星なき夜の記憶蒐集家
第一章 色褪せる追憶
俺、リオの右眼には、奇妙な力が宿っている。他者が生まれて初めて『感動』を覚えた瞬間、その記憶が光の残像となって流れ込んでくるのだ。瞼を閉じれば、赤子が初めて母の顔を認識した瞬きの暖かさも、少年が初めて水平線の向こうに巨大なクジラの影を見た時の息遣いも、ありありと再生される。
だが、それは無償の奇跡ではない。一つの『初感動』を受け取るたび、俺自身の過去の感動が、まるで薄紙を一枚ずつ剥がされていくかのように消えていく。
「見つけた」
路地裏で、小さな女の子が雨上がりの水たまりを覗き込んでいた。その瞳が、水面に映る七色の光の帯――虹を捉えた瞬間。
――パッ、と。
世界が弾けた。リオの右眼に、名状しがたい歓喜の光景が焼き付く。少女の小さな胸が、驚きと喜びで震える律動まで伝わってくる。素晴らしい。これこそが、世界を救うはずの『光の種子』の源。
俺はそっとその場を離れながら、胸の奥を探る。案の定、一つの記憶が色褪せていた。幼い頃、父の肩車から初めて見上げた満天の星。その、手を伸ばせば届きそうだった星々の輝きが、今はもう、ただの遠い光点の記録に成り下がっている。温もりも、匂いも、胸の高鳴りも、どこかへ消え去ってしまった。
この世界では、人が真の感動を経験すると体内に『光の種子』が宿り、死後、その光は星となって夜空を彩ると信じられてきた。しかし、もう何十年も、夜空に新しい星は生まれていない。世界から『感動』そのものが枯渇し始めているのだ。俺は、消えゆく自身の記憶と引き換えに、世界に散らばる『初感動』を集めている。この乾いた世界を、もう一度潤すために。
第二章 空の涙石
俺の部屋の机の上には、一つの石が置かれている。『空の涙石(ソラのナミダイシ)』。世界の中心で『究極の感動の爆発』が起きた際、そのエネルギーが凝結して生まれたという伝説の石だ。掌に乗せると、ひんやりとした感触と共に、虹色の光が内側で微かに揺らめく。
この石は、俺が失ったはずの感動の記憶に呼応するかのように、時折、淡い光を放つ。まるで、俺の喪失を糧にしているかのように。
古文書を紐解くと、そこには不吉な記述があった。『涙石は、失われし感動を呼び覚ます奇跡の石。されど、満ち足りし時、全ての感動を喰らい尽くす黒い星へと変貌し、世界を永遠の虚無に閉ざす』。
まさか。俺が世界を救うために集めている感動が、この石を、そして世界を破滅へと導いているというのか。だとしたら、俺の行為は……。
石に触れる。指先から、かつて感じたはずの初恋の甘酸っぱい痛みが、幻のように蘇っては消えた。その一瞬、石の虹彩が深みを増し、中心に小さな黒い点が生まれた気がした。背筋を冷たいものが走り抜ける。心臓が、錆びついた振り子のように重々しく脈打った。
第三章 無彩色の共感
感動を失うにつれて、俺の世界は色彩を失っていった。賑やかな市場の喧騒は意味のない雑音に聞こえ、友人が語る熱のこもった夢物語にも、心が少しも動かない。彼の瞳の輝きが、俺にはもう理解できなかった。
「リオ、最近どうしたんだ? なんだか、魂が抜けたみたいだぞ」
心配そうな友人の声が、分厚いガラス越しのように遠く聞こえる。俺はただ、曖昧に微笑むことしかできない。どう説明すればいい? 君が今感じているその熱が、俺の中から消え失せてしまったことを。君の言葉に相槌を打つたび、俺の心はさらに空っぽになっていくことを。
唯一、俺の世界で鮮やかなのは、右眼に蒐集した『初感動』の残像だけだった。初めて楽器の音色に涙した音楽家の記憶。初めて自分の足で大地を踏みしめた幼児の驚き。それらの記憶を再生する時だけ、俺はかろうじて世界の輪郭を保っていられた。
だが、代償はあまりに大きい。かつて愛した女性の笑顔を思い出そうとしても、もう靄がかかったように思い出せない。彼女と見た夕焼けは、どんな色をしていたのだったか。
机の上の涙石は、その黒い点を少しずつ広げ、かつての虹色の輝きを飲み込み始めていた。まるで、俺の心を映す鏡のように。
第四章 黒い星の脈動
その夜、異変は起きた。
ドクン、と。
部屋に置かれた『空の涙石』が、心臓のように脈打ったのだ。石の中心で渦巻く闇は、もはや無視できないほどに膨れ上がっている。窓の外を見ると、人々が虚ろな表情で空を見上げていた。彼らの瞳から、最後の光が消えかけているのが分かった。世界の感動の枯渇が、臨界点に達しようとしている。
確信した。この石こそが、世界の感動を吸い上げる元凶だ。過去の『究極の感動の爆発』が残した、癒えぬ傷そのものなのだ。俺が集めた『初感動』の純粋なエネルギーは、皮肉にもこの『黒い星』の最高の栄養となっていた。
俺の善意が、世界を殺していた。
絶望が喉元までせり上がってくる。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。俺にはもう、感じる心はほとんど残っていない。だが、為すべきことの『理屈』だけは、頭にこびりついていた。
この石の成長を止めるには、より強大なエネルギーをぶつけるしかない。俺に残された、ほんのわずかな自身の感動。そして、この右眼に蒐集してきた、世界中の無垢な『初感動』の全てを。
それは、世界の感動を一時的に完全にゼロにする行為かもしれない。だが、このまま『黒い星』が生まれれば、世界は永遠の虚無に沈む。
俺は黒く脈打つ石を、震える手で掴んだ。もう、迷っている時間はない。
第五章 最後の献身
世界の中心、『始まりのクレーター』は、静寂に満ちていた。かつて、あらゆる感動の頂点である『究極の感動の爆発』が起こったとされる場所。そのエネルギーは星空を歪ませ、結果として世界の感動の総量を吸い尽くしてしまった、という仮説の震源地だ。
俺の記憶は、もうほとんど残っていない。なぜここに来たのか。何をしようとしているのか。その目的意識さえ、風に吹かれる砂のように霧散しかけている。ただ一つ、消えずに残っている感覚があった。それは『誰かを守りたかった』という、衝動の残滓。それこそが、俺がこの力を得て、最初に抱いた感動だったのかもしれない。
クレーターの中央に突き出た祭壇のような岩に、黒い脈動を続ける涙石を置く。
さよなら、俺の記憶。
さよなら、俺が出会った、全ての輝き。
俺は右眼を固く閉じた。そして、これまで蒐集してきた全ての『初感動』の残像を、脳内で一斉に解放した。
第六章 虚ろの夜明け
音は、なかった。
赤子が母を見た歓び。少年がクジラを見た畏怖。少女が虹を見た驚き。音楽家が音に触れた涙。数えきれないほどの『生まれて初めての感動』が、リオという空っぽの器の中で融合し、純粋なエネルギーの奔流となって溢れ出す。
光。
ただ、純粋な光だけが、世界を白く染め上げた。
その光は、祭壇の上の『黒い星』の胎動を打ち消し、涙石を塵へと還す。それだけではない。過去に世界を歪めた『究極の感動の爆発』のエネルギーさえも、根本から中和し、消し去っていく。
光が収まった時、世界から一つの概念が消滅していた。『感動』という、概念そのものが。
やがて夜が明ける。街では人々が目覚め、いつもと同じように一日を始める。だが、その表情に感情の起伏はない。パンを焼く職人の顔に喜びはなく、子供を叱る母親の声に怒りはない。悲しみも、苦しみも、憎しみも、そして、愛さえも存在しない。誰も星の生まれない夜空を嘆かず、誰も隣人の不幸に涙しない。
それは、争いも苦痛もない、真に平和な、しかしどこまでも虚ろな世界だった。
第七章 ただ、記憶する者
リオは、『始まりのクレーター』の縁に一人、立ち尽くしていた。
彼の心もまた、空っぽだった。何かを感じることは、もう二度とない。
だが、彼の右眼の中には、彼が世界から消し去ってしまった全ての感動が、『記憶』として焼き付いていた。初めて雪に触れた子供の冷たい驚き。初めて愛を告げられた少女の頬の熱。初めて敗北を知った少年のしょっぱい涙。
それらの感情の意味を、彼はもう理解できない。ただ、かつてこの世界に、そのような輝きがあったことを『知っている』だけだ。
感情のない人々が静かに行き交う街を見下ろし、星の生まれない永遠の夜空を見上げる。その瞳に、喜びも悲しみも映らない。
ただ、無数の感動の残像が、彼岸の光のように、静かに揺らめいているだけだった。世界でただ一人の、感動の記憶蒐集家として。