第一章 色褪せたリボン
水島蓮の日常は、直角と水平線で構成されていた。建築家である彼の思考は、常にミリ単位の正確さと、機能美という名の合理性で満たされている。感情の起伏や、非効率な感傷は、設計図に紛れ込んだ一本の不要な線のようなもの。見つけ次第、消しゴムで跡形もなく消してしまうのが常だった。
そんな蓮の無菌室めいた日常に、埃っぽい過去からの小包が届いたのは、梅雨入りを告げる雨がアスファルトを叩き始めた日のことだった。差出人は、数年前に亡くなった祖父の家の遺品整理をしていた遠縁の親戚。武骨な段ボール箱を開けると、緩衝材に守られていたのは、古びたポータブルカセットプレーヤーと、一本のカセットテープだった。
テープのインデックスカードには、祖父のものらしき、震えるような文字で『未来の君へ』とだけ記されている。蓮の記憶の中の祖父は、無口で頑固な、昔気質の職人だった。晩年は疎遠になり、どんな顔で最期を迎えたのかさえ、蓮は知らない。
「未来の君、か…」
蓮は自嘲気味に呟いた。感傷的な遺品など、今の自分には最も不要なものだ。捨ててしまおうか。一瞬そう思ったが、何か得体の知れない引力に引かれ、錆びついたプレーヤーに単三電池を入れた。軋む蓋を開け、テープをセットする。再生ボタンを押し込むと、カチャリ、と懐かしい音がした。
サーッというホワイトノイズに続き、聞こえてきたのは、知らない誰かの声だった。いや、声ではない。それは、音の断片。潮風がヒューと鳴る音、遠くで響く船の汽笛、カモメの鳴き声。そして、微かに聞こえる、優しいハミング。それは祖父の声ではなかった。
『…今日の海は、銀色に光って、まるで魚の鱗みたいだ。ほら、見えるかい? あのキラキラした光。君が小さい頃、よく手を繋いで歩いた砂浜だよ…』
穏やかな女性の声が、途切れ途切れに語りかける。まるで、目の前の風景を、記憶を失くした誰かに教えているかのように。
蓮は眉をひそめた。これは何だ? 祖父の隠し子か、あるいは愛人か。いや、それにしては声が若すぎる。そもそも、このテープは何のために録音されたのか。祖父から「未来の君」である自分へのメッセージだというのなら、なぜ見ず知らずの女の声が入っている?
謎は、蓮の整然とした思考回路に、不協和音のように響き渡った。彼は無意識のうちに、ボリュームのつまみを少しだけ右に回していた。日常を覆す、その小さな音の欠片が、蓮の心を掴んで離さなかった。
第二章 音の風景画
蓮は、その日から毎晩のようにテープを聴くようになった。合理主義者の彼らしからぬ、非生産的な行為。だが、イヤホンから流れてくる音の風景は、無機質なコンクリートの部屋に、不思議な色彩と温もりをもたらした。
テープには、様々な音が記録されていた。夏祭りの喧騒と、リンゴ飴の甘い香りを語る声。神社の境内、古びた木の匂い。雨上がりの土の匂い。そして、時折聞こえる、赤ん坊の笑い声のような、幼い蓮自身の声。
『…れんくんがね、大きくなったら、じいちゃんのでっかい家を建てるんだって。障子がなくて、窓が空まで届くくらい大きくて、屋根裏には秘密基地がある家。楽しみだねえ…』
女性の声は、蓮がとうに忘れていた幼い日の約束を、まるで昨日のことのように語った。蓮の胸の奥が、チクリと痛んだ。いつから忘れていたのだろう。無口な祖父と交わした、数少ない温かい記憶を。
蓮は、音の断片をパズルのように組み合わせ始めた。潮騒、特定の祭り囃子、方言のイントネーション。それらを手がかりにインターネットで検索を重ね、ついに一つの場所に辿り着いた。祖父が晩年を過ごした、伊豆半島の小さな港町。
いてもたってもいられなくなり、蓮は週末、車をその町へと走らせた。都心の喧騒を抜け、海岸線に出ると、テープで聴いたのと同じ潮の香りが車内に流れ込んできた。風景が、音の記憶と重なっていく。あのカーブの先にある防波堤、カモメが集まる小さな灯台。全てが、初めて訪れる場所なのに、なぜかひどく懐かしかった。
蓮は、祖父が通っていたという、港の見える丘の上の小さな喫茶店『海猫亭』の扉を開けた。カラン、とドアベルが鳴る。店の奥から現れた白髪のマスターは、蓮の顔を見るなり、少し目を見開いた。
「聡さんの…お孫さんかね?」
「ええ、水島蓮です。祖父がお世話に…」
「いやあ、面影がある。特に、その眉間に皺を寄せる癖がそっくりだ」
マスターはそう言って笑うと、一杯のコーヒーを淹れてくれた。蓮は、テープのことを切り出した。祖父が残した、奇妙なテープ。そこに記録されていた、女性の声のこと。すると、マスターは少し表情を曇らせ、カウンターの奥に視線をやった。
「それなら…栞ちゃんに聞くのが一番いい。聡さんのことは、俺たちより、あの子が一番よく知っているからな」
第三章 記憶の代理人
マスターが紹介してくれた「栞ちゃん」こと早川栞は、『海猫亭』のすぐ隣にある、小さな花屋の店主だった。陽光が降り注ぐ店先で、彼女は黙々と紫陽花の葉を剪定していた。蓮の記憶の中の、テープの声の主よりも、ずっと若く見えた。
「あの、水島聡の孫の蓮と申します」
蓮が名乗ると、栞はゆっくりと顔を上げた。その澄んだ瞳が、驚きと、どこか懐かしむような色を帯びて、蓮を真っ直ぐに見つめた。
「…あなたが、蓮くん。聡さんから、いつもお話を聞いていました」
彼女の口から紡がれた言葉は、紛れもなく、あのテープの声だった。蓮は息を呑んだ。目の前の女性が、全ての謎の鍵を握っている。
栞は蓮を店の中へ招き入れ、小さなテーブルでお茶を淹れてくれた。そして、静かに、全ての真実を語り始めた。
「聡さんは、亡くなる数年前から、若年性のアルツハイマー病を患っていました。少しずつ、大切な記憶が、掌から零れ落ちる砂のように消えていきました」
栞の言葉は、蓮の胸に重く突き刺さった。知らなかった。頑固で、誰にも弱みを見せなかった祖父が、そんな孤独な戦いをしていたなんて。
「最初は、私の名前も忘れ、自分の家の場所も分からなくなりました。でも、聡さんは最後まで、たった一つ、あなたことだけは忘れようとしなかった。『蓮にだけは、俺が覚えていたことを伝えたい』…それが、口癖でした」
栞は、窓の外の港を見つめながら続けた。
「それで、私が提案したんです。私が、聡さんの『記憶の代理人』になります、と。聡さんが忘れてしまった美しい風景、楽しかった出来事、そして蓮くんとの思い出を、私が代わりに覚えて、語り聞かせます、と」
カセットテープは、そのためにあったのだ。栞は、日に日に記憶を失っていく祖父を散歩に連れ出し、彼がかつて愛した風景を見せ、その情景を語り聞かせた。祖父が忘れてしまった幼い蓮との会話を、まるで昨日のことのように再現して聞かせた。テープの声は、栞が祖父になりきって、彼の失われた記憶の世界を、彼自身のために再構築していた記録だったのだ。
「『未来の君へ』というタイトルは…」蓮が掠れた声で尋ねた。
「ええ。一つは、明日にでも今日のことを忘れてしまうかもしれない、未来の聡さん自身へ。そしてもう一つは、いつかこのテープを見つけるであろう、未来のあなたへ。聡さんは、自分の記憶が全て消えてしまっても、あなたへの愛情だけは、この音の中に残したかったんだと思います」
蓮は言葉を失った。合理性と効率だけを追い求めてきた自分の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。疎遠だった祖父が、見ず知らずの他人が、自分のために、そこまで深い愛情を注いでくれていた。その事実が、蓮の固く閉ざされた心の扉を、激しく揺さぶった。
第四章 未来の君へ
喫茶店を出て、蓮は一人、祖父と栞が歩いたであろう砂浜に立っていた。夕陽が海を茜色に染め、テープで聴いたのと同じ波音が、寄せては返していた。
彼はポケットからカセットプレーヤーを取り出し、再び再生ボタンを押した。
サーッというノイズの向こうから、栞の声が、いや、祖父の想いが流れ込んでくる。
『…れんくんがね、大きくなったら、じいちゃんのでっかい家を建てるんだって。障子がなくて、窓が空まで届くくらい大きくて、屋根裏には秘密基地がある家。楽しみだねえ…』
幼い自分が発した、無邪気な約束。
テープは回り続ける。最後に、それまで一度も聴いたことのない、途切れ途切れの、しかし紛れもない祖父自身の声が記録されていた。おそらく、病がかなり進行した頃の、最後の録音なのだろう。
『…れん…ありがとうな…いい、家を…たのむ…』
その瞬間、蓮の視界が滲んだ。堪えきれなくなった熱いものが、次から次へと頬を伝い、砂浜に落ちて染みを作った。
彼が切り捨ててきた感傷。非効率だと蔑んできた人の想い。その全てが、どれほど温かく、かけがえのないものだったか。祖父は、記憶を失う恐怖の中で、たった一つの繋がりだけを、蓮という未来への希望だけを、守ろうとしていた。そして栞は、その尊い願いを、静かに、力強く支えていたのだ。
蓮は、自分が本当に建てるべきだったのは、冷たいコンクリートの塊ではなく、人の記憶や想いが宿る、温かい「家」だったのだと悟った。
数日後、東京に戻った蓮は、設計中だった高層ビルの図面を脇にやり、新しいスケッチブックを開いた。その真っ白なページに、彼は一本の線を引く。それは、伊豆の港町に立つ、小さな家の輪郭だった。窓は空まで届くくらい大きく、屋根裏にはきっと、秘密基地がある。
その傍らには、あのカセットテープが、色褪せたリボンのように大切に置かれていた。
テープはもう回らない。だが、そこに記録された音の地図は、蓮の心の中で、永遠に響き続けるだろう。未来の彼が、道に迷わないように。そして、誰かのための温かい場所を、創り続けられるように。