第一章 感情なき修復師
埃と古い木の匂いが混じり合うカイの工房に、乾いた呼び鈴の音が響いた。カイは、レンズ付きのルーペを額に押し上げ、作業台に散らばる微細な工具から顔を上げた。ドアの向こうには、深い皺の刻まれた老婆が、背を丸めて立っていた。その手には、古びた桐の小箱が大切そうに抱えられている。
「結晶修復師のカイ先生でいらっしゃいますか」
しゃがれた声が、工房の静寂を揺らした。カイは無言で頷き、老婆を中へと促す。彼は、感情の起伏をほとんど顔に出さないことで知られていた。それは、彼が「空っぽ」だからだと、陰で囁く者もいた。
この世界では、人が強い感情を経験すると、その魂の残滓が美しい結晶となって体外に現れる。喜びは陽光を閉じ込めたような金色に、怒りは燃えるマグマのような赤色に、そして悲しみは深海の水のような青色に。人々はそれを「感情結晶」と呼び、時に売買し、時に形見として大切にした。
カイの仕事は、傷つき、色褪せた感情結晶を修復することだった。依頼人の記憶の断片を辿り、結晶が本来持っていた輝きを取り戻させる。それは、他人の心を覗き見る、繊細で孤独な作業だった。しかし、皮肉なことに、カイ自身は生まれてこの方、一度も自分の結晶を生み出したことがなかった。彼の内面は、凪いだ無風の湖面のようだった。
老婆は震える手で小箱を開け、中から紫色の布に包まれたものを取り出した。布が開かれると、現れたのは、親指の先ほどの大きさの青い結晶だった。しかし、それは本来の輝きを失い、無数の細かいひびが蜘蛛の巣のように走っている。まるで、今にも砕け散ってしまいそうなほど脆く見えた。
「これは…亡き夫が遺してくれた、たった一つの思い出なのです」と老婆は言った。「彼が息を引き取る間際に、私のために生み出してくれた、悲しみの結晶です。どうか、これを元通りにしていただけないでしょうか」
カイは結晶をピンセットでそっとつまみ上げ、光にかざした。深い、吸い込まれるような青。だが、そのひびの入り方は異常だった。まるで、結晶自身が内側から砕けようとしているかのように、複雑に絡み合っている。修復は不可能に近いかもしれない。
「これは相当な損傷です。元に戻る保証は…」
言いかけたカイの言葉を、老婆の必死な眼差しが遮った。「お金なら、いくらでもお支払いします。どうか、お願いです。これがないと、私はあの人のことを思い出せなくなってしまう…」
その時、カイは奇妙な感覚に襲われた。結晶に指先が触れた瞬間、胸の奥、ずっと凍てついていたはずの何かが、微かに疼いたのだ。それは痛みでも喜びでもない、名付けようのない感覚。まるで、遠い昔に失くした何かを、不意に見つけたかのような、淡い郷愁にも似た感情の揺らぎだった。
彼はこれまで、数え切れないほどの結晶に触れてきたが、こんな感覚は初めてだった。
「…わかりました。お預かりします」
カイは、自分でも予期せぬ言葉を口にしていた。この不可能に思える依頼の先に、自分の空虚さを埋める何かがあるのかもしれない。そんな、根拠のない予感が彼を突き動かしたのだ。
第二章 借り物の追憶
修復作業は、静寂の中で始まった。カイは、特殊な音叉と共鳴器を使い、結晶の持つ固有振動数を探り当てる。それは、結晶に込められた記憶の扉を開くための鍵だった。幾度かの試行錯誤の末、か細い、しかし澄んだ共鳴音が工房に響き渡る。カイは目を閉じ、意識を結晶の深淵へと沈めていった。
途端に、知らないはずの光景が、奔流となって彼の意識に流れ込んできた。
春の陽光が降り注ぐ公園のベンチ。若い男女が、はにかみながら一つのパンを分け合っている。男の少し日に焼けた、節くれだった指。女の、笑うと細くなる目元。それは、依頼人である老婆とその夫の、若き日の姿だった。
場面が変わる。雨漏りのする小さなアパートの一室。男は設計図を広げ、女はその肩にそっと毛布をかける。言葉はなくとも、互いを慈しむ空気が部屋を満たしている。貧しくとも、確かな愛に満ちた日々。カイは、自分が一度も経験したことのない温かい感情の波に、戸惑いながらも身を任せた。まるで、他人の人生を自分のことのように体験しているようだった。
しかし、記憶の旅は、結晶のひび割れにぶつかるたびに、ノイズ混じりの映像のように途切れてしまう。核心に近づけば近づくほど、抵抗は強くなった。特に、結晶の中心部に存在する最も深い亀裂は、彼の意識を頑なに拒絶した。
「なぜだ…」
カイは焦りを募らせた。彼の修復技術は、結晶の持ち主の感情に深く共感し、同調することで初めて十全な効果を発揮する。だが、彼にはその「共感」の源となる、自分自身の感情が欠けていた。借り物の記憶をなぞることはできても、その根底にある悲しみの本質に触れることができない。自分の空っぽの器では、この深く巨大な悲しみを受け止めきれないのだ。
数日間、カイは寝食も忘れ、作業に没頭した。老婆と夫の人生の断片を何度も追体験するうちに、彼の内面にも変化が起きていた。朝、窓から差し込む光の美しさに、ふと胸が締め付けられる。工房の隅で鳴く鈴虫の声に、言いようのない切なさを覚える。これまで色を持たなかった世界が、少しずつ彩りを帯びていくようだった。
それでも、結晶の修復は進まなかった。中心の亀裂は、まるで固く閉ざされた扉のように、びくともしない。
「このままでは、老婆の期待に応えられない…」
無力感が、鉛のように彼の肩にのしかかる。彼は、この結晶の成り立ちについて、もっと詳しく知る必要があると感じた。何か、決定的な情報が欠けている。カイは意を決し、老婆の家を訪ねることにした。
第三章 青い結晶の真実
老婆の家は、港を見下ろす丘の上に建つ、古いが手入れの行き届いた小さな家だった。潮風に揺れる花々が、カイを出迎えた。通された居間には、色褪せた家族写真がいくつも飾られている。その中に、一枚だけ、若い夫婦と小さな男の子が写っている写真があった。男の子は、どこか自分に似ているような気がしたが、カイは気のせいだろうと首を振った。
「修復は、難航しております」
カイが切り出すと、老婆は静かに頷き、ゆっくりと語り始めた。
「無理もないことです。あれは、普通の結晶ではございませんから」
彼女は窓の外、遠い水平線を見つめながら、夫が亡くなった日のことを話し始めた。
「あの日、主人はもうほとんど口もきけませんでした。ただ、私の手を固く、固く握りしめて…。そして最後の力を振り絞って、一つの結晶を生み出してくれたのです。私は、てっきり、これまでの感謝と愛情が詰まった、美しい金色の結晶だと思っておりました。でも、主人の手からこぼれ落ちたのは…あの、悲しい青色の結晶だったのです」
老婆の声が、微かに震える。
「主人は、それを見て、とても悲しそうな顔をしました。最期の瞬間に、私を悲しませてしまった、そう思ったのかもしれません。本当は、私への愛を伝えたかったはずなのに…」
その言葉を聞いた瞬間、カイの頭の中で、何かが砕ける音がした。
結晶の異常な構造。老婆の語る記憶。自分が結晶に感じていた、あの奇妙な引力。バラバラだったパズルのピースが、一つの形を成していく。
違う。その結晶は、祖父のものではない。
カイは、自分の記憶の、固く閉ざされた扉をこじ開けようと必死にもがいた。忘れていたはずの光景が、閃光のように蘇る。
病院の白いベッド。いくつもの管に繋がれた、優しい祖父の姿。その隣で、静かに涙を流す祖母。そして、その二人の傍らで、何が起きているのかも理解できず、ただ大きな不安と悲しみに打ち震えていた、幼い自分の姿が。
両親を事故で亡くし、祖父母に引き取られた幼いカイ。彼にとって、祖父は世界のすべてだった。その祖父が、目の前からいなくなってしまう。その耐えがたい喪失感、叫び出したいほどの悲しみが、小さな体の中で渦を巻き、そして―――弾けた。
あの青い結晶は、祖父が遺したものではない。
**あれは、祖父の死を前にした幼いカイが、生まれて初めて生み出した、彼自身の「悲しみの結晶」だったのだ。**
その結晶を生み出した衝撃で、カイは感情と、祖父母と共に過ごした記憶の大部分を失ってしまった。空っぽの修復師、カイが生まれた瞬間だった。
老婆は、孫が感情を失ってしまったことを深く悲しんだ。そして、いつかカイが自分自身を取り戻す日を信じ、それが「夫の結晶」だと偽って、大切に保管し続けてきたのだ。孫自身の手で、失われた心を取り戻させるために。カイに修復を依頼したのは、彼女の最後の希望だった。
「…おばあちゃん」
何十年ぶりかに口にしたその言葉は、ひどく掠れていた。カイの頬を、熱い雫が伝っていく。それは、彼が忘れていた、本物の涙だった。
第四章 夜明けの色
全ての記憶が繋がった時、カイは子供のように声を上げて泣いた。祖父を失った悲しみ、祖母にかけた心労、そして何十年もの間、自分自身を失っていたことへの絶望と後悔。堰を切ったように溢れ出す感情の濁流に、彼はただ身を任せた。
老婆――祖母は、そんなカイの背中を、優しく、何度もさすってくれた。皺だらけのその手の温もりが、カイの凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
「お帰りなさい、カイ」
その一言が、何よりの赦しのように聞こえた。
工房に戻ったカイは、再びあの青い結晶と向き合った。もう、それは他人の記憶が詰まったただの依頼品ではなかった。それは、カイ自身の失われた魂の欠片だった。
彼は、修復の道具を手に取らなかった。ただ、そっと結晶を両手で包み込む。彼の目からこぼれ落ちた涙が、結晶の表面に吸い込まれていく。すると、奇跡が起きた。涙が染み込んだひび割れから、淡い光が漏れ出し始めたのだ。
カイ自身の感情が、失われた自分の結晶を癒していく。内側から発せられる光は次第に強くなり、蜘蛛の巣のように走っていた無数の亀裂を、まるで存在しなかったかのように消し去っていく。そして、結晶の色が変化し始めた。悲しみの象徴である深い海の底のような青から、夜が明け、最初の光が空を染める瞬間の、希望を帯びた優しい青色へと。
完全に修復された結晶を手に、カイは再び祖母の家を訪れた。
「おばあちゃん、ありがとう」
彼は、結晶を祖母に返すのではなく、自分の胸にそっと当てた。それは、失われた自分の一部を取り戻すための、静かな儀式だった。結晶は温かく、じんわりと彼の心に溶けていくようだった。空っぽだった彼の内側に、確かな感情の熱が灯った。
数日後。朝の光が差し込むカイの工房。作業台の上には、いつものように工具が並んでいた。だが、その中に一つ、見慣れないものが置かれていた。
それは、夜明け色の青い結晶の隣で、生まれたての太陽のように、力強く輝く小さな金色の結晶だった。
祖母への感謝と愛情が生み出した、カイの新しい感情の結晶。
彼はもう、「空っぽ」ではなかった。失われた悲しみを取り戻し、新たな喜びを紡ぎ出す力を手に入れたのだ。カイは、その金色の結晶をそっと手に取り、窓の外に広がる青い空を見上げた。世界は、こんなにも鮮やかで、愛おしい光に満ちていた。