクリアが忘れていた半身の名「カエデ」は、創造主であり、守るべき対象の名だった。
では、なぜ森は崩壊しているのか。
答えは残酷なまでに明白だった。大人になった楓が、日々の生活に摩耗しながらも、少しずつ現実と向き合う強さを持ち始めていたからだ。もはや、この絶対的な避難場所を必要としなくなりつつあった。ひとつの魂に戻ろうとする力が働き、分裂した世界はその存在意義を失い、崩壊へと向かっている。エクリアという存在そのものが、楓の成長によって、消滅しようとしていた。
「いや……」
鏡の湖の前で、エクリアは膝から崩れ落ちた。自分の存在が、愛する半身の弱さの証であり、その消滅が、彼女の成長の証だというのなら、あまりに悲しい。砕け散る森は、楓が手放そうとしている、彼女自身の子供時代の叫びだった。
第四章 さよなら、私の半分
真実を知った楓は、自室のベッドの上で、声を上げて泣いた。涙はエクリアのためであり、幼い自分のためであり、そして、何も知らずに片割れを消し去ろうとしていた今の自分のためだった。愛しい、愛しい、私の半分。ずっと私を守ってくれていた、もう一人の私。
選択を迫られていた。このまま本の世界に意識を沈め、崩壊する森と、エクリアと、運命を共にするか。それは甘美な死への逃避だ。あるいは、エクリアとの永遠の別れを受け入れ、彼女が守ってくれたこの心と身体で、すべての痛みと孤独を引き受けて、現実を力強く生きていくか。
その夜、楓は最後の夢を見た。崩壊寸前の森、鏡の湖の前で、楓とエクリアは初めて、二つの個別の存在として向かい合っていた。エクリアは、幼い楓の姿ではなく、物語で読んでいた、凛とした少女の姿をしていた。彼女は悲しげに、だが穏やかに微笑んでいた。
「もう、大丈夫だよ、楓」エクリアが言った。「あなたはもう、ひとりでも立てる」
「嫌だ、いなくならないで」楓は子供のように泣きじゃくった。「あなたがいなければ、私はまた……」
「ううん、いなくならない」エクリアはそっと楓を抱きしめた。「私は、あなたになるだけ。あなたの強さに、あなたの涙に、あなたの微笑みになるの。だから、もうこの森は必要ない」
その抱擁は、温かかった。硝子のような冷たさではなく、血の通った、確かな温もりだった。楓は、エクリアが自分を消し去ろうとする楓を、決して恨んでいないことを知った。それは、究極の自己愛の形だった。
「今まで、ありがとう」楓は涙の中で、ようやく言えた。「私のために、泣いてくれて、夢を見せてくれて、ありがとう」
「さよなら、楓」エクリアは囁いた。「さよなら、私の半分」
エクリアの身体が、足元から光の粒子となってほどけていく。玻璃の森もまた、きらめく砂のように崩れ、風に溶けていく。楓は、そのすべてが消え去るのを、ただじっと見つめていた。万華鏡が最後の輝きを放ち、そして、完全な静寂と闇が訪れた。
翌朝、楓は眩しい光で目を覚ました。窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。それはありふれた朝の光景のはずなのに、楓の目には、まるで玻璃の森の木々が放つ光のように映った。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような喪失感がある。けれど同時に、今まで感じたことのないような、力強い温かさが満ちていた。それはエクリアから受け取った、最後の贈り物だった。
楓はベッドから起き上がると、本棚にそっと置かれた瑠璃色の本に触れた。もう、ページを開いても、あの物語は現れないだろう。それでも良かった。
窓を開けると、雨上がりの湿った空気が流れ込んできた。その匂いの中に、楓はふと、涙の味がした泉の気配を感じた。世界は昨日と同じ灰色がかった水彩画のようでありながら、そのすべての色彩の奥に、鮮やかな玻璃の輝きが隠されていることを、今の彼女は知っていた。
失われた世界は、永遠に彼女の一部だ。
楓は深く息を吸い込むと、かすかに微笑み、新しい一日へと、自分の足で、力強く歩き出した。