虚無色のレクイエム
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虚無色のレクイエム

第一章 色なき街の画家

俺、カイの目には、世界が時折、奇妙な色に侵食されて見える。それは黒でもなく、灰色でもない。あらゆる色彩がその存在を放棄したかのような、光さえ吸い込む絶対的な無。俺はそれを、心の中で『虚無の色(Void Hue)』と呼んでいた。

この街は静かだ。人々は死ななくなった。永遠と引き換えに、我々は大切な何かを失った。感情の起伏、鮮烈な記憶、愛した人の顔。それらは『忘却病』という名の緩やかな霧に包まれ、少しずつ輪郭を失っていく。街角のカフェで向かい合う老夫婦は、互いの名前すら思い出せないまま、ただ習慣としてそこに座っている。彼らの間のテーブルの上には、ぽっかりと『虚無の色』の染みが浮かんでいた。あるべき会話が失われた空間。その欠落を、俺の目だけが捉えていた。

自宅のアトリエに戻ると、西陽がイーゼルに立てかけたキャンバスを淡く照らしていた。俺は、この色褪せた世界で、失われた色彩を必死に描き留める画家だ。絵の具の匂いが立ち込める部屋の隅、肘掛け椅子に母が静かに座っている。

「お帰りなさい。……ええと、どなただったかしら」

母の優しい声は、昔と何も変わらない。だが、その瞳に俺はもう映っていない。彼女の記憶の中の『息子』という存在が座っていたはずの場所は、今や濃い『虚無の色』に塗りつぶされていた。俺は微笑みで応えながら、胸の奥が冷たく軋むのを感じた。この街では、誰もが少しずつ、自分自身のお葬式を生きている。

第二章 約束の砂時計

「カイ、見て。この花、昔あなたがくれたものでしょう?」

リナが、窓辺に飾られたドライフラワーを指差して微笑んだ。彼女は俺の幼馴染で、この灰色の世界で唯一、俺の心に色彩を与えてくれる存在だ。だが、その彼女もまた、忘却の霧から逃れることはできなかった。彼女の手帳には、失いたくない記憶が震える文字でびっしりと書き込まれている。しかし最近は、その手帳を開くことさえ忘れがちになっていた。

リナの部屋を訪れたある日、俺はサイドテーブルの上に置かれた小さな砂時計に目を留めた。古びた木枠に収まったガラスの工芸品。だが、俺の目には異様な光景が映っていた。砂時計の中には砂が一粒もなく、代わりに上部の球体に溜まった『虚無の色』の染みが、見えない穴から糸を引くように、ゆっくりと下へ滴り落ちていたのだ。それはまるで、存在そのものが侵食されていく時間を可視化したようだった。

「これ、どうしたんだ?」

俺が尋ねると、リナは不思議そうに首を傾げた。

「さあ……。でも、すごく大切なものだってことだけは覚えてるの。誰かとの、大切な約束……」

彼女の指が、そっとガラスに触れる。その瞬間、砂時計から滴り落ちる『虚無の色』の速度が、ほんの僅かに早まったように見えた。俺は得体の知れない恐怖に襲われた。これはただの染みではない。これは、リナという存在の、残り時間そのものなのかもしれない。

第三章 消えゆく旋律

リナの忘却は、静かに、だが着実に進行していった。

ある午後、彼女の部屋から拙いピアノの音が聞こえてきた。かつて彼女が愛し、流れるように弾いていたはずの月光ソナタ。だが今、彼女の指は鍵盤の上を迷子のように彷徨い、不協和音を奏でては止まり、また途切れ途切れの音を紡ぐ。

「おかしいわ。この次が……思い出せないの」

リナは鍵盤に額を押し付け、か細い声で呟いた。その黒いグランドピアノの周りにも、『虚無の色』が陽炎のように揺らめき始めていた。彼女が失った旋律、指が忘れた記憶。それらが音のない悲鳴となって、空間を蝕んでいた。

俺は彼女の隣に座り、震える肩を抱いた。

「大丈夫だよ、リナ。俺が覚えている。俺が歌ってあげる」

昔話をしても、共に過ごした日々の輝きを語っても、彼女の瞳は虚ろなままだった。俺の言葉は彼女の心の表面を滑り落ち、どこにも届かない。

部屋の隅で、あの砂時計が静かに時を刻んでいた。『虚無の色』は、もう半分近くまで落ちていた。止めることも、戻すこともできない時間の残酷さに、俺は唇を噛みしめることしかできなかった。

第四章 染みの正体

嵐が街を叩きつける夜だった。稲光が窓を白く染めるたび、リナの姿が一瞬、向こう側が透けて見えるような錯覚に陥った。

「カイ……寒い……」

彼女の声は弱々しく、その身体は『虚無の色』に淡く溶け出しているように見えた。その輪郭は曖昧になり、存在そのものが希薄になっていく。

「リナ!」

俺はパニックに陥り、消え入りそうな彼女の身体を強く抱きしめた。

その瞬間だった。

奔流のようなイメージが、俺の脳内に叩きつけられた。それはリナ個人の記憶ではなかった。叫び、祈り、嘆き――かつて『死』を恐れた、数えきれない人々の集合的な思念だった。

『死にたくない』

『永遠が欲しい』

『別れたくない』

その巨大な願いが世界を歪めたのだ。人類は自らの最も重い対価――個々の記憶と感情を差し出すことで、『死』という概念を世界から追放した。そして差し出された膨大な記憶は、次元の狭間に巨大な『記憶の海』を形成した。

『忘却病』は病ではなかった。それは、個としての役割を終えた魂が、その起源である『記憶の海』へと還るための、聖なる回帰のプロセスだったのだ。そして『虚無の色』は、個が全体に溶け出す境界線に現れる、回帰の兆し。俺が見ていたのは、欠落ではなく、次なる始まりへの扉だった。

第五章 最後のパレット

真実を悟った俺の心に、不思議なほどの静けさが訪れた。これは悲劇ではない。世界が自ら選んだ、新たな循環の形なのだ。リナは消えるのではない。還るのだ。

俺はアトリエからイーゼルとパレットを持ち込み、リナのベッドの傍に置いた。彼女の最期を、この目に、このキャンバスに焼き付けなければならない。

俺はチューブから絵の具を絞り出した。黒と白、ウルトラマリンとバーントアンバー。あらゆる色を混ぜ合わせても、あの『虚無の色』は再現できない。それは、色彩の不在そのものだからだ。俺は筆を置き、ただ彼女を見つめた。

リナの身体は、もうほとんど透明になっていた。部屋の隅の家具が、彼女の身体を通して歪んで見える。部屋全体が、まるで深海のように『虚無の色』で満たされていく。サイドテーブルの上で、砂時計の最後の染みが、静かに、ゆっくりと落ちきった。

ガラスが微かに、りん、と鳴った。

「……カ……イ……」

リナが、ほとんど声にならない声で俺の名前を呼んだ。その瞳には、一瞬だけ、かつての澄んだ光が宿っていた。彼女は、最期の力で微笑んだ。

次の瞬間、彼女の身体は無数の光の粒子となり、ふわりと宙に舞い上がった。粒子は窓から差し込む月光に溶け、やがて静寂だけが残された。彼女が横たわっていたシーツの上には、人の形の温もりさえ残っていなかった。

第六章 記憶の海へ

リナが消えた部屋で、俺はキャンバスに向かった。パレットナイフを手に取り、ただひたすらに、純白のジェッソを削り取っていく。色を塗るのではない。色を、存在を、削ぎ落としていく。キャンバスの地が剥き出しになり、その奥に、まるで空間の裂け目のような『虚無の色』が姿を現した。それは、俺が探し求めていた色だった。俺は、リナの不在を描いた。彼女が存在したという、絶対的な証を。

ふと、自分の手元に視線を落とす。

そこには、いつの間にか、あの古びた砂時計が置かれていた。上部の球体には、ほんの僅かに『虚無の色』が溜まり始めていた。俺の回帰も、もう始まっているのだ。

だが、もう恐怖はなかった。胸に去来するのは、不思議な安堵感と、穏やかな期待だった。いつか俺もあの海に還り、無数の記憶の粒子となったリナと再び一つになる。それは、この不死の世界における、唯一の救済であり、再会の約束なのだ。

俺は再び筆を取った。

自分がこの世界から消え去る、その日まで。この色褪せた世界の、失われゆくものの儚い美しさを、そして『虚無の色』の向こう側にある真実の輝きを、描き続けよう。忘れ去られたとしても、俺たちの記憶は、物語は、あの静かな海で永遠に生き続けるのだから。


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