第一章 沈黙のレクイエム
水瀬響(みなせ ひびき)がその部屋に足を踏み入れたとき、まず感じたのは完全な「無音」だった。壁、床、天井に至るまで、分厚い吸音材で覆われたその空間は、まるで世界の音をすべて喰らい尽くした深海生物の胃袋のようだった。ここは、現代音楽の寵児、月島奏(つきしま かなで)が暮らしたマンションの一室。そして、彼が死体で発見された場所だった。
「外傷、毒物反応、いずれもなし。完全な密室。病死の線が濃厚ですが……」
現場に立ち会った年配の刑事、田所が苦々しげに呟く。響は、音響分析の専門家として警察に協力している。彼女の耳は、時にどんな鑑識の目よりも雄弁に真実を語ることがあった。
「ただ一つ、奇妙な点が」
田所が指さしたのは、部屋の中央に鎮座する異様な音響装置だった。数十個のスピーカーが、死体が横たわっていたであろう場所を円形に取り囲んでいる。それはまるで、音による儀式の祭壇のようだった。そして、その制御卓の上には、一台のラップトップが開かれたままになっていた。
「彼が死の直前まで再生していたと思われる音源データです。我々が聞いてみましたが……正直、気分が悪くなるだけで」
響は無言で頷き、持参した高性能のヘッドホンを装着した。幼少期の事故で負った心の傷は、彼女に特定の周波数への過敏症という後遺症を残していた。ヘッドホンは、世界という名のノイズから彼女を守るための、ささやかな鎧だった。
ラップトップの再生ボタンを押す。
瞬間、響の鼓膜を襲ったのは、音楽と呼ぶにはあまりに不純な音の奔流だった。低く唸るような重低音、ガラスを引っ掻くような高周波、不規則に脈打つクリック音。それらが何の脈絡もなく重なり合い、脳の奥を直接かき乱すような不協和音を生み出していた。それは、聞く者の精神を内側から削り取っていく、悪意に満ちた音の塊だった。
数秒で再生を止め、響は荒い息をついた。額には冷たい汗が滲んでいる。トラウマの引き金となる音とは違う。これは、もっと根源的な、生命そのものを拒絶するような音だ。
「水瀬さん?」
心配そうに覗き込む田所に、響はかぶりを振った。
「……いえ、大丈夫です。このデータ、研究所に持ち帰って解析します」
彼女は、データの中に、偶然の産物ではない、冷徹な知性によって設計された「構造」の気配を感じ取っていた。まるで、誰かが明確な殺意をもって作曲したかのように。
月島奏は、なぜこんな音を聞きながら死ななければならなかったのか。いや、あるいは――この「音」が、彼を殺したのではないか。
物理的な凶器が存在しない殺人。常識ではありえないその仮説が、響の心を捉えて離さなかった。彼女のミステリーは、耳から始まった。
第二章 殺人周波数
国立音響科学研究所の解析室は、響にとっての聖域だった。外界の雑音から完全に遮断された空間で、彼女は月島奏が残した音のデータと向き合っていた。
データをスペクトログラムに変換すると、画面には異様な紋様が浮かび上がった。通常の音楽が描くであろう調和の取れた波形とは似ても似つかない、禍々しく歪んだ色彩のグラデーション。それはまるで、断末魔の叫びを視覚化したかのようだった。
響は、一日中その音の断片を聴き、分析し、構造を分解していく作業に没頭した。特定の周波数の組み合わせが、人間にどのような生理的影響を与えるか。彼女の専門知識が、その音の正体を少しずつ暴いていく。
「……ありえない」
解析を進める中で、響は一つのパターンを発見した。それは、人間の心臓の固有振動数と酷似した、極めて特殊な低周波のパルスだった。それは単独では聞こえないほど微弱だが、他の高周波ノイズと組み合わさることで、共鳴効果(レゾナンス)を引き起こすように巧妙に設計されていた。
彼女はシミュレーションソフトを起動し、その音響モデルを人体モデルに適用した。画面に表示された結果に、響は息を呑んだ。
モデルの心電図が、不規則に乱れ始める。心室細動――致死性の不整脈だ。
これは、音楽ではない。音の形をした、完璧な凶器だ。
月島奏は、この「殺人周波数」によって心臓の機能を停止させられ、殺害されたのだ。
響の脳裏に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。雨の日の交差点。大型トラックの急ブレーキが引き裂くような金属音。そして、ぐにゃりと歪む世界の音。あの瞬間から、彼女の世界は時折、不協和音を奏でるようになった。音は人を傷つける。彼女はそれを誰よりも知っていたはずだった。だが、これほどの明確な殺意を持って設計された音は、想像を絶していた。
捜査本部に解析結果を報告すると、誰もが信じがたいという表情を浮かべた。「音で人が殺せるものか」。それが彼らの率直な反応だった。しかし、響の提示した科学的データは、その可能性を否定させなかった。
捜査は、この音響兵器を作成し、月島に聞かせた人物の特定へとシフトする。ライバル関係にあった作曲家、彼の才能に嫉妬していた音楽プロデューサー、複雑な関係にあったとされる恋人。容疑者がリストアップされていく。
だが、響には拭いがたい違和感があった。これほど高度で専門的な音響兵器を、外部の人間が作り上げ、あの完全防音の部屋で、彼自身に聞かせることが本当に可能だったのだろうか。
その疑念は、月島の部屋から押収された膨大な創作ノートを調べていた時に、確信に変わった。ノートの最後のページに、彼女が解析した殺人周波数の設計図と、寸分違わぬ数式が、彼の美しい筆跡で記されていたのだ。
犯人は、外部の誰かではない。
このおぞましい音の作曲家は、被害者である月島奏、本人だった。
第三章 究極のピアニッシモ
月島奏は自殺だった――。
その結論は、事件を振り出しに戻した。なぜ、彼は自らを殺すための音を作り出したのか。天才と呼ばれた男が、その才能のすべてを注ぎ込んで、自らの命を絶つという矛盾。響は、月島の心の闇に足を踏み入れなければならないことを悟った。
答えは、彼の個人用サーバーの奥深くに隠されていた、パスワードで保護された日記ファイルの中にあった。警察のサイバー班が解読に成功し、そのテキストデータが響の元に送られてきた。
ヘッドホンをつけ、外界を遮断する。画面に映し出された月島奏の言葉を、響は一文字一文字、追っていった。
『音には限界がある。どんな美しいメロディも、どんな荘厳なハーモニーも、最後には「沈黙」に吸収される。我々作曲家は、しょせん、沈黙という巨大なキャンバスに、儚い染みを付けているに過ぎない』
日記は、彼の芸術家としての苦悩と絶望で満ちていた。彼は、自らの才能が枯渇していくことを誰よりも敏感に感じ取っていた。どんな曲を作っても、過去の偉大な作曲家たちの模倣に過ぎないのではないかという恐怖。そして、その苦悩は次第に、常人には理解しがたい領域へと踏み込んでいく。
『ならば、私は誰も聴いたことのない音を創ろう。あらゆる音の対極にある、絶対的な無。すなわち、「死」そのものを。死という究極の静寂(ピアニッシモ)を、音によって表現するのだ』
響は、その狂気に満ちた芸術への渇望に戦慄した。月島にとって、自らの死は絶望からの逃避ではなかった。それは、彼の芸術を完成させるための、最後のパフォーマンスであり、究極の作品そのものだったのだ。彼が作ったあの音は、生命を停止させ、人間を「完全な沈黙」へと導くためのレクイエムだった。
彼は、自分の命を楽器にしたのだ。
響はヘッドホンを外し、静まり返った解析室で目を閉じた。今まで彼女にとって、音は解析すべき物理データでしかなかった。感情を排し、客観的な事実だけを追い求めてきた。だが、月島奏は、音に魂を、狂気を、そして死そのものを込めた。
彼女の耳の奥で、トラウマとなっていたあの金属音が鳴り響く。しかし、不思議と以前のようなパニックは起きなかった。月島の狂気に触れた今、自分のトラウマが、ひどくちっぽけなものに思えた。音は人を傷つける。だが、音は人の魂の叫びでもある。美しさも、醜さも、喜びも、狂気も、すべてを内包している。
数日後、事件は「月島奏の芸術的表現に基づく自殺」として、静かに処理された。
響は、解析のためにコピーしていた「殺人周波数」のデータを、自分のコンピューターから完全に消去した。この音は、決して世に出てはならない。彼の狂気的な芸術は、彼一人の死をもって完結させるべきだ。それは、論理や科学では割り切れない、音の力を知る者としての、響なりの倫理だった。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。様々な音が混じり合い、街という巨大なオーケストラを奏でている。響は、もうヘッドホンを必要としなかった。彼女はただ静かに、その雨音に耳を澄ませていた。
世界は、かくも豊かな音で満ちている。
その当たり前の事実に気づいた時、彼女の心にも、長く続いていた不協和音が止み、穏やかな静寂が訪れていた。それは、死の沈黙ではなく、生命に満ちた、優しい静けさだった。