第一章 無色のオルゴール
橘奏太の世界は、音で描かれた絵画だった。降りしきる雨は窓ガラスを叩く青銀のビーズのカーテンとなり、街路樹を揺らす風は翡翠色のリボンとなって空を舞う。人々の話し声はカフェの店先に渦巻くオレンジや緑の柔らかな煙だ。彼は生まれながらにして、音を色として認識する「共感覚」の持ち主だった。祖父から受け継いだ路地裏の小さな時計店『橘時計店』は、大小様々な時計が刻むリズムが織りなす、緻密な色彩のタペストリーに包まれている。カチ、カチ、という秒針の音は銀色の細い線となり、ボーン、ボーンと鳴る古時計の時報は、深い藍色の波紋となって空間に広がっていく。
奏太にとって、この能力は秘密だった。幼い頃、無邪気に「救急車のサイレンが真っ赤で痛い」と言っただけで、気味悪がられた記憶が心の隅にこびりついている。以来、彼は自分の見る世界を誰にも語らず、色彩豊かな音の洪水の中で、静かな孤独を抱えて生きてきた。
しかし、彼の完璧に見える色彩の世界には、たった一つ、不可解な綻びがあった。それは、彼の視野の片隅に常に存在する、ぽっかりと空いた「穴」。そこは、色が抜け落ちた無の領域。音が完全に死んだ場所だった。どんな豊かな音色も、その領域に吸い込まれると色を失い、ただの無意味な振動と化す。まるで、世界という名の絵画に空いた、修復不可能な傷のようだった。
その日も、奏太はルーペを目に当て、懐中時計の繊細な歯車と向き合っていた。銀色の秒針の音が規則正しく空間を刻む。その静寂を破ったのは、ドアベルの澄んだ金色の音色だった。
現れたのは、セーラー服姿の少女だった。歳は十五、六だろうか。少し不安げな表情で、大切そうに小さな木箱を抱えている。
「あの、これ……修理、お願いできますか?」
少女が差し出したのは、古びた木製のオルゴールだった。細やかな彫刻が施されているが、長年の使用で角は丸くなり、深い飴色に変化している。
奏太は黙ってそれを受け取った。その瞬間、彼は息を呑んだ。
全身の血が逆流するような感覚。目の前のオルゴールから、あの「無色」が溢れ出していたのだ。それはただ音がしないだけではない。彼の世界に存在する、あの忌まわしい「穴」そのものが、この小さな箱の中に凝縮されているかのようだった。他のあらゆる音が持つ色彩を喰らい、虚無を撒き散らす絶対的な沈黙。
「……これは」
「祖父の形見なんです。昔はよく鳴っていたんですけど、いつからか……」
少女――陽菜と名乗った――は俯いた。
奏太はゼンマイを巻いてみた。カチカチとゼンマイが巻かれる音は、確かに銀色の粒子となって見えた。だが、蓋を開けても、オルゴールはうんともすんとも言わない。そして、奏-太の目には、鳴るべき櫛歯(くしは)の部分が、不気味なほどに色のない、透明な抜け殻のように映っていた。
なぜ、このオルゴールだけが「無音」なのか。それは彼の世界の根幹を揺るがす、巨大な謎の始まりだった。
第二章 沈黙の旋律
オルゴールの修理は困難を極めた。奏太は店のカウンターの隅に作業スペースを設け、来る日も来る日もその小さな箱と向き合った。分解し、磨き上げ、一つ一つの部品を丹念に調べていく。しかし、物理的な損傷はどこにも見当たらなかった。シリンダーのピンは一つも欠けていないし、櫛歯も完璧な状態を保っている。まるで、魂だけが抜けてしまった美しい骸のようだった。
陽菜は週に二、三度、学校帰りに店を訪れた。
「どうですか?」
彼女はいつも、期待と不安が入り混じった瞳で尋ねる。奏太は言葉少なに首を横に振るだけだった。それでも陽菜はがっかりした様子を見せず、しばらく店内の古時計を眺めては、静かに帰っていく。
彼女が奏でる声は、ひだまりのような淡い黄色の色彩を持っていた。その色が、奏太の孤独でモノクロームだった心に、少しずつ沁み込んでいくのを感じた。
ある日、陽菜はぽつりぽつりと祖父の話を始めた。
「おじいちゃんも、時計職人だったんです。このお店の先代の店主さんと、お友達だったって」
奏太の祖父だ。奏太は手を止めて彼女を見た。
「祖父は、音が『見える』って言っていました。変な人ですよね」
陽菜は悪戯っぽく笑ったが、その言葉は雷のように奏太の胸を貫いた。まさか。
「……どんな風に?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「さあ……詳しくは。でも、このオルゴールは『世界で一番優しい色の音がする』って、よく言ってました」
世界で一番、優しい色の音。奏太の目には、ただの「無色」にしか見えないというのに。
その日から、奏太のオルゴールへの執着は一層強まった。これは単なる修理ではない。陽菜の祖父が見ていたという「色」を、この「無音」の牢獄から解放するための闘いだった。彼は夜を徹して作業に没頭した。工具が立てる金属音は鋭い白銀の火花となり、オイルの匂いは鈍い茶色の靄となって作業台に漂う。しかし、オルゴールの中心は、依然として頑なな沈黙を守り続けていた。
焦りと無力感が、奏太の心を蝕んでいく。このままでは、陽菜の期待を裏切るだけでなく、自分自身の存在意義さえも見失ってしまいそうだった。なぜ聞こえない?なぜ見えない?この「無色」の正体は、一体何なのだ。彼は答えの出ない問いを繰り返しながら、色のない虚空を睨み続けた。
第三章 黄金色の記憶
突破口は、思わぬところから見つかった。オルゴールの土台となっている分厚い木製の底板。その内側に、ごく僅かな窪みがあることに気づいたのだ。慎重に薄いナイフを差し込むと、隠し蓋のように小さな板が外れた。中には、経年変化で黒ずんだ小さな真鍮のプレートが嵌め込まれていた。
奏太はプレートを磨き布で丁寧に拭った。やがて現れた刻印を見て、彼は息を止めた。
『我が友、橘 誠一郎へ。息子、奏太の誕生を祝して。』
橘 誠一郎。それは、奏太が五歳の時に交通事故で亡くなった、父の名前だった。
その名前が視界に入った瞬間、脳の奥で鍵が外れるような激しい衝撃が走った。忘却の海の底に沈んでいた記憶の断片が、濁流となって意識の表面に噴き出してくる。
――薄暗い工房。木の匂いと機械油の匂い。
――大きな背中。やすりをかける、力強く優しい手。父の手だ。
――『奏太、よく聞きな。これはお前だけの、特別な音だ』
――父がゼンマイを巻くと、小さな箱からキラキラと光るメロディーが流れ出した。それは、生まれて初めて見る、眩いばかりの黄金色の音だった。暖かく、優しく、全身を包み込むような、絶対的な安心感を与える光の洪水。父の愛情そのものだった。
そうだ、このオルゴールは、父の親友だった陽菜の祖父が、父に贈ってくれたもの。そして父が、息子である自分のために、特別な曲を編曲してくれたものだったのだ。
しかし、幸せな記憶はすぐに、絶望の光景に塗り替えられる。
けたたましいブレーキ音。悲鳴。真っ赤に世界を塗りつぶす、おびただしいサイレンの音。そして、父の不在。
父の死とともに、あの黄金色の音は奏太の世界から消え去った。あまりの衝撃と悲しみに、奏太の心は最も愛おしかった音の記憶に蓋をしてしまったのだ。
「無色の穴」の正体は、これだったのだ。失われた父の記憶。世界で一番愛していた音の欠片。オルゴールは壊れていたわけではない。奏太自身の心が、その音を認識することを拒絶していたのだ。父を失った悲しみに触れることを恐れ、無意識のうちにその音を世界から消し去ってしまっていた。
奏太は呆然とプレートを握りしめた。目から、熱い雫が次々とこぼれ落ち、作業台の上に小さな染みを作っていく。それは、何十年もの間、彼の心の中で凍りついていた悲しみが、ようやく溶け出した証だった。
第四章 世界が鳴り響くとき
翌日、陽菜が店にやってきた時、奏太はカウンターで静かに彼女を待っていた。彼の目の下には深い隈ができていたが、その表情は不思議なほど晴れやかだった。
「陽菜さん」
奏太は、自分の共感覚のこと、父のこと、そしてオルゴールにまつわる全ての真実を、ありのままに語った。彼の言葉は、もはや躊躇いも恐れもなかった。陽菜は驚いたように目を丸くしたが、やがて静かに頷き、彼の話を最後まで真剣に聞いてくれた。
「そうだったんですね……。おじいちゃんも、お父様も、きっと奏太さんに聴いてほしかったんですね」
陽菜の淡い黄色の声が、奏太の心を優しく撫でた。
奏太はもう一度、オルゴールに向き直った。それはもはや、忌まわしい「無色の穴」ではなかった。失われた父との絆を取り戻すための、聖なる扉に見えた。
彼は震える指で、そっと櫛歯に触れた。物理的な調整は必要ない。ただ、心の中で、父を、あの黄金色の記憶を、強く、強く念じる。
『父さん、聴かせて』
ゆっくりとゼンマイを巻く。店内は、古時計の秒針が刻む銀色の線だけが漂う、静寂に満ちていた。
奏太が蓋を開けた、その瞬間。
――ポロン。
一粒の音が、生まれた。それは、夜明けの最初の光のような、か細くも美しい黄金色の雫だった。そして、一粒、また一粒と、雫は連なり、やがて豊かな川となって流れ出す。
懐かしいメロディーが、奏太の世界に溢れ出した。
彼の視界の片隅を占拠していた「無色の穴」が、眩いばかりの黄金色の光で満たされていく。それは、ただの色ではなかった。父の温もり、父の笑顔、父の愛情、そのすべてが溶け込んだ、魂の色だった。奏太の世界は、ついに完全な一枚の絵画となった。
涙が頬を伝い、顎から滴り落ちるのも構わず、奏太は黄金色の音の洪水に身を委ねた。何十年もの間、彼を苛んできた孤独と欠落感が、父の愛によって洗い流されていく。
やがて曲が終わり、最後の音が優しい余韻となって消えていくと、奏太は修理されたオルゴールを陽菜に差し出した。
「ありがとう、ございます」
陽菜は深く頭を下げ、その声は微かに震えていた。彼女がオルゴールを受け取ると、その手の中で、再び黄金色のメロディーが小さく鳴り響いた。
「おじいちゃんも、喜んでると思います」
陽菜は、泣き笑いのような、美しい表情で微笑んだ。
陽菜が帰った後も、奏太はしばらく工房に佇んでいた。彼の世界は、もう以前と同じではない。失われた音を取り戻しただけでなく、彼は自分の世界を分かち合える存在と出会えたのだ。
彼は決めた。これからは、ただ時を刻む時計を修理するだけではない。人々が心の中に失くしてしまった、大切な「音」と「色」を見つける手助けをする職人になろう、と。
窓の外で、夕立が始まった。アスファルトを叩く雨音は、もう青銀のビーズではなかった。一つ一つの雫が、黄金色の光を宿してきらめき、世界が祝福の歌を歌っているように、奏太には見えた。