忘却の砂は天に舞う
第一章 記録映像の残響
俺の過去は、他人事だった。
まるで古びた映写機で再生されるフィルムのように、それは唐突に脳内で上映される。腕を組んでソファに座る俺の視界は、いつしか第三者のものとなり、眼下では「過去の俺」が誰かと笑い合っている。声は聞こえない。くすんだセピア色の風景の中で、ただ唇の動きだけが楽しげな感情を伝えていた。
しかし、その映像はいつも歪んでいる。笑いかける相手の顔は、のっぺりとした肌色の「空白」だ。首から上だけが、不自然な修正を加えられたかのように塗り潰されている。時折、その空白の向こうに、青い空や揺れる木々といった、本来そこにあるはずのない風景がノイズのように混じる。俺はこの奇妙な記憶の断片を「残響」と呼んでいた。
ふと、意識が現実に戻る。窓辺に置かれた古びた「無色の砂時計」に目をやった。祖父の遺品だというそれの中では、微かに銀色を帯びた砂が、重力に逆らうようにゆっくりと下から上へと舞い上がっていた。残響を見た直後は、いつもこの砂の色がわずかに濃くなる。まるで俺の失われた記憶の澱を吸い上げているかのように。
部屋に満ちる埃っぽい匂いと、窓の外から聞こえる人々の喧騒。それだけが、俺をこの曖昧な現実につなぎとめていた。この世界では、あらゆるものが人々の記憶の総体によって形作られている。誰もが存在を信じなくなった古い路地は、ある朝、霧と共に忽然と姿を消す。俺の記憶の「空白」もまた、誰かに忘れられた存在なのだろうか。
だとしたら、それは一体、誰なんだ?
第二章 半透明の輪郭
街の中心にある大理石の噴水は、その輪郭が水彩画のように滲んでいた。噴き上げる水しぶきも、陽光を弾くことなく空気に溶けていく。人々がその存在を意識しなくなり、忘れ去られようとしているのだ。やがてあれも、昨日の雨のように跡形もなく消え失せるだろう。この世界の、ありふれた風景だった。
「消えゆくものを追っているの?」
背後からの声に振り返ると、市立図書館の司書、リナが立っていた。古書のインクと乾いた紙の匂いを纏った彼女は、いつも世界の法則そのものに疑いの目を向けている変わり者だった。
「自分の記憶と、関係がある気がして」俺は正直に答えた。
彼女は、半透明の噴水を見つめながら静かに言った。「この世界は、まるで誰かの不完全な夢の上に成り立っているみたい。確かなものなんて何一つない。あなたのその記憶の空白も、もしかしたら、この夢の綻びなのかもしれないわ」
夢の綻び。その言葉は、俺の胸に小さな棘のように突き刺さった。俺たちはリナの仕事場である図書館へ向かった。高い天井まで続く書架の間を歩きながら、彼女は囁く。「忘れられた神話や、消えた国々の記録はここにあります。でも、本当に『忘れられた』ものは、本の中からさえ文字が消えていく。まるで初めから存在しなかったみたいに」
彼女の指し示す古い書物には、意味をなさない空白のページがいくつも挟まっていた。その空白が、俺の記憶の中のあの顔と重なって見えた。心臓が冷たい手で掴まれたような感覚。俺の失われた記憶は、この世界そのものの存続に関わる、禁じられた領域に触れているのかもしれない。
第三章 異物の正体
その夜、これまでで最も鮮明な「残響」が俺を襲った。
視界は、ガラスと鋼鉄でできた摩天楼が林立する、見たこともない都市の俯瞰映像に切り替わる。空には銀翼の乗り物が静かに滑空し、人々の手首には青い光を放つ薄い板が浮かんでいる。明らかに、この世界の技術水準を遥かに超えた光景だった。俺の知る街並みとは似ても似つかない、冷たくも美しい「異物」。
「――カイ」
初めて、残響の中で声が聞こえた。しかしそれは音ではなく、魂に直接響くような温かい波動だった。その瞬間、視界の端で、例の「空白」の顔がこちらを振り返った気がした。
「うわっ……!」
現実の自分の部屋に意識が引き戻される。激しい動悸で呼吸が浅くなる。視線を彷徨わせると、窓辺の砂時計が異常な輝きを放っていた。上へ舞い上がる砂は動きを止め、まるで星屑を閉じ込めたように蒼く、強く明滅している。それは、残響の中に見た未来都市の光と同じ色だった。
これはただの記憶じゃない。俺が見ているのは、失われた過去などという生易しいものではない。俺の頭の中に巣食うこの「空白」と「異物」は、この世界の根源を揺るがす、何か途方もない真実の断片なのだ。砂時計の停止した砂は、まるで俺にそう告げているようだった。俺は震える手で砂時計に触れた。ガラスは氷のように冷たく、そしてどこか懐かしかった。
第四章 忘れられた色彩
俺はリナに全てを話した。未来都市の光景、聞こえたはずのない声、そして蒼く光り、時を止めた砂時計のことを。彼女は驚いた様子もなく、ただ静かに俺の話を聞いていた。やがて、彼女は書庫の奥から埃をかぶった一冊の革綴じの本を持ってきた。
「古い伝承よ。『創世の観測者』についての記述があるわ」
彼女が読み上げた物語はこうだ。世界が一度、大いなる悲しみによって砕け散った時、たった一人の生き残りがいた。その者は喪失の痛みに耐えきれず、自らの記憶を封じ、残された人々の想いの欠片を拾い集めて、新たな世界を「夢見た」。その夢こそが、我々の住むこの曖昧な世界なのだ、と。
「まさか、俺が……?」
その言葉を口にした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
視界は灼熱の炎と黒煙に包まれていた。空は赤黒く染まり、鋼鉄のビルが悲鳴を上げて崩れ落ちていく。絶望と慟哭が空気を満たし、全てが終わりへと向かう終末の光景。その地獄の只中で、「過去の俺」は誰かの手を固く、固く握りしめていた。
その相手の顔は、やはり「空白」だった。
だが、今度は違った。その空白から、きらりと光る一筋の雫が零れ落ちるのが見えた。涙だ。別れを惜しむ、最後の涙。
「忘れないで」
声が、はっきりと聞こえた。
目覚めると、俺は自室の床に倒れていた。窓辺に目をやる。砂時計の砂は、そのほとんどが上部の空間に集まり、まるで小さな銀河のように渦を巻いていた。そして、その一粒一粒が、赤、青、緑、黄と、あらゆる色彩を放ちながら、ゆっくりと、最後の透明へと向かってその色を失っていく。
同時に、世界の輪郭が、テレビの砂嵐のように激しく揺らぎ始めていた。
第五章 砂時計が告げる真実
俺は、理解してしまった。
あの伝承の「創世の観測者」は、俺だ。この世界は、俺が見ている壮大な夢。大災害によって全てを失った俺が、その耐えがたい現実から逃れるために、無意識に創り上げた集合的無意識の避難所。
俺の記憶にあった「異物」は、失われた旧世界の風景の残滓。「空白」は、俺が最も愛し、そして最も残酷な形で失ってしまった、たった一人の女性の顔。彼女の顔を思い出すことは、世界の崩壊と彼女の喪失という絶望を再び直視することに他ならなかった。だから俺は、忘れた。忘れようとした。
この世界の住人は、俺の記憶の断片から生まれた幻影。だから、彼らが何かを「忘れる」と、それは俺の夢の世界からも消えていく。全ては俺という観測者の、不完全で曖昧な記憶の上に成り立っていたのだ。
窓辺で、カチリ、と小さな音がした。
見ると、砂時計の最後の砂粒が、ゆっくりと頂上へと舞い上がった。全ての砂が上部に集まりきった瞬間、砂時計全体が眩い光を放ち、完全に無色透明になった。
その光の中で、俺の記憶の蓋が、ついに開いた。
空白だった顔に、優しい瞳と、柔らかな微笑みが浮かび上がる。リナと瓜二つの、しかしもっと深く、確かな愛情を湛えた、彼女の顔。
「エリス……」
崩れ落ちる瓦礫の中、俺の腕の中で冷たくなっていく彼女の感触。世界の終わりと、愛する人の喪失。忘れようとしていた全ての記憶が、濁流となって俺の魂を洗い流していく。
第六章 世界の再誕
真実の記憶は、安らぎではなく激痛を伴って蘇った。この平穏な夢の世界は、エリスを失った悲しみの上に築かれた墓標だった。
二つの選択肢が目の前にあった。
このまま真実に蓋をして、偽りだが穏やかな世界を維持し続けるか。それとも、エリスとの最後の約束を思い出し、この悲しみを、喪失を、全て受け入れて、現実を取り戻すか。
彼女は最後に言ったのだ。涙を流しながら、微笑んで。
「忘れないで。私たちが生きた、この美しい世界を。――愛してる、カイ」
忘れてはいけなかった。彼女の死も、世界の終わりも、その上で俺たちが育んだ愛も、全てが俺たちだったのだから。
「……思い出したよ、エリス」
俺がそう呟いた瞬間、世界は音を失い、真っ白な光に塗り潰された。半透明だった噴水が、確かな大理石の質感を取り戻す。消えかけていた路地が、硬い石畳の感触と共に再び現れる。人々の曖昧だった輪郭がくっきりと結ばれ、一人ひとりが独立した、確固たる意志を持つ存在へと変わっていく。
俺の夢は、終わった。
失われた旧世界の瓦礫と残骸の上に、俺が「思い出した」真実を土台として、新たな法則を持つ「現実」が、産声を上げた。
第七章 夜明けの観測者
目を開けると、嗅ぎ慣れない潮風と、新しい土の匂いがした。空には、砕けた白い月と、その隣に寄り添うように浮かぶ、小さな蒼い月の二つが見えた。
世界は、変わった。
「おはよう、カイ」
隣から、優しい声がした。見ると、リナが微笑んでいた。彼女はもう俺の記憶の産物ではない。その瞳には、独立した魂の輝きが宿っている。彼女は、この新しい世界で新たに生まれた、かけがえのない他者だった。
「ここからが、私たちの本当の始まりね」
俺はもう、過去を第三者視点の映像として見ることはない。エリスの記憶は、激しい痛みと共に、しかし確かな温もりとして胸の奥に宿っている。この新しい世界で、俺は彼女の記憶と共に生きていくのだ。
足元に、光を失った砂時計が転がっていた。それは役目を終え、ただの美しいガラスのオブジェに戻っていた。俺はそれを拾い上げ、昇り始めた朝日にかざす。
失われたものを悼む涙が頬を伝った。だが、それは絶望の色ではなかった。夜明けの光の中で、俺は確かに、未来の匂いを感じていた。