情景の古書店

情景の古書店

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第一章 無臭の少女と古書の香り

蒼井湊(あおい みなと)には、秘密があった。彼にとって、人の感情は「香り」だった。喜びは陽だまりの綿のように甘く、怒りは金属が焦げるように鼻を突き、悲しみは降り始めの冷たい雨の匂いがした。この特殊な共感覚のせいで、湊は人混みをひどく嫌った。無数の感情の香りが乱気流のように渦巻く場所では、息が詰まりそうになるのだ。だから彼は、街の片隅で古書店『言の葉堂』を営むことを選んだ。古い紙とインクが放つ、静かで穏やかな物語の残り香に包まれる生活は、彼にとって唯一の避難所だった。

その少女が初めて店に現れたのは、木犀の香りが街路に満ちる、ある秋の午後だった。十歳くらいだろうか。切り揃えられた黒髪に、大きな瞳。古びたワンピースを着た彼女は、まるで時が止まった絵画から抜け出してきたようだった。そして、湊を何より驚かせたのは、彼女からは何の「香り」もしなかったことだ。

喜びも、悲しみも、好奇心さえも。彼女の周りの空気は、まるで真空のように無味無臭だった。湊がこれまで出会った誰とも違う、完全な「無臭」。それは彼にとって、ありえない現象だった。生きている人間から、感情の香りがしないなどということが、果たしてありえるのだろうか。

少女は、湊の戸惑いを気にするでもなく、まっすぐに奥の棚へ向かった。そして、一冊の分厚い植物図鑑を手に取ると、窓際の小さな椅子に腰掛け、静かにページをめくり始めた。陽の光が彼女の髪を淡く照らし、舞い上がる埃を金色にきらめかせている。その光景はひどく幻想的で、湊はしばらくの間、カウンターの奥から彼女を眺めることしかできなかった。

それから毎日、少女は同じ時間にやってきては、同じ図鑑を読み、陽が傾き始めると静かに帰っていった。決して本を買おうとはせず、湊に話しかけることもない。ただ、そこにいる。湊は彼女を「無臭の少女」と心の中で呼ぶようになった。彼女が放つ不可解な静寂は、湊の心を奇妙な形でざわめかせた。それは恐怖ではなく、むしろ強い興味と、ほんの少しの寂しさだった。感情の奔流から逃れてきたはずの自分が、感情のない存在にこれほどまでに心を奪われるとは、なんという皮肉だろうか。少女の存在は、湊の静かな日常に投げ込まれた、波紋の立たない不思議な小石だった。

第二章 ワスレナグサの栞

季節が秋から冬へと移ろう頃には、湊と少女の間には、ささやかな習慣が生まれていた。湊が淹れた温かい麦茶をカウンターに置くと、少女は小さく会釈をしてそれを受け取り、本を読む傍らに置く。言葉はほとんど交わさない。だが、その静寂は心地よかった。湊は、感情の香りに乱されない安らぎを、この無臭の少女との時間に感じ始めていた。

少女の名前が「ひかり」だと知ったのは、雪が舞い始めた日のことだった。いつものように植物図鑑を読んでいた彼女が、ふと顔を上げた。

「あの……この本、売らないでくれますか」

初めて聞く、鈴の鳴るような、しかしどこか儚い声だった。

「ああ、大丈夫だよ。君が読みたいなら、ずっとここに置いておく」

湊がそう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。その瞬間でさえ、彼女から香りはしなかった。

湊の好奇心は募る一方だった。なぜ、彼女は感情の香りを纏わないのか。なぜ、この一冊の図鑑にこれほど執着するのか。

ある日、ひかりが帰った後、湊は彼女が読んでいた図鑑を手に取ってみた。何度も繰り返し読まれたページは、柔らかく波打っている。その中に、一枚の押し花が栞のように挟まっているのを見つけた。小さく可憐な青い花。ワスレナグサだった。

翌日、湊はひかりに尋ねた。

「この花、好きなのかい」

ひかりはこくりと頷いた。そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「お母さんが、好きだった花です。植物学者でした。この図鑑も、お母さんのものでした」

「そうだったのか」

「でも……今はもう、いないんです」

彼女の瞳がわずかに揺れた。それでも、悲しみの雨の匂いはしない。ただ、底なしの静寂が広がっているだけだ。湊は、彼女がその小さな体に、どれほど大きな喪失を抱えているのかを思った。感情の香りを失くしてしまうほどの、深い悲しみを。

湊は、自分の能力について考えた。これまで、他人との間に壁を作るための忌まわしい力だと思っていた。だが、もしこの力で、彼女の心を少しでも理解できるのなら。彼は初めて、自分の能力に別の意味を見出したいと願った。

しかし、彼女の心は固く閉ざされた貝殻のようで、湊にはその扉を開ける術が見つからない。ただ、言の葉堂に満ちる古書の香りが、いつもより少しだけ、ひかりを優しく包んでいるように感じられた。それは、誰かが残した遠い昔の愛情の香りのようだった。

第三章 嵐の夜の告白

春の嵐が街を叩きつけた夜だった。激しい風雨が店の古い窓を揺らし、湊は閉店の準備をしていた。もうひかりは来ないだろう。そう思った矢先、ドアベルがけたたましく鳴った。そこに立っていたのは、ずぶ濡れのひかりだった。髪から滴る雫が、床に小さな水たまりを作る。

「どうしたんだ、こんな時間に」

湊がタオルを差し出そうとした、その時だった。

ふわり、と香りがした。

湊は息を呑んだ。それは、ひかりから発せられた初めての香りだった。古い紙とインクが雨に濡れたような、切なく、そしてひどく懐かしい香り。悲しみとも喜びとも違う、記憶そのもののような香りだった。

ひかりはわなわなと唇を震わせ、やがて嗚咽を漏らし始めた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「何があったんだ。落ち着いて」

湊がその小さな肩に手を置くと、ひかりは顔を上げた。涙に濡れた瞳が、まっすぐに湊を射抜く。

「このお店……お母さんのお店だったんです」

その言葉は、雷鳴のように湊の頭に響いた。

ひかりは、途切れ途切れに語り始めた。湊がこの店を買い取る前、『言の葉堂』はひかりの母親が営んでいたこと。母親は病に倒れ、店を続けることができなくなり、泣く泣く手放したこと。そして、その数ヶ月後に亡くなったこと。

「お母さんは、この店が大好きでした。本に囲まれていると、世界中の物語とお友達になれるって……。私がこの店を売ってしまったから、お母さんは……」

罪悪感が、少女の心を縛り付けていたのだ。

そして、湊を最も驚かせた事実が、彼女の口から告げられた。

「毎日ここに来ていたのは、お母さんの匂いを、もう一度感じたかったから……。本棚に、カウンターに、この図鑑に……まだ、お母さんがいる気がして」

湊は全身に鳥肌が立つのを感じた。そういうことだったのか。

ひかりは、母親を失った深い悲しみと店を手放した罪悪感から、自分の感情を無意識のうちに封じ込めていたのだ。まるで、空っぽの器になることで、自分を守るように。彼女が「無臭」だったのは、感情がなかったからではない。感情を、この場所に残された母親の記憶、その「香り」で満たすために、自らを空にしていたのだ。

湊がこの店で感じていた、穏やかで優しい古書の香り。それは単なる紙の匂いではなかった。ひかりの母親が本一冊一冊に、この空間に注いだ愛情の残り香だったのだ。そしてひかりは、その母親の香りを吸い込むことで、かろうじて心の均衡を保っていた。

今日、この嵐の夜に、彼女の中から初めて香りがしたのは、抑えきれない感情がついに溢れ出し、彼女自身の心が動き始めた証だった。古い紙とインクが雨に濡れた香り。それは、母親の記憶と彼女自身の涙が混ざり合った、再生の香りだった。湊は、自分の能力が捉えていた世界の、あまりにも切ない真実に打ちのめされていた。

第四章 新しい本の匂い

嵐が過ぎ去り、嘘のような静けさが戻った店内で、湊はひかりの隣に座っていた。温かいココアの湯気が、二人の間に立ち上っている。ひかりの嗚咽は、いつしか穏やかな寝息に変わっていた。彼女から漂う香りは、まだ微かだが、確かに存在していた。それは、雨上がりの湿った土のような、新しい始まりを予感させる匂いだった。

湊は、自分のこれまでの生き方を思った。感情の香りを恐れ、人との関わりを避け、古書という過去の遺物の中に閉じこもっていた。しかし、ひかりは違った。彼女は、過去の香りを求め、未来へと繋ごうと、必死にこの場所へ通い続けていたのだ。

自分の能力は、他人を遠ざけるための呪いではないのかもしれない。目に見えない心の形を、その痛みを、そして温かさを感じ取るための、ささやかな祝福なのかもしれない。湊は初めて、そう思うことができた。

翌朝、目を覚ましたひかりは、少し照れたように「おはようございます」と言った。その声は、昨日までの儚さとは違う、澄んだ響きを持っていた。

湊は、彼女に静かに告げた。

「ひかりちゃん。もしよかったら、この店で一緒に働かないか。君のお母さんが残してくれた香りを、そしてこれから生まれる新しい物語の香りを、僕と一緒に守っていってほしいんだ」

ひかりの大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、今度の涙からは、悲しみの雨の匂いはしなかった。代わりに、春の若葉が芽吹くような、瑞々しく、希望に満ちた香りが、ふわりと立ち上った。

彼女は、力強く頷いた。

それから、言の葉堂には二人の店主がいるようになった。一人は、人の感情の香りがわかる男。もう一人は、かつて香りを失くし、そして取り戻した少女。

湊は、人々の感情が織りなす様々な香りを、もう恐れてはいなかった。喜びの甘い香りも、悲しみの雨の匂いも、すべてが誰かの生きた証であり、愛おしい物語の一部だと知ったからだ。

時折、湊はひかりに尋ねる。

「今日は、どんな香りがする?」

するとひかりは、新しく入荷した本のページをめくり、そのインクの匂いを深く吸い込んで、にっこりと笑うのだ。

「新しい物語の匂いがします」

その笑顔から漂う、焼きたてのパンのように温かく優しい香りに包まれるたび、湊は思う。世界は、こんなにも豊かな香りに満ちていたのだと。言の葉堂に満ちる香りは、もはや過去の残り香だけではなかった。それは、二人が紡ぎ始めた、未来の物語の香りだった。

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