さよならのフーガ、はじまりのプレリュード

さよならのフーガ、はじまりのプレリュード

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第一章 静寂の調律師

俺の仕事は、記憶の調律だ。人はそれを「記憶調律師」と呼ぶ。

クライアントの脳波に共鳴する特殊なヘッドフォンを使い、記憶の深層に潜り込む。そして、トラウマとなった音――悲鳴、衝突音、罵声――をピンポイントで抽出し、その音響データを破壊する。手術を終えたクライアントは、出来事そのものは覚えていても、それに付随する鋭い痛みからは解放される。俺は、人の心から棘を抜く、ただの技術者だった。

コンクリート打ちっぱなしの仕事部屋は、音の一切を吸収する分厚い防音壁に囲まれている。そこに感情の入り込む余地はない。俺自身の心のように、静寂だけが満ちていた。過去のある一点から、俺は自分の記憶からもいくつかの音を消し去った。それ以来、世界は少しだけ色褪せて見えたが、平穏ではあった。

だから、その依頼が舞い込んだ時、俺の静寂は微かに揺らいだ。

予約リストに記された名前は、高砂千代。七十六歳。依頼内容は、前代未聞のものだった。

『消去ではなく、追加を希望。亡き夫が遺したピアノの音を、私の記憶に加えてほしい』

備考欄には、こう添えられていた。『夫は、ピアニストではありません。家にピアノもありませんでした』

矛盾した依頼文。存在しないはずの音を、記憶に加える? 馬鹿げている。これは、悲しみが作り出した幻覚か、あるいは悪質ないたずらか。通常なら丁重に断る案件だ。だが、その手書きの文字の、震えながらも凛とした佇まいに、なぜか俺は指を止め、受話器を取っていた。

数日後、ドアのチャイムが鳴った。そこに立っていたのは、品の良い薄紫のカーディガンを羽織った、小柄な老婦人だった。高砂千代と名乗った彼女は、柔らかな皺の刻まれた顔で、深くお辞儀をした。

「無理を承知でのお願い、お聞き届けくださり、ありがとうございます」

その声は、乾いた落ち葉を踏むように、優しく、そしてどこか儚げだった。俺は無言で彼女を部屋に招き入れた。俺の無機質な世界に、初めて温かい色彩が持ち込まれた瞬間だった。

第二章 空気ピアノの旋律

本格的なセッションの前に、まず依頼の詳細を訊く必要がある。俺は千代さんをソファに促し、向かいに座った。

「存在しない音は、創り出すことができません。ご主人が遺した録音テープなどがあれば別ですが」

俺は事務的に、しかしできるだけ穏やかな声色を心がけて言った。

千代さんは、膝の上で組んだ手に視線を落とし、静かに語り始めた。

「あの人は、聡(さとし)という名前でした。不器用で、口下手で……でも、とても優しい人でした」

彼女の記憶を辿るように、その目は遠くを見つめていた。コンクリートの壁の向こうに、過ぎ去った日々の風景を見ているかのようだった。

「聡さんは、音楽が好きでね。特にピアノが。でも、若い頃は貧しくて、本物のピアノなんて夢のまた夢。だから、あの人はいつも、私のために『空気ピアノ』を弾いてくれたんです」

「空気ピアノ……ですか?」

「ええ」と千代さんは微笑んだ。その笑みは、陽だまりのように温かい。「テーブルを、膝を、時には宙を鍵盤に見立てて、指を踊らせるんです。そうするとね、私にだけ聴こえるんですよ。世界で一番美しいピアノの音が」

彼女は目を閉じ、うっとりとその音に耳を澄ませる仕草をした。俺の耳には、換気扇の低い唸りしか聞こえない。論理では説明できない現象だ。だが、彼女の表情は、それが紛れもない真実なのだと物語っていた。

「どんなメロディだったか、覚えていますか?」

「ええ、ええ。覚えていますとも。でも、言葉では……。温かくて、少しだけ不器用で、子守唄のように安心する音色。聡さんの愛情そのものでしたから」

それから数週間、俺は千代さんの元に通い、セッションを重ねた。彼女の家は、日当たりの良いリビングにたくさんの観葉植物が置かれ、使い込まれた木の家具が優しい光沢を放っていた。俺の仕事部屋とは正反対の世界。そこで千代さんは、聡さんとの思い出を一つ、また一つと、丁寧に紐解いていった。初めてのデートで観た映画の話。喧嘩した翌朝の、少ししょっぱい卵焼きの話。彼女が語る何気ない日常の断片は、俺がとうの昔に失くしてしまった感情のパズルピースのようだった。

俺は、彼女の語るイメージを頼りに、音を構築し始めた。温かく、不器用で、子守唄のようなメロディ。それは、技術者である俺にとって、初めての「創作」だった。夜ごと、俺はシンセサイザーに向かい、様々な音色を組み合わせ、旋律を紡いだ。それはいつしか、俺自身の凍てついた心を溶かす作業にもなっていた。千代さんの記憶に触れるたび、俺の心臓が、忘れていた微かな鼓動を取り戻していくのを感じていた。

第三章 偽りの依頼

一ヶ月後、俺はついに一つの曲を完成させた。我ながら、それは美しいプレリュード(前奏曲)だった。優しく、どこか懐かしい響きを持つ、愛情に満ちたメロディ。これなら、千代さんの求める「空気ピアノ」に限りなく近いものになっているはずだ。

最終セッションの日。俺は完成した音源を携え、千代さんの家を訪れた。

「準備ができました。これを聴いて、あなたの記憶と同期させます」

ヘッドフォンを彼女の頭にそっと装着する。千代さんは少し緊張した面持ちで、こくりと頷いた。

俺はコンソールの再生ボタンを押した。

リビングに、柔らかなピアノの音が流れ出す。陽光を浴びてきらめく埃のように、繊細な音の粒子が空間を満たしていく。千代さんは目を閉じたまま、じっと聴き入っていた。やがて曲が終わり、静寂が戻る。

俺は期待を込めて彼女の顔を見た。

千代さんはゆっくりと目を開けると、ヘッドフォンを外し、俺に微笑みかけた。そして、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。

「……とても、素敵な曲ね。涙が出そうなくらい。でも……これは、聡さんの音じゃないわ」

俺は絶句した。失敗だ。俺の技術と感性では、彼女の記憶の核心に触れることはできなかったのだ。失望が胸に広がる。

だが、千代さんの表情に、落胆の色はなかった。むしろ、何かをやり遂げたような、安らかな光が宿っていた。

「霧島さん。今日まで、本当にありがとう」

彼女は深く頭を下げた。

「私の本当の依頼はね、音を加えてもらうことじゃなかったの」

「……どういう、意味ですか?」

千代さんは、テーブルの上に置かれていた一通の封筒を、俺の前にそっと滑らせた。それは、病院からの診断書だった。

『アルツハイマー型認知症』

その文字が、俺の目に突き刺さった。

「私はね、もうすぐ全部忘れてしまうの。聡さんの顔も、声も、あの不器用なピアノの音も……。それが、怖くて、怖くてたまらなかった」

彼女の声は震えていた。

「だから、あなたに聴いてほしかった。私が忘れてしまう前に、聡さんという人がこの世界にいて、私を深く愛してくれたことを、誰かに覚えていてほしかったの。私の記憶をあなたに預ける。それが、私のたった一つの、最後の我儘だったんです」

衝撃だった。彼女は、俺を記憶の調律師としてではなく、記憶の継承者として選んだのだ。俺が彼女の思い出を何度も聞き、その音を創ろうと苦心したこの一ヶ月は、すべてが彼女の記憶を俺という器に注ぎ込むための、壮大な儀式だったのだ。

俺は、ただの技術者ではなかった。

第四章 記憶の継承者

千代さんの家からの帰り道、俺の足取りは覚束なかった。頭の中で、彼女の言葉が何度も反響する。「あなたに覚えていてほしかった」。その言葉は、俺が長年閉ざしてきた記憶の扉を、激しく叩いていた。

その夜、俺は初めて、自分の意志で記憶の深層に潜った。ターゲットは、自ら消し去った、妹・美咲が死んだあの日の記憶。

蘇ってきたのは、けたたましいブレーキ音と衝突音。俺がずっと逃げてきた音だ。だが、今回は耳を塞がなかった。その音の奥から、別の音が聴こえてきた。公園のブランコを漕ぐ美咲の、鈴が鳴るような笑い声。事故の直前、俺に駆け寄りながら叫んだ言葉。「お兄ちゃん、見てて!」。そして、最後に俺の手を握った時の、か細い呼吸の音。

悲しみと後悔が濁流のように押し寄せ、俺は声を上げて泣いた。何年ぶりかに流した涙は、熱く、しょっぱかった。俺は音と共に、悲しむという感情さえも消し去っていたのだ。だが、悲しみは、美咲が確かにここに存在したという証でもあった。それを消すことは、彼女の生きた証を消すことと同じだったのだ。

俺は、千代さんの本当の願いを、ようやく理解した。

忘れることは、死よりも悲しい。しかし、誰かが覚えていてくれるなら、その魂は生き続ける。

数日後、俺は再びシンセサイザーの前に座った。今度は、完璧な曲を作ろうとは思わなかった。千代さんの語った聡さんの姿を思い浮かべる。不器用で、口下手で、でも愛情深い人。その指が奏でる「空気ピアノ」。

俺が創り出したのは、プロの作ったような洗練されたメロディではなかった。少しだけ音程がずれ、リズムがもたつく、けれど聴く者の心を優しく包み込むような、不格好で、温かい音の連なりだった。これだ。これがきっと、聡さんの音だ。

俺はその曲を千代さんに聴かせることはしなかった。それはもう、彼女の記憶に加えるためのものではない。俺が、俺たち二人が、聡さんという一人の人間を忘れないための、大切なプレリュードなのだから。

俺は記憶調律師の仕事を続けている。だが、その意味はすっかり変わってしまった。俺はもう、ただ音を消すだけの技術者ではない。消えゆく記憶という名の儚い旋律に耳を澄まし、それを未来へと語り継ぐ者になったのだ。

今日もまた、新しい依頼人の待つドアの前に立つ。かつての無機質な静寂ではなく、心の中に千代さんの笑顔と、聡さんの不器用なピアノの音を響かせながら。俺はゆっくりと、その扉をノックした。世界はまだ少し色褪せて見えるかもしれない。だが、そこには確かな温かさと、これから始まる新しい物語の、優しい予感が満ちていた。

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