追憶のレミニセンス

追憶のレミニセンス

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第一章 忘れ香の客

古びたレンガ造りの建物の二階、俺の仕事場である「水月香房」は、常に無数の香りに満たされている。ローズ、サンダルウッド、ベルガモット。ガラスの小瓶に詰められたそれらは、俺にとって言葉であり、感情そのものだ。俺、水月玲(みづき れい)は、調香師を生業としている。だが、俺の鼻が捉えるのは、香料の香りだけではなかった。

俺には、生まれつき奇妙な能力があった。他人が心の底から「忘れたい」と願う記憶。その記憶が放つ、特有の“香り”を嗅ぎ取ることができたのだ。それは罪悪感の焦げ付く匂いであったり、悲しみの黴びた匂いであったり、後悔の酸っぱい匂いであったりする。この能力のせいで、俺は人と深く関わることを避けて生きてきた。人の最も脆く、痛みを伴う部分に、否応なく触れてしまうからだ。

だから、その老婆が店のドアベルを鳴らした時も、俺はすぐに身構えた。彼女からは、これまで経験したことのないほど強く、そして複雑な「忘れ香」が漂っていたからだ。

「……忘れさせてくれる、香水が欲しいのです」

カウンターの前に立った老婆――千代と名乗った――は、深く刻まれた皺の奥から、静かな、しかし切実な眼差しで俺を見つめた。彼女から香るのは、雨に濡れた古い紙の匂い。そして、その奥に微かに、しかし確かに存在する、甘く切ない金木犀の香りだった。それは、俺が今まで嗅いだどの「忘れ香」とも違っていた。悲しみや後悔だけでなく、どこか温かい懐かしさのようなものが混じっている。その矛盾した香りに、俺の心は強く惹きつけられた。

「忘れたい記憶、ですか」

「ええ。もう何十年も、私を苦しめている記憶です。どうか、この記憶を消し去ってくれる香りを……」

千代の言葉は、まるで祈りのようだった。通常なら、丁重にお断りする依頼だ。香水は記憶を呼び覚ますことはあっても、消し去ることはできない。だが、俺は頷いていた。彼女の放つ、雨と金木犀の香りの正体を、どうしても知りたくなってしまったのだ。それは、俺の平穏な日常に落ちた、謎めいた一滴の雫だった。

第二章 雨と金木犀の残像

千代の依頼を引き受けてから、俺の試行錯誤の日々が始まった。彼女の「忘れ香」を打ち消すには、その香りの構造を正確に理解する必要がある。俺は、千代に何度も店へ足を運んでもらい、彼女と対話を重ねた。

「その記憶は、どんな記憶なのですか」と尋ねると、彼女はいつも窓の外に視線をやり、遠い目をした。

「……雨の降る日でした。大切な、本当に大切なものを、私の不注意で失わせてしまった……。若い頃の話です」

彼女が語る過去は、いつも断片的だった。愛した人がいたこと。その人との間に、決して埋めることのできない溝ができてしまったこと。そして、そのきっかけとなった雨の日の出来事。彼女は詳細を語ろうとはしなかったが、話すたびに、彼女から漂う雨と金木犀の香りは濃くなった。

俺は、実験室でフラスコを傾けながら、その香りを再現しようと試みた。パチュリで土の匂いを、シダーウッドで湿った木の匂いを。だが、どうしてもあの独特の「古い紙の匂い」が再現できない。そして、何よりも不可解なのは金木犀の香りだった。悲しい記憶の中に、なぜあんなにも甘く、温かい香りが存在するのか。

対話を重ねるうちに、俺は千代という人物に、少しずつ惹かれていった。彼女の物腰は柔らかく、その言葉には深い知性が感じられた。彼女は俺が調合する様々な香りに興味を示し、その一つ一つの物語に熱心に耳を傾けた。

「水月さんは、本当に香りを愛していらっしゃるのね」

「……ええ。香りだけが、嘘をつきませんから」

そう答えた時、千代は少し寂しそうに微笑んだ。その時、彼女からふわりと金木犀の香りが強くなった気がした。俺は、彼女の「忘れ香」に触れるたびに、胸の奥が締め付けられるような奇妙な感覚に襲われていた。それは単なる共感や同情ではなかった。まるで、自分自身の失われた一部に触れているかのような、既視感にも似た痛み。俺はこの感覚を、彼女への過剰な感情移入のせいだろうと思い込もうとしていた。

第三章 香りの在り処

数週間が経ち、香りの調合は最終段階に入っていた。俺は、千代の「忘れ香」の核心に迫るため、一つの賭けに出ることにした。彼女の記憶の香りを極限まで濃縮し、その本質を嗅ぎ分けるのだ。それは、他人の最も深い領域に踏み込む、危険な行為だった。

深夜の実験室。俺は、抽出した彼女の香りのエッセンスを染み込ませたムエット(試香紙)を、ゆっくりと鼻に近づけた。

まず、雨の匂い。そして、古い紙の匂い。そこまではいつもと同じだった。だが、さらに深く息を吸い込んだ瞬間――世界が歪んだ。

目の前に、光景が広がった。それは俺の記憶ではなかった。いや、俺の記憶のはずがなかった。

――雨が降っている。ガラス窓を叩く、優しい雨音。俺は、小さな子供だ。図書館の高い天井を見上げている。隣には、優しそうなお姉さんが座っている。彼女は俺に、一冊の絵本を読んでくれている。彼女の服から、ふわりと金木犀の甘い香りがする。彼女が栞として使っている、本物の金木犀の枝からだ。

「れいちゃん、このお話、面白い?」

「うん!」

俺は笑っている。幸せだった。両親がいて、この優しいお姉さんがいて、世界は完璧だった。

しかし、場面が切り替わる。激しい雨。サイレンの音。誰かの泣き声。俺は一人、知らない部屋にいる。さっきまで一緒にいたはずのお姉さんが、蒼白な顔で俺を見つめている。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい……ごめんなさい、れいちゃん……。私が、あの時、お父様と、お母様を……引き留めなければ……」

その瞬間、全てのピースがはまった。

雷に打たれたような衝撃と共に、封印されていた記憶の扉がこじ開けられる。あの雨の日、俺の両親は、俺を迎えに来る途中で事故に遭い、死んだ。俺を預かっていたのが、祖母の友人の娘だった、若き日の千代だったのだ。

俺が嗅いでいた「忘れ香」は、千代だけの記憶ではなかった。それは、千代が「水月少年から両親と幸せな記憶を奪ってしまった」という罪悪感の記憶であり、同時に、俺自身が「両親の死と、その原因となった大好きだったお姉さん」の記憶を封印した、俺自身の「忘れ香」でもあったのだ。雨の匂いは悲劇の記憶。古い紙の匂いは、彼女と過ごした図書館の記憶。そして金木犀は、彼女そのものの香りだった。

俺が感じていた懐かしさと痛みは、自分自身の失われた過去の残響だった。千代が忘れたかったのは、俺を傷つけた自分自身。そして俺は、その痛みに耐えきれず、彼女に関する全てを忘れてしまっていたのだ。

第四章 記憶のための香水

翌日、俺は震える手で新しい香水を調合した。もう、目的は変わっていた。「忘れるため」ではない。「記憶するため」の香りだ。

俺は、雨上がりの澄んだ空気を思わせるアクアノートを基調にした。そこに、湿った土の匂いを放つジオスミンを微かに加える。悲劇の記憶から逃げるのではなく、それを受け入れるための香り。そして、中心に置いたのは、最高品質の金木犀のアブソリュート。それは、罪悪感や悲しみではなく、彼女が俺にくれた、紛れもない優しさと温かさの記憶そのものだった。

数日後、完成した香水を持って、俺は千代の家を訪ねた。彼女は驚いた顔で俺を迎えた。

「水月さん、どうして……」

「千代さん。……ううん、千代お姉さん。全部、思い出しました」

俺の言葉に、千代の顔から血の気が引いた。彼女はわなわなと震え、崩れ落ちそうになる。

「……思い、出したの? ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!」

「謝らないでください」

俺は彼女の前に膝をつき、小さな香水瓶を差し出した。

「これは、忘れるための香水じゃありません。僕たちが、思い出すための香水です。そして……僕が、あなたを赦すための香りです」

千代は、信じられないという顔で俺と香水瓶を交互に見た。そして、おそるおそるそれを受け取り、蓋を開ける。ふわりと、雨上がりの空気と、優しい金木犀の香りが部屋に満ちた。それは、悲しみだけを洗い流し、温かい記憶だけをそっと掬い上げるような香りだった。

彼女の皺だらけの頬を、何十年分もの涙が伝っていく。それはもう、罪悪感の涙ではなかった。

俺の能力は、呪いではなかったのかもしれない。それは、誰かの痛みに寄り添い、見えない記憶の糸をたぐり寄せ、断ち切られた縁を再び結ぶための、ささやかな祝福だったのかもしれない。

店に戻った俺は、窓の外に降る雨を眺めていた。カウンターの上には、あの香水と同じ香りが静かに漂っている。悲しみと温かさが溶け合った、切なくも愛おしい香り。

俺はもう、人の心に触れることを恐れないだろう。忘れられた記憶の香りは、誰かと誰かを繋ぐ、見えない絆なのだから。そして、本当の感動は、忘れることの中にはなく、痛みと共に記憶し、それでもなお、人を赦そうとすることの中にこそあるのだと、俺は静かに知った。

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