第一章 活字の呪いと遺言
僕、桐谷朔(きりや さく)の世界は、静かで、そして偽りに満ちている。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店『書物の森』の店主である僕には、生まれつきの呪いがあった。他人が嘘をつくと、その言葉が、まるで目の前の空間に印刷されたかのように、美しい明朝体の活字となって浮かび上がるのだ。
それは、時にゴシック体のように力強く、時に教科書体のように素朴で、その嘘の性質によって書体や大きさを変える。だが、どんな嘘であれ、僕の目には冷たく、無機質な文字列として映った。この呪いのせいで、僕は人を信じることができなくなった。愛の告白も、励ましの言葉も、その裏にある欺瞞を活字として見てしまえば、たちまち色褪せて聞こえる。だから僕は、古書に囲まれた静寂の中に逃げ込んだ。沈黙を守る紙の束だけが、僕に嘘をつかない唯一の友人だった。
そんな僕に、たった一人だけ、心を開ける存在がいた。大学時代の先輩、相沢千尋(あいざわ ちひろ)さん。彼女は僕の奇妙な性質を打ち明けた時も、ただ「面白いね」と、ひまわりのような笑顔を見せただけだった。彼女といる時だけは、不思議と活字が見えることが少なかった。彼女の言葉は、まるで初夏の風のように、僕の心を素直に通り抜けていった。
その日、警察からの電話が、僕の静寂を無慈悲に引き裂いた。
「相沢千尋さんが、ご自宅で亡くなっているのが見つかりました」
受話器を握る手が震えた。頭が真っ白になり、足元の床が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。死因は、風呂場での不慮の事故。事件性はない、と刑事は淡々と告げた。その言葉に、活字は浮かばなかった。それは、彼らにとっての「真実」なのだろう。
だが、僕には信じられなかった。数日後、遺品整理のために訪れた彼女の部屋で、僕は一冊のノートを見つけた。彼女がつけていた日記だった。僕は罪悪感を覚えながらも、そのページをめくった。そこには、僕の呪いを知っているかのような言葉が、彼女の丸みを帯びた文字で綴られていた。
『朔くんは、嘘が活字に見えると言っていた。じゃあ、私のこの気持ちも、彼にはどんなふうに見えるんだろう』
心臓が大きく跳ねた。そして、最後の日付のページ。そこに書かれていたのは、僕に向けられた遺言とも取れる、短い一文だった。
『朔くんへ。私の嘘を見つけて』
その瞬間、僕の世界は再び歪み始めた。千尋さんの死は、本当に事故だったのか? 彼女が「見つけて」と願った嘘とは、一体何なのか。彼女の死を悼む人々の言葉が、僕の周りで次々と美しい活字となって舞い始める。それは、僕だけが挑むことを許された、静かで悲しいミステリーの始まりだった。
第二章 美しい嘘の迷宮
千尋さんの葬儀は、しめやかな雨の中で行われた。参列者たちの悲しみの言葉は、僕の目には絶えず偽りの活字となって映り、雨粒のように降り注いだ。「本当に、惜しい人を亡くした」「まだ信じられない」。そのどれもが、冷たい明朝体として宙を漂い、僕の心を苛んだ。人々は、悲しみを表現するために、紋切り型の嘘をつく。それは分かっていたが、千尋さんの死の前では、そのすべてが耐え難い冒涜に思えた。
僕は、千尋さんの嘘を見つけるため、彼女の婚約者だった伊吹圭介(いぶき けいすけ)に会うことにした。彼はデザイン事務所を経営する、快活で誠実そうな男性だった。千尋さんから、彼のことを幸せそうに聞かされていたのを覚えている。
カフェの席で向かい合った伊吹さんは、憔悴しきった顔で俯いていた。
「彼女は……太陽みたいな人でした。僕のすべてだった」
彼の声は震えていた。だが、その言葉が発せられた瞬間、僕の目の前に、極めて荘厳で、緻密なバランスで組まれた明朝体の活字が浮かび上がった。『僕のすべてだった』。それは、僕が今まで見た中で最も美しい、完璧な嘘の形をしていた。インクの匂いさえ漂ってきそうなほど、その活字は生々しかった。
僕は息を呑んだ。この男は、千尋さんの死について何か重大な嘘をついている。
「千尋さんは、何か悩んでいる様子はありませんでしたか?」
僕は努めて冷静に尋ねた。
「いえ、いつも通りでした。来月の結婚式の準備を、楽しそうに進めていましたよ」
まただ。『楽しそうに進めていました』。今度は少し小ぶりだが、やはり端正な活字が浮かぶ。彼の言葉は、嘘で塗り固められている。僕の心に、彼への疑念が黒い染みのように広がっていった。
次に訪ねたのは、千尋さんの職場の同僚で、親友だったという美咲という女性だった。彼女は泣きはらした目で僕を迎えた。
「千尋がいなくなるなんて……。彼女、本当に仕事熱心で、みんなから尊敬されていました」
『みんなから尊敬されていました』。その言葉もまた、教科書体のような、無機質な活字となって僕の視界を横切った。
誰もが嘘をついている。伊吹さんも、美咲さんも、葬儀にいた誰もかも。僕の周りは、嘘の活字でできた迷宮のようだった。歩けば歩くほど、真実から遠ざかっていく。千尋さんの「私の嘘を見つけて」という言葉が、頭の中で何度も反響する。彼女自身も、僕に嘘をついていたというのか?
古書店に戻り、僕は薄暗い書庫の奥で膝を抱えた。本棚に並ぶ無数の背表紙が、まるで墓標のように見えた。僕は自分の能力を呪った。この目は、人の心の機微を捉えられない。ただ、嘘という事実だけを無慈悲に突きつける。優しさからつく嘘も、悪意に満ちた嘘も、僕の目には同じ「活字」としてしか映らない。千尋さん、あなたの嘘は、この迷宮のどこにあるんだ? 僕が見ているのは、本当に真実への道筋なのだろうか。それとも、あなたの嘘によって、僕はもっと深い闇へと誘われているのだろうか。
第三章 星空の明朝体
絶望感が僕の思考を鈍らせていた。何を信じればいいのか分からない。僕は再び、千尋さんの日記を手に取った。インクが滲んだページを一枚一枚、指でなぞるようにめくっていく。彼女の文字は、彼女の声そのもののように、温かく、そして力強かった。
その時、ある一節に目が留まった。それは、僕について書かれたページだった。
『朔くんの目には、どんな嘘が一番美しく映るんだろう。悪意のない、誰かを守るための真っ白な嘘は、きっと、夜空に輝く星みたいに綺麗な活字になるんじゃないかな。私は、そんな美しい嘘がつける人間になりたい』
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
美しい嘘。
僕は今まで、嘘を「美しさ」という尺度で考えたことなど一度もなかった。僕にとって嘘は、すべて醜く、忌むべきものだった。だが、千尋さんは違った。彼女は、嘘の中にある種の価値や、美しさを見出そうとしていた。
星空みたいに綺麗な活字。その言葉が、僕の脳裏で伊吹さんの言った言葉と重なった。彼が「僕のすべてだった」と語った時に現れた、あの荘厳で、完璧なまでに美しい明朝体。あれこそが、千尋さんの言う「星空の活字」だったのではないか?
僕は、ほとんど衝動的に店を飛び出し、伊吹さんの事務所へと向かった。ドアを開けると、彼は驚いた顔で僕を見た。僕は息を切らしながら、まっすぐに彼の目を見て言った。
「もう一度、聞かせてください。あなたは、千尋さんのことを、本当に愛していたんですか?」
伊吹さんは一瞬怯んだが、やがて力なく頷いた。
「もちろんだ。愛していた」
『愛していた』。まただ。寸分違わぬ、あの美しい活字が浮かぶ。僕は確信を持って、次の言葉を口にした。
「あなたは、千尋さんを殺したんじゃない。……庇っているんですね? 千尋さん自身を」
伊吹さんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼の肩が、大きく震え始めた。観念したように、彼はゆっくりと口を開いた。
「……気づいてしまったのか」
彼の声は、もはや何の感情も乗っていない、乾いた音だった。
「千尋は……病気だったんだ。末期の癌で、余命は半年もないと宣告されていた」
その言葉は、活字にはならなかった。紛れもない、真実だった。
「彼女は、誰にも言わないでくれと、僕に頼んだ。特に朔くんには、絶対に知られたくないと。君が自分の能力のせいで苦しんでいることを、彼女は誰よりも分かっていたから。自分のために君をこれ以上、苦しめたくない、と。だから彼女は、最後まで元気なふりをして、幸せなふりをして、君に嘘をつき続けたんだ」
千尋さんの「大丈夫」「元気だよ」という、僕が何の疑いもなく信じていた言葉たち。それこそが、彼女の「嘘」だったのだ。僕を、そして周りの人々を傷つけまいとする、彼女の最後の優しさ。
「あの日、彼女は痛みに耐えきれず、大量の鎮痛剤を……。事故なんかじゃない。彼女が、自分で選んだ結末なんだ。僕は……僕は、彼女の最後の願いを守りたかった。彼女が病苦の末に死んだなんて思われたくなかった。幸せの絶頂で、悲劇的な事故で亡くなった美しい花嫁、という物語を……僕が作り上げたかった。彼女の尊厳を守るために。だから警察にも、君にも嘘をついた」
そこで僕は、すべてを理解した。伊吹さんの「彼女を愛していた」という言葉が、なぜ完璧な嘘として見えたのか。それは、彼の本当の気持ちが「愛していた」という過去形ではなかったからだ。「今も、これからも、永遠に愛している」。それが彼の揺るぎない真実だったのだ。彼のついた嘘は、千尋さんへの深い、深い愛から生まれた、あまりにも美しい虚構だった。僕の目に映ったあの荘厳な活字は、彼の愛の大きさそのものだったのだ。
第四章 あなたのいない世界で
すべてを知った後、僕と伊吹さんは長い時間、何も話さずにいた。窓の外では、いつの間にか雨が上がり、夕日が街を茜色に染めていた。彼の嘘の裏にあった真実と愛は、僕が今まで抱えてきた呪いを、静かに解き放っていくようだった。
嘘は、必ずしも悪ではない。
誰かを守るため、誰かの心を慰めるための嘘は、時としてどんな真実よりも尊く、そして美しい。千尋さんは、それを僕に教えるために、最後のメッセージを残してくれたのかもしれない。
数日後、僕は一人で、千尋さんが眠る墓地を訪れた。真新しい墓石は、春の柔らかな日差しを浴びて、静かに佇んでいた。僕は花を手向け、そっと手を合わせた。
「千尋さん」
心の中で、僕は彼女に語りかけた。
「あなたの嘘、見つけたよ。僕が見た中で、一番、どうしようもなく綺麗で、……そして、悲しい嘘だった」
ありがとう、とも、さようなら、とも言えなかった。ただ、込み上げてくる温かい何かが、僕の胸を満たしていった。
目を開けると、目の前には澄み切った青空が広がっていた。小鳥のさえずりが聞こえ、風が頬を撫でていく。その瞬間、僕は気づいた。僕の世界から、あの呪わしい活字が消えていることに。誰かの言葉が、ただの音として、温度を持った声として、僕の耳に届く。それは、何年ぶりかに取り戻した、あまりにも自然で、穏やかな世界だった。
能力が消えたのか、それとも僕自身が変わったから見えなくなったのか、それは分からない。でも、もうどちらでもよかった。
僕は古書店へと続く道を、ゆっくりと歩き始めた。これからは、言葉の裏にある人の心を、この目で、この耳で、そして僕自身の心で感じ取っていこう。千尋さんが愛したこの世界で、僕はもう一度、人を信じて生きていけるかもしれない。
僕の世界から「活字」は消えた。だが、代わりに、世界は鮮やかな「彩り」を取り戻していた。店のドアを開けると、古書のインクと紙の匂いが、懐かしい友人のように僕を迎えてくれた。その香りは、もう呪いではなく、僕が守るべき小さな世界の、愛おしい証となっていた。