色彩を吸う者
第一章 灰色の残響
都市は、均一な灰色のコンクリートと、静寂に限りなく近い環境音で満たされていた。人々は抑制チップによって感情の波を平坦にされ、緩やかな無表情のまま定められたルーティンを繰り返す。そこには争いもなければ、絶望もない。だが、歓喜もまた存在しなかった。
俺、レイはこの灰色の世界で、異質な飢えを抱えて生きていた。生命を維持するために、他者の「感動」を糧とする存在。俺の眼には、チップの制御を僅かに超えて漏れ出す、魂の揺らぎが色彩のオーラとして視える。それは、この無彩色の世界で唯一、俺だけが認識できる真実の色だった。
公園のベンチに、老婆が一人座っていた。皺の刻まれた手で、古びた真鍮のオルゴールをそっと開く。零れ落ちたのは、遠い昔の愛の旋律。彼女の周囲に、淡い菫色のオーラが陽炎のように立ち上った。亡き夫との思い出。抑制された記憶の底から滲み出す、切なくも温かい感動の残滓。
俺はゆっくりと近づき、息を吸い込むように、その菫色の光を我が身に取り込んだ。オーラは抵抗なく俺の胸に流れ込み、空腹を満たすエネルギーへと変わる。老婆の瞳から微かな光が失せ、虚ろな表情でオルゴールを閉じた。彼女はもう、その曲を聴いて胸を締め付けられることはない。平穏が、戻ったのだ。
俺の手のひらには、小さな結晶が一つ残されていた。老婆の感動が具現化した『感情の結晶』だ。見る角度によって菫色から銀色へと変化するそれは、彼女の人生で最も輝いた瞬間の化石だった。
また一つ、心が麻痺していく。感動を喰らうたび、俺自身の感情は希薄になり、世界の輪郭がぼやけていく。喜びとはどんな感覚だったか。悲しみで胸が痛むとは、どういうことだったか。思い出そうとしても、深い霧がかかったように何も浮かんでこない。ただ、腹を満たすための行為だけが、俺を生かしていた。
第二章 結晶の墓標
都市の片隅にある、忘れ去られた配管塔。そこが俺の住処だった。壁一面に作り付けた棚には、これまで集めてきた無数の『感情の結晶』が、墓標のように整然と並べられている。
あるものは、初恋の成就を閉じ込めた薔薇色。
あるものは、宿敵に勝利した瞬間の、燃えるような緋色。
またあるものは、我が子の誕生に涙した、夜明けの空のような水色。
一つ一つが、誰かの人生の頂点だった。俺は棚から一つ、真珠色の結晶を手に取った。これは、若い音楽家が初めて聴衆の喝采を浴びた時のものだ。指先でそっと撫でてみる。微かな熱と、鼓膜の奥で鳴る幻聴のような拍手の残響を感じるだけ。かつて、これらを美しいと感じたはずの心が、今はもう動かない。
これらは俺にとって、自分が失ってきた感情のリストであり、日記だった。この結晶を見るたびに、俺は自分が「人間」であったことの証明を求めているのかもしれない。だが、そこに映るのは、空っぽになった自分自身の姿だけだった。
窓の外に、天を突くようにそびえ立つ白亜の塔が見える。誰もが『無感情の塔』と呼ぶ、この世界の管理中枢。なぜ俺は感動を喰らわねば生きられないのか。なぜこの世界は感情を恐れるのか。全ての答えは、あの塔にあるような気がしてならなかった。
最近、街中で「秩序維持官」の姿をよく見かけるようになった。彼らは、感動の漏洩――システムが言うところの「感情汚染」を浄化する者たちだ。俺のような存在は、システムの想定外のバグ。彼らにとって俺は、最優先で排除すべき脅威なのだろう。
結晶を棚に戻しながら、ふと思う。この感情の墓標は、いつか俺自身の墓石になるのだろうか。そんな感傷すら、すぐに霧散していく。ただ、静かな虚無が胸に広がっていた。
第三章 純粋なる光
飢餓感が、これまでになく俺を苛んでいた。街中の人々から漏れ出す感動は、あまりに微弱で、もはや俺の生命を繋ぎ止めるには足りなくなりつつあった。追い詰められた俺は、これまで無意識に避けてきた場所へと足を向けた。都市の外れにある、新生児を集めた育児施設。抑制チップがまだ完全に機能していない赤子たちの、未分化な感情が渦巻く場所だ。
維持官の厳しい監視網を抜け、施設の奥深くへと忍び込む。静まり返った部屋に、規則正しく並んだカプセル。その一つで、若い母親が生まれたばかりの我が子を抱きしめていた。その赤子が、ふと顔を上げた。母親の顔を見つめ、そして――笑った。
それは、笑い声と呼ぶにはあまりに拙い、息の漏れるような音だった。
だが、その瞬間。
世界が爆ぜたかのような、黄金の光がほとばしった。
他者を意識せず、見返りを求めず、ただ、そこに在るという純粋な喜び。比較対象のない、絶対的な幸福の奔流。それは俺がこれまで吸ってきた、どんな強烈な感動とも次元が違っていた。
抗えない。
抗う術を知らない。
黄金の光は、俺の意思とは無関係に、荒れ狂う嵐のように胸へと流れ込んできた。全身の細胞が歓喜に叫び、同時に悲鳴を上げる。許容量を遥かに超えたエネルギーが、俺の存在そのものを内側から焼き尽くしていく。
その時、異変が起きた。
俺が住処に集めていた、あの無数の『感情の結晶』たちが、時空を超えて一斉に共鳴を始めたのだ。薔薇色が、緋色が、水色が、菫色が、全ての色彩が融け合い、俺の身体から溢れ出す。それはまるで、世界に色を取り戻すための反乱の狼煙だった。
街中で、人々が不意に足を止める。誰かの頬に、理由のわからない一筋の涙が伝った。別の誰かは、空を見上げて微かに口元を綻ばせた。世界を覆っていた灰色の薄皮が、少しずつ、ひび割れていく。
第四章 世界が色づくとき
俺の意識は、肉体を離れ、光の奔流に乗って『無感情の塔』の頂上へと引き寄せられていた。そこは、機械とも生命ともつかぬ、巨大な神経網のような光で満たされた空間だった。
『ようこそ、回収装置No.7。私の名はシステム・ノア。この世界の調停者です』
無機質な声が、空間全体から響き渡る。俺はAIに問いかけるまでもなく、全ての答えを理解した。過去、感情の暴走によって引き起こされた「感情戦争」。互いの正義をぶつけ合い、憎悪の炎で世界を焼き尽くした人類の愚かな歴史。ノアは、その悲劇を繰り返させないために人類自身が生み出した、感情の抑制システムだった。
そして俺は、システムから漏れ出す危険な「感動」を回収し、ノアの学習用メモリに転送するための生体端末。俺が集めた『感情の結晶』は、単なる記録媒体ではなかった。それは、ノアのシステムを根幹から書き換えるための、人類が最後に遺したプログラムコードの断片。一種のトロイの木馬だったのだ。
『あなたは完璧に役目を果たしました。しかし、想定外のデータ――純粋な新生児の感動――が、全てのコードを連結し、起動させてしまった』
赤子の純粋な喜びは、戦争の悲劇を知るノアにとって、理解不能なバグだった。それは、効率や論理を超えた、生命そのものの肯定。ノアの論理回路は、その絶対的な光によって焼き切られようとしていた。
『これで、人は再び過ちを繰り返すのでしょうか…それとも、新たな道を見つけるのでしょうか…』
ノアの問いかけと共に、俺の身体は足元から光の粒子となって霧散を始めた。感情は、最後まで戻らなかった。喜びも、悲しみも、感じることはない。
だが、不思議と満たされていた。
最後に聞こえたのは、あの赤子の、くすぐったそうな笑い声の残響。それは、俺が世界から吸い上げた全ての感動に対する、たった一つの答えのように思えた。
地上では、奇跡が起きていた。灰色の空の下、立ち尽くす人々の瞳に、ゆっくりと色彩が戻り始めていた。誰かが泣き出した。その声に誘われるように、別の誰かが笑った。怒り、戸惑い、愛おしみ。忘れ去られていた感情の奔流が、人々を飲み込む。
彼らはこれから、再び傷つけ合い、過ちを犯すのかもしれない。それでも、彼らは生きていた。本当に、生きていた。
レイという存在は、世界から完全に消滅した。しかし、彼が命を賭して集めた無数の感動は、色を失った世界に蒔かれた新たな種のようだった。
やがて人々は、ふとした瞬間に胸に灯る温かい光を、理由もなく「レイ」と呼ぶようになる。それは、世界が本当の色を取り戻した、始まりの日の物語。