エフェメラルの礎
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エフェメラルの礎

第一章 指先の透ける日

僕の左手の小指は、光を孕んでいる。いや、光を通り抜かしてしまう、と言った方が正しい。窓から差し込む午後の柔らかな日差しが、僕の指の輪郭を曖昧に溶かし、その向こう側にある木目のテーブルを透かして見せていた。妹のヒカリが生まれてから、僕の体は少しずつ世界との境界を失い始めている。

「リク、にんじん残さないでよ」

母さんの優しい声が、僕を食卓の現実へと引き戻す。目の前には湯気の立つシチュー。スプーンを握る右手の指は、まだ確かな実体を持っている。僕は曖昧に頷き、オレンジ色の欠片を口に運んだ。父さんと母さん、そして三歳になるヒカリ。彼らの胸元では、生まれながらに持つという『絆の宝石』が、温かい光を宿して静かに脈打っている。僕には、それがない。物心ついた時から、僕の胸には宝石が宿るべき窪みすらなかった。

誰も、僕の指が透けていることには触れない。気づいていないはずはないのだ。時折、母さんの視線が僕の左手に注がれ、その瞳が微かに揺れるのを僕は知っている。父さんは、僕と目を合わせる時間が少しずつ短くなっている。彼らは僕を愛している。だからこそ、この不可解な現象から目を逸らすことで、家族という日常の形を必死に守ろうとしているのかもしれない。

夕食の後、僕はリビングの棚に飾られた一枚の写真に目をやった。ヒカリが生まれる前に撮った、三人家族の集合写真。写真の中の僕は、屈託なく笑っている。その指先は、まだ不透明で、確かな存在感を持って母さんの肩に置かれていた。僕はそっと写真立てに触れる。ガラスの冷たさだけが、僕のまだ実体のある右手のひらに伝わってきた。

第二章 宝石なき少年

学校という場所は、世界の縮図だ。誰もが胸元に輝く『絆の宝石』を、まるで自分の価値を示す勲章のように身につけている。休み時間になると、友人たちは互いの宝石を見せ合った。

「うちの兄貴、昨日、宝石に新しい筋が入ったんだぜ。親父と大喧嘩したからだってさ」

「私の宝石、最近すごく温かいの。きっと、もうすぐ弟が生まれるからよ」

そんな会話の輪から、僕はいつも少しだけ離れていた。宝石を持たない僕は、彼らにとって理解不能な存在だ。異物を見るような視線、あるいは哀れみを含んだ沈黙。それらは鋭い刃物よりも深く、静かに僕の心を削っていく。

自分の身に起きていることの正体を知りたくて、放課後は図書館に通い詰めた。埃っぽい古書の匂いが立ち込める書架の間を彷徨い、『世界の法則』や『宝石の起源』といった大仰なタイトルの本を片っ端から開いた。しかし、どこにも「家族が増えると体が透明になる少年」の話など載ってはいなかった。

そして、もっと恐ろしい変化が、僕の内側で始まっていた。ある日の夕暮れ、家に帰る道を歩きながら、ふと母さんの得意料理の名前が思い出せないことに気づいたのだ。いつも食卓に並ぶ、あの甘くて香ばしい匂いのする煮込み料理。僕が大好きだったはずの、あの料理の名前が、まるで霧の中に消えてしまったかのように思い出せない。体の透明化と同時に、僕の中から家族との記憶が、少しずつ剥がれ落ちていっている。その事実に気づいた時、体の芯が凍るような恐怖が背筋を駆け上がった。

第三章 不自然な調和

「お腹の子、男の子ですって」

ある日の夕食、母さんが嬉しそうに告げた。父さんの顔がぱっと明るくなり、ヒカリは「お兄ちゃんになるの?」と無邪気に僕を見た。その瞬間、父さんと母さんの胸元の宝石が、ひときわ強い光を放ったのを僕は見た。それは新しい家族を迎える喜びの輝き。祝福の光。

しかし、僕にとってその光は、自らの消滅を予告する宣告のように思えた。

僕はもう、自分の状態について家族に打ち明ける気力を失っていた。言ったところで何になるだろう。彼らの不安を煽るだけではないか。あるいは、僕の言葉は彼らの耳には届かず、ただ空気を揺らすだけの意味のない音になるのかもしれない。僕の存在そのものが、この家の調和を乱す不協和音なのだ。

夜、自室で例の集合写真を見つめる。ヒカリが生まれてから撮り直した、四人家族の写真だ。案の定、写真の中の僕の姿は、以前よりもずっと薄くなっていた。まるで古いフィルムのように霞み、輪郭が背景に溶け始めている。

だが、奇妙なことに気づいた。僕の姿が薄れるのに反比例して、父さんと母さん、そしてヒカリの笑顔は、以前よりもずっと鮮やかで、幸せそうに輝いて見えた。まるで、僕の存在というインクが滲んで、彼らの色彩をより一層引き立てているかのように。

僕は、僕の消滅は、この家族の幸福に必要な代償なのではないか、という残酷な仮説にたどり着いてしまった。僕が消えることで、家族の絆はより強く、より輝くのだとしたら――。

第四章 最後の色彩

その日は、しとしとと冷たい雨が降っていた。病院からの電話で、父さんが慌ただしく家を飛び出していく。新しい命が生まれようとしていた。僕はヒカリの手を握り、リビングの窓から灰色の空をただ眺めていた。

弟の産声が、この家まで届くはずもなかった。けれど、何かが生まれたその瞬間を、僕は確かに感じたのだ。それは、世界が軋むような音だったのかもしれない。あるいは、僕自身の存在が崩れ始める音だったのかもしれない。

「うわっ……」

気づけば、僕の右腕が完全に透き通り、肘から先が景色に溶けていた。驚きも恐怖も通り越し、ただ呆然とそれを見つめる。透明化の速度が、今までの比ではない。まるで堰を切ったように、僕の体から存在が流れ出していく。足が、胴が、次々と現実感を失っていく。

同時に、頭の中に記憶の嵐が吹き荒れた。ヒカリと手を繋いで歩いた公園の、陽だまりの匂い。初めて自転車に乗れた日、背中を押してくれた父さんの手の温もり。熱を出した夜、母さんが歌ってくれた子守唄の優しい旋律。それら全てが、ノイズの混じった映像のように明滅し、急速に色褪せ、意味を失っていく。

「だめだ……忘れたくない……!」

僕は必死に記憶を繋ぎ止めようと、おぼつかない体で棚の写真立てに手を伸ばした。しかし、透けた指先はガラスに触れることなく、虚しく空を切る。写真の中の僕は、もうほとんど光のシミにしか見えなかった。その代わりに、僕が愛した家族の笑顔だけが、祝福の光に満ちて、あまりにも鮮やかに輝いていた。

第五章 世界が君を忘れる前に

もはや僕には、音も、匂いも、温度も感じられなかった。視界はぼやけ、自分がどこにいるのかさえ定かではない。意識だけが、まるで水面に浮かぶ油膜のように、この空間に辛うじて留まっている。

リク。

それが僕の名前だったはずだ。でも、その名前が持つ意味も、それに伴う思い出も、ほとんどが砂のように指の間からこぼれ落ちてしまった。僕は、誰だったのだろう。なぜ、消えなければならないのだろう。

その答えは、言葉ではなく、感覚として僕の中に流れ込んできた。ああ、そうか。僕は『触媒』だったのだ。この世界に「家族」という温かい光を生み出すための、最初のひとしずく。僕の肉体と記憶は、絆を紡ぐためのエネルギーに変換され、人々の胸に宿る『絆の宝石』の核となる。僕が宝石を持たなかったのは、僕自身が宝石の源だったからだ。

それは悲劇ではなかった。絶望でもない。ただ、そういう役割だった。花が枯れて土に還り、新しい命の糧となるように。僕は、世界中の家族の礎となるために、生まれ、そして消えていく。

最後に残ったおぼろげな意識で、僕はリビングの家族の笑顔を思い浮かべた。もう彼らの顔も思い出せない。けれど、温かかったという感覚だけが、確かに残っている。

ありがとう。

誰にも届かない声が、僕の中から静かにこぼれ落ちた。

第六章 礎となりて

リクという少年が完全に消滅した瞬間、世界は一瞬だけ沈黙した。

次の刹那、世界中で、数え切れないほどの『絆の宝石』が一斉にまばゆい光を放った。街角で言い争っていた恋人たちも、食卓を囲む家族も、生まれたばかりの赤子を抱く母親も、誰もが胸元の突然の輝きに息をのんだ。

そして、光の中に幻を見た。

見知らぬ少年の、断片的な記憶。公園のブランコで笑う顔。食卓でシチューを頬張る姿。誰かの肩に、はにかみながら置かれた手。誰かを心から愛し、愛された、温かい記憶の残滓。

その幻は、流れ星のように一瞬で消え去った。人々は何が起きたのか理解できず、ただ、自らの宝石が以前よりずっと強く、温かく輝き始めたことに気づいただけだった。世界からひとつの存在が消え、その代わりに、世界中の家族の絆が、ほんの少しだけ深くなった。誰も、その交換の事実に気づくことはない。

第七章 空洞の輝き

数年の月日が流れた。

リビングには、新しい家族写真が加わっている。父さんと母さん、そしてすっかりお姉さんらしくなったヒカリと、元気に走り回る弟のソラ。四人の笑顔が溢れる家は、幸せそのものだった。彼らの胸に宿る『絆の宝石』は、近所でも評判になるほど、ひときわ強く、深く、そして慈愛に満ちた光を放っていた。

ただ、リビングの棚には、一枚だけ不自然な写真が飾られ続けている。三人の家族が写っているが、その構図には奇妙な空白があった。まるで、もう一人誰かがいたかのような、埋めようのないスペースが。

家族は時折、その写真を見ては、胸の奥に微かな痛みと、言いようのない喪失感を覚えることがあった。何か、とても大切なものを忘れてしまったような、切ない感覚。しかし、それが何なのかは、誰も思い出すことができない。

「ねぇ、お母さん」

ある晴れた午後、ヒカリが不意に呟いた。

「私、昔、お兄ちゃんがいなかったっけ?」

母さんは一瞬きょとんとし、そして優しく微笑んでヒカリの頭を撫でた。

「さあ?どうだったかしら。ヒカリはソラにとって、素敵なお姉ちゃんよ」

その答えに、ヒカリは小さく首をかしげたが、すぐに弟の呼ぶ声に駆け出していった。

彼らの宝石は、これからも家族を温かく照らし続けるだろう。世界で最も美しい輝きを放ちながら。

けれど、その輝きの中心には、決して埋まることのない、透明な空洞が永遠に存在し続ける。それは、彼らの愛の礎となった、一人の少年の存在の証。誰も気づかない、けれど確かにそこにある、温かい喪失の形だった。


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