残響調律師と無音の時計
第一章 崩れゆく記憶の砂
私の世界は、音でできている。
生まれつき光を映さない瞳を持つ私、ライアにとって、世界とは指先に伝わる振動であり、空気を揺らす響きであり、そして物質に残された声なき声の残響そのものだ。
人々が自身の体験を『記憶結晶』として取り出し、他者と共有するこの街で、私は「調律師」として生計を立てていた。時間と共にひび割れ、歪んでしまった記憶の音を聴き、本来の旋律へと整える仕事だ。
その日、私の仕事場である古いアトリエの扉を叩く音は、ひどく切羽詰まっていた。
「ライアさん、いらっしゃいますか」
扉を開けると、冷たい雨の匂いと、焦燥に駆られた女性の香りが流れ込んできた。エレナと名乗った彼女の記憶結晶は、淡い青色をしていたが、まるで砂糖菓子のように端からぽろぽろと崩れ落ちていた。それは、持ち主の記憶が急速に失われている証拠だった。
「ある方を探してほしいのです。歴史学者の、アーサー・クロウリー先生を」
彼女の声は震えていた。
「先生の記憶結晶が、消えたんです。劣化じゃない。ある日突然、跡形もなく。それから……皆が先生を忘れ始めている。私も。先生と過ごした日々の輪郭が、日に日に曖昧になっていくんです」
エレナは震える手で、小さな包みを差し出した。冷たく、滑らかな感触。硬質な金属の塊。
「これは、先生が最後に握りしめていた懐中時計です。でも、おかしいんです。針は動かないし、どんなに振っても音がしない。まるで、死んでいるみたいに」
私はその時計を、そっと両手で包み込んだ。
ひんやりとした金属の肌。確かに、時計としての命の音は、何も聞こえなかった。
第二章 無音の残響
アトリエの静寂の中、私は意識を指先に集中させた。羊皮紙をなぞるように、懐中時計の滑らかな表面をゆっくりと撫でる。私の能力は、触れたモノに残された「過去の音」を聴くこと。それは、時間の染みのようにこびりついた、声なき記憶の残響だ。
目を閉じ、深く息を吸う。
すると、指先から微かな振動が伝わってきた。
最初は、砂嵐のようなノイズだけ。しかし、耳を澄ますほどに、その向こう側から何かが聞こえてくる。
――カサリ、と乾いた紙をめくる音。
――インクがペン先から染み出す、密やかな囁き。
――そして、男の息遣い。アーサー・クロウCリーのものだろうか。疲労と、それ以上の興奮に満ちた、熱っぽい呼吸。
「……何か、聞こえますか?」
エレナが不安げに問いかける。私は首を横に振った。まだだ。もっと深く潜らなければ。
音の層を一枚、また一枚と剥がしていく。すると、不意に別の音が混じり始めた。それは、クロウリー自身の声だった。途切れがちで、まるで遠い嵐の中から聞こえてくるようだ。
『違う……劣化ではない。これは、剪定だ……』
『法則そのものに、意志があるというのか……?』
『この時計が、最後の……鍵だ』
声は恐怖に染まっていた。だが、それ以上に強い探究心と、何かを成し遂げようとする悲壮な決意が滲んでいた。彼は、単なる記憶の劣化ではない、もっと巨大な何かに気づいていたのだ。
そして、最後に聞こえたのは、心臓が凍るような音だった。
完全な無音。
まるで、存在そのものが世界から切り取られたかのような、絶対的な静寂。その静寂こそが、彼の最後の音だった。
第三章 消滅の連鎖
時計から手を離した私は、顔を上げた。エレナの表情は見えない。だが、彼女の呼吸が浅くなっているのが分かった。
「彼は、何かに気づいていました。記憶が消えることの、本当の意味に」
翌日から、私はエレナと共にクロウリーの痕跡を辿り始めた。しかし、その調査は困難を極めた。彼の研究室はもぬけの殻で、まるで最初から誰も使っていなかったかのように埃を被っていた。彼が執筆したはずの論文は、どの図書館の目録からも消え失せていた。
さらに恐ろしいことに、消滅の連鎖は加速していた。
クロウリーの同僚だったという人物を訪ねても、「そんな名前の学者は知らない」と怪訝な顔をされるだけ。彼らの記憶結晶に触れても、クロウリーがいたはずの時間には、ぽっかりと穴が空いたような歪な空白が広がっているだけだった。
「どうして……あんなに、尊敬していたのに」
数日後、アトリエを訪れたエレナは、泣きそうな声で呟いた。
「先生の顔が、もう思い出せないんです。どんな声で、私を呼んでくれたのかも……」
彼女の記憶結晶は、もう半分以上が砂となって失われていた。私だけが、懐中時計に残された音を通して、消えゆく彼の存在を辛うじて繋ぎとめている。
この現象は、自然の法則ではない。
何者かが、あるいは、何か巨大なシステムが、意図的にアーサー・クロウリーという存在を世界から消去している。まるで、歴史の教科書から不都合な一文を墨で塗りつぶすように。
そしてその黒いインクは今、世界全体に滲み出そうとしていた。
第四章 世界の調律
私は再び、あの無音の懐中時計と向き合った。今度は、ただ音を聴くのではない。音の発生源、その核心へと意識を沈めていく。クロウリーが最後に託した、この静寂の意味を知るために。
指先が冷たい金属に触れた瞬間、私は激しい奔流に呑み込まれた。
それは、個人の記憶ではない。無数の人々の、ありとあらゆる記憶結晶が発する残響の集合体。喜び、悲しみ、怒り、愛。それらが混じり合い、巨大な交響曲のように響き渡っている。
これが、私たちの世界を支える記憶のネットワーク。世界の法則そのものの音だった。
その壮大な響きの中に、私は不協和音を見つけた。
特定の記憶が生まれると、ネットワーク全体が微かに揺らぎ、調和が乱れる。すると、どこからともなく静寂の波が押し寄せ、その不協和音をかき消してしまうのだ。まるで、オーケストラの指揮者が、演奏を間違えた奏者を黙らせるかのように。
クロウリーが「剪定」と呼んだもの。
記憶結晶の消滅は、この世界の法則が持つ「自己修正プロセス」だった。世界の調和と安定を維持するため、システムにとって不都合な、あるいは真実を歪めかねないと判断された『特定の記憶』を、自動的に排除する機能。
クロウリーの研究は、その禁忌に触れてしまったのだ。彼は、この世界の成り立ち、記憶共有システムの根源にある「偽り」に気づき、それを公表しようとした。だから、彼はシステムによって「剪定」された。存在そのものを、はじめから無かったことにされたのだ。
そして、私の能力。
触れたモノから直接、過去の音を聴くこの力は、システムの検閲をすり抜けてしまう。消去されたはずの音を拾い上げてしまう、規格外の『エラー』。
世界が必死に隠そうとする真実を、私だけが聴くことができた。
第五章 最初の音
世界の法則の奔流の中で、私はクロウリーの最後の意識を探した。彼が懐中時計に込めた、最後のメッセージを。
すると、交響曲の奥深く、最も静かな場所から、微かな旋律が聞こえてきた。クロウリーが守ろうとした、世界の核心。
それは、赤ん坊の産声のような、純粋で混じりけのない「最初の音」だった。
この世界が生まれた時、創造主たちが全ての記憶結晶の原型に埋め込んだとされる、原初の記憶の響き。それは『自由』の旋律だった。人々が何にも縛られず、自らの意志で記憶を紡いでいくことの肯定。
しかし、今の世界を支配するシステムは、その自由を許さなかった。調和と安定の名の下に、人々は管理され、不都合な記憶は摘み取られる。クロウリーがやろうとしていたのは、この「最初の音」を世界に再び響かせ、人々をシステムの束縛から解放することだったのだ。
懐中時計は、時を刻むためではなく、この「最初の音」を保護し、増幅するための共鳴装置だった。そして、それを起動できるのは、システムの干渉を受けない、私のような『エラー』だけ。
意識が現実世界に戻ってきた時、私の頬を涙が伝っていた。
消された学者の悲痛な願いが、ずっしりと両腕にのしかかっていた。
第六章 調律師の選択
「ライアさん……?」
傍らで、エレナが心配そうに声をかけた。彼女の記憶から、アーサー・クロウリーという名前は、もうほとんど消えかけていた。彼女にとって、私はただ、壊れた時計を預かっている奇妙な調律師でしかない。
私の前には、二つの道が示されていた。
一つは、この懐中時計を使い、「最初の音」を世界に解き放つ道。
クロウリーの遺志を継ぎ、偽りの調和を壊し、人々に本当の自由を取り戻させる。しかし、それは同時に、世界の記憶ネットワーク全体を崩壊させることを意味した。人々が共有してきた絆、歴史、文化、その全てが拠り所を失い、世界は未曾有の大混乱に陥るだろう。愛する人の記憶さえ、不確かなものになるかもしれない。
もう一つは、沈黙する道。
この真実を、クロウリーの記憶と共に、私一人の胸の内に葬り去る。世界は偽りの平和を保ち、人々は何も知らぬまま、管理された安定の中で生き続ける。エレナも、これ以上記憶を失う苦しみを味わうことはない。だが、それは真実に対する裏切りであり、クロウリーの死を無意味にすることだった。
世界の安定か、個人の尊厳か。
管理された幸福か、危険な自由か。
私は、光を知らないこの指先で、世界の運命を調律する役目を負わされてしまった。
第七章 静寂に響くもの
私はゆっくりと、懐中時計から手を離した。
そして、その冷たい金属を、再びエレナの手に返した。
「……直りませんでした。ただの、古いガラクタのようです」
私の言葉に、エレナはどこかほっとしたような、それでいて少し寂しそうな曖昧な表情を浮かべた。彼女は小さな声で礼を言うと、もう何の感慨も抱いていないその時計をバッグにしまい、アトリエから去っていった。やがて彼女は、なぜここに来たのかさえ忘れてしまうだろう。
私は、世界を壊すことを選ばなかった。
だが、沈黙を選んだわけでもない。
あの日から、私は街の広場や路地裏で、子供たちに古い物語を語って聞かせるようになった。
それは、真実を探し求めて星になった、勇敢な学者の物語。
それは、忘れられた音を探しに旅に出た、孤独な王様の物語。
私は、クロウリーが遺した真実の響きを、システムに検閲されない物語や歌という、ささやかな舟に乗せて世界に放つ。いつか、誰かの心にその種が落ち、芽吹く日を信じて。
それは世界のシステムに対する、私だけの静かな抵抗。私という『エラー』にしかできない、世界の調律。
私の世界は、音でできている。
そして今、この静かな世界には、消されたはずの男の意志が、優しい物語の旋律となって、確かに響き続けていた。