第一章 錆びついたゼンマイの悲鳴
霧島朔(きりしま さく)の営む古道具屋『時のかけら』は、埃と記憶の匂いがした。陽光ですら店内ではその鋭さを失い、琥珀色の静寂に溶けていく。朔自身も、この店の調度品のように、世の流れから少しだけ外れた場所で息をしていた。彼には秘密があった。物に触れると、その持ち主が込めた強い感情が、奔流となって流れ込んでくるのだ。彼はそれを『残響鑑定』と自嘲気味に呼んでいた。それは呪いにも似た能力だった。
その日、店のドアベルが澄んだ音を立て、一人の女性が入ってきた。年は三十代半ばだろうか。その手には、ビロードの布に包まれた小さな木箱が大事そうに抱えられていた。
「あの、修理をお願いしたいものがあるんです」
彼女――高遠美咲と名乗った――が差し出したのは、古びたオルゴールだった。螺鈿細工の施された美しい箱だが、歳月の重みでその輝きは鈍っている。
「父の遺品なのですが、ゼンマイを巻いても音が鳴らなくて」
朔は頷き、無言でオルゴールを受け取った。そして、指先が乾いた木肌に触れた瞬間、覚悟していた以上の衝撃に襲われた。
――痛い。息が、できない。
それは物理的な痛みではなかった。魂が軋むような、絶望。暗い海の底に一人沈んでいくような焦燥感。必死に何かを掴もうと伸ばされた指が、虚空を掻くだけの無力感。朔は思わず息を呑み、オルゴールから手を離した。心臓が嫌な音を立てていた。
「どうか、しましたか?」
心配そうに覗き込んでくる美咲に、朔はかろうじて平静を装った。
「いえ……少し、古いものなので、慎重に扱わないと、と」
嘘だった。これはただの故障ではない。このオルゴールには、持ち主の断末魔にも似た感情が焼き付いている。
「お父様は、いつ頃……」
「一週間前です。書斎で、心不全でした。眠るように安らかな顔だったと、警察の方は……」
美咲の言葉とは裏腹に、朔の指先に残る残響は、安らかさとは程遠い悲鳴を上げていた。警察が見過ごした何か、あるいは見ようとしなかった何かが、この小さな箱の中で沈黙している。朔は、関わるべきではないと頭では分かっていながら、その錆びついたゼンマイが奏でるはずだった旋律に、心を囚われてしまった。
第二章 不協和音の旋律
朔は数日をかけ、オルゴールの鑑定に取り掛かった。能力を制御し、感情の洪水に溺れないよう、薄い絹の手袋越しに慎重に各部品に触れていく。
まず、ゼンマイの巻かれた香箱。そこから感じ取ったのは、張り詰めた緊張と、諦念だった。何かを成し遂げようとする意志が、ぷつりと途切れた瞬間の残響。次に、櫛歯。美しい音を奏でるはずのそれは、深い悲しみに濡れていた。まるで、奏でられることのない旋律を悼むように。
そして、オルゴールの心臓部であるシリンダー。無数のピンが植えられた金属の筒からは、矛盾した感情が流れ込んできた。一つは、焼けるような「後悔」。もう一つは、慈しむような、深い「愛情」。
「後悔と、愛情……?」
朔は眉をひそめた。絶望の中に灯る、温かな光。それはまるで、嵐の夜の灯台のようだった。
朔は美咲に連絡を取り、彼女の父、高遠氏について詳しく尋ねた。
「父は作曲家でした。でも、ここ数年はスランプというか……ほとんど曲を書いていませんでした」
電話口の声は少し翳っていた。
「特に、最後の曲にこだわっていました。何度書いても気に入らない、と楽譜を破り捨てては、また机に向かう。そんな毎日の繰り返しで……私たち家族とも、少し距離ができてしまって」
その「最後の曲」こそ、このオルゴールの旋律なのだろうか。朔は、高遠氏の書斎を見せてもらう許可を得た。
高遠氏の書斎は、主を失ってもなお、彼の気配が濃密に漂っていた。壁一面の楽譜、ピアノの上に無造作に置かれた万年筆。朔は、遺族の許可のもと、一つ一つに触れていった。
万年筆からは、インクの匂いと共に「創造の苦しみ」が伝わってきた。音にならない音を、五線譜という檻に閉じ込めようとする葛藤。楽譜の束からは、「届かない想い」。誰かに何かを伝えたいと切望しながら、その術を見つけられないもどかしさ。
だが、机の隅に置かれた一枚の古い家族写真に触れた時、朔は息を呑んだ。そこから流れ込んできたのは、驚くほど穏やかで、温かい感情だった。妻と、幼い美咲に向けられたであろう、紛れもない「感謝」と「安らぎ」。
事件の影などどこにもない。ただ、家族を愛し、音楽に苦悩した一人の男の人生がそこにあった。では、あのオルゴールに宿る絶望は、一体どこから来たというのか。謎は深まるばかりだった。
第三章 偽りの追悼歌
書斎から戻った朔は、再びオルゴールと対峙していた。断片的な感情のパズルは、まだ完成には程遠い。彼は意を決して手袋を外し、素手でオルゴールの分解を始めた。冷たい金属の感触が、直接肌を刺す。感情の奔流が流れ込むのを、奥歯を噛み締めて耐えた。
そして、全ての部品を分解し終え、最後のシリンダーを手に取った時だった。
これまで感じていた高遠氏の感情の層の下に、まるで地層のように埋もれていた、別の誰かの感情が浮かび上がってきたのだ。
それは、「安堵」だった。重い責務を果たし終えたかのような、深い安堵。しかし、その奥には、底なしの「悲しみ」が横たわっていた。そして、微かだが確かな「成就感」。まるで、歪んだ形で何かを成し遂げた者の感情。
これは高遠氏のものではない。美咲のものでもない。この部屋で、高遠氏の死に関わった第三者がいる。その人物が、このオルゴールに触れたのだ。
犯人がいる。朔は確信した。
朔の脳裏に、美咲が漏らした一人の人物の名前が浮かんだ。高遠氏が最も目をかけていたという若い弟子、桐谷奏太(きりたに そうた)。朔はつてを辿って彼のアパートを訪ねた。
現れた奏太は、憔悴しきった表情の、繊細そうな青年だった。彼は師の死を心から悼んでいるように見えた。
「先生は、僕にとって光でした。あの人の音楽がなければ、今の僕はいません」
言葉からは、嘘の色は感じられない。だが、朔は奏太が抱えていた楽譜のファイルに、さりげなく触れた。
その瞬間、電流が走った。
――安堵と、悲しみ、そして成就感。
オルゴールのシリンダーから感じ取ったものと、全く同じ質の残響。間違いない。この青年が、高遠氏の最期に立ち会っていた。
「君が、やったのか」
朔の静かな問いに、奏太の肩が大きく震えた。観念したように顔を上げた彼の瞳は、涙で潤んでいた。
「……殺してなんか、いません」
奏太は、絞り出すように真相を語り始めた。高遠氏は、進行性の難病で、少しずつ指の自由が利かなくなっていた。作曲家にとって、それは死の宣告に等しい。絶望した高遠氏は、誰にも迷惑をかけず、尊厳を保ったまま人生を終えたいと願うようになった。
「先生は、僕に頼んだんです。最後の時を、一人で見届けてほしい、と。先生がご自身で用意された薬を飲むのを、ただ、そばで見ていることしかできなかった」
それは殺人ではなく、嘱託殺人ですらなく、ただ、師の最後の願いを叶えるための、痛ましい幇助だった。
「オルゴールが鳴らなかったのは……」
「先生が、最後の力を振り絞って、シリンダーのピンを折ろうとしたからです。『こんな未完成の曲、世に出すわけにはいかない』と。でも、その途中で……力が尽きてしまった」
奏太は、師の未完成の曲が、無粋な誰かの手で暴かれることを恐れた。師の最後の尊厳を守るため、オルゴールが二度と鳴らないように細工をしようとしたが、うまくいかなかったのだという。
朔が最初に感じた「絶望」と「焦燥感」は、犯人に向けられたものではない。曲を完成させられないまま死んでいく、高遠氏自身の苦しみそのものだったのだ。
第四章 夜明けに響くレクイエム
全ての点が、線で結ばれた。しかし、そこには勝者も敗者も、単純な善も悪も存在しなかった。ただ、深い愛情と悲しみが横たわっているだけだった。朔は、自分の能力が初めて、単に他人の感情を浴びて苦しむためのものではなく、言葉にならない魂の叫びを掬い上げるためにあるのかもしれない、と感じていた。
その時、朔の記憶の片隅で、錆びついていた扉が軋みながら開いた。数年前、まだ若々しかった高遠氏が、ふらりとこの店に立ち寄ったことがある。朔は彼に、一本の古い万年筆を売った。そして、こう言ったのだ。
「この万年筆には、最後まで諦めなかった職人の執念が宿っています。あなたの助けになるはずです」
あの言葉が、高遠氏を「最後の一曲」という呪縛に縛り付けてしまったのではないか。自分の善意の言葉が、巡り巡って彼を追い詰める遠因になったのかもしれない。朔は、人と関わることの計り知れない重さに、打ちのめされそうになった。
数日後、朔は奏太と共に、工房でオルゴールの修理をしていた。折れかかったピン、傷ついた櫛歯を丁寧に修復していく。だが、高遠氏が折ろうとしていたピンだけは、そのままにした。
ゼンマイを巻くと、静寂を破って、澄んだ、しかしどこか途切れ途切れの旋律が流れ出した。それは未完成の曲。苦悩と、葛藤と、そして最後に訪れた解放の物語を奏でているようだった。
朔は美咲にオルゴールを返した。
「お父様は最後まで、音楽と、ご家族を愛しておられました。この旋律が、その証です」
真相を告げるべきか迷う朔に、隣に立つ奏太が静かに言った。「いつか、僕自身の口から全てを話します。今はただ、先生の魂が安らかであることを祈るだけです」
店に戻った朔は、薄暗い店内に並ぶ古道具たちを、ゆっくりと見渡した。椅子、ランプ、食器、本。その一つ一つに、誰かの人生の残響が宿っている。以前はただのノイズにしか聞こえなかったそれらの声が、今は愛おしい囁きのように感じられた。彼はもう、残響を恐れてはいなかった。静かに椅子に腰かけ、目を閉じる。流れ込んでくる無数の感情は、彼がこの世界と、そして人と繋がっている証なのだから。