モノクロームの共鳴

モノクロームの共鳴

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第一章 色のない世界と、音のない彼女

僕の世界は、色で溢れている。

満員電車の車内は、人々の焦燥が放つ濁った赤錆色と、倦怠の鉛色でむせ返っていた。上司に叱責され俯く若いサラリーマンの頭上には、屈辱のどす黒い紫が渦を巻き、スマートフォンの画面に咲くアイドルの笑顔に見惚れる女子高生からは、幸福な桜色が綿菓子のようにふわりと立ち上る。

僕は、物心ついた頃から他人の感情が「色」として見えた。怒り、喜び、悲しみ、嫉妬。あらゆる心の動きは、その人の周りにオーラのように揺らめき、僕にその正体を教えてくれる。便利だろうって? とんでもない。それは絶え間ないノイズであり、暴力的な情報の洪水だ。僕は他人の感情を理解はできても、共感はできない。ただ、そこに在る色を認識するだけ。まるで、天気予報を眺めるように。

そして何より僕を孤独にするのは、鏡に映る自分自身の姿だった。そこには何の色もない。空っぽのガラス玉のように、ただ透明なだけ。僕は自分の感情だけが分からない。嬉しいはずの場面でも、悲しいはずの出来事でも、僕の心はしんと静まり返り、モノクロームの映画のように色を持たない。僕は、僕自身の人生の、冷徹な傍観者だった。

そんな僕が、神保町の路地裏にある古書店『彷徨堂』で働き始めて、もう五年になる。埃とインクの匂いが染みついたこの場所は、僕にとって唯一のシェルターだった。古い本たちは、かつての持ち主の感情の残滓を淡く纏っているが、それは決して僕を苛むほど強くはない。静かな時間の堆積だけが、そこにはあった。

彼女が初めて店に現れたのは、木犀の香りが街角に漂い始めた秋の日の午後だった。

小柄で、栗色の髪を緩くまとめた女性。古びたワンピースの裾が、彼女の動きに合わせて静かに揺れていた。僕が他の客と同じように彼女の感情の色を読み取ろうとして、息を呑んだ。

何もない。

文字通り、何の色も見えなかったのだ。それは僕自身の空虚さとは違う。僕が「無色透明」なのに対し、彼女はまるでそこに光を吸収する黒い布があるかのように、一切の色を拒絶していた。感情が死んでいるのか? あるいは、僕の能力が通用しない、初めての人間なのか?

彼女は僕の視線に気づくと、ふわりと微笑んだ。その微笑みにさえ、色は灯らない。

「あの、すみません。絵本を探しているのですが」

その声は、澄んだ鈴の音のようだった。僕は我に返り、カウンターから腰を上げた。

「どんな絵本でしょう?」

「『色のない国』というタイトルです。古い本なので、ないかもしれませんが……」

『色のない国』。皮肉な偶然に、僕は内心で乾いた笑みを浮かべた。僕の世界そのものではないか。

その日から、彼女――水瀬栞さんは、週に二、三度、店を訪れるようになった。僕の世界で唯一、色のない人間。僕にとって彼女は、嵐の中の凪いだ海のように、不思議な安らぎを与えてくれる存在になっていった。

第二章 静寂の共鳴

栞さんと過ごす時間は、僕にとって特別な意味を持つようになった。

彼女はいつも、書棚の間をゆっくりと歩き、気に入った本の背表紙を指でそっと撫でる。その仕草には、本に対する深い愛情が滲んでいた。僕らは、特に身の上話をするわけではなかった。ただ、見つけた本の面白い一節を読み聞かせたり、窓から差し込む陽光が埃を金色に照らすのを、二人で黙って眺めたりした。

「相葉さんは、どうしてここで働いているんですか?」

ある日、カウンターで本の修繕をしている僕に、栞さんが尋ねた。彼女の手には、宮沢賢治の詩集が握られている。

「……静かだから、ですかね」

僕は曖昧に答えた。本当の理由など、言えるはずもない。街の喧騒も、人々の感情の色彩も、この場所では優しいグラデーションに変わる。そして何より、色のない彼女が隣にいれば、僕の世界からノイズが消え、心地よい静寂だけが残る。

「わかります。私も、ここの匂いが好きです。古い紙と、時間が熟成された匂い」

彼女はそう言って、深く息を吸い込んだ。その横顔は、まるで精巧な彫刻のように静謐で、美しい。僕は、彼女のその「色のなさ」の奥に、何か巨大で、僕には計り知れないものが隠されているような気がしてならなかった。

彼女が探している絵本『色のない国』は、なかなか見つからなかった。出版されたのが五十年以上前で、発行部数も少なかったらしい。僕は全国の古書店のネットワークを使い、彼女のためにその本を探し続けた。それはもはや仕事ではなかった。色のない彼女に、色のない国の物語を届けること。それが、色のない僕に与えられた、初めての使命のように感じられた。

ある雨の日、栞さんは珍しく、少しだけ悲しそうな顔をしていた。もちろん、僕には彼女の感情の色は見えない。だが、その僅かな表情の翳り、いつもより低い声のトーンが、僕にそう感じさせた。

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでもないです。ただ、雨の日は少しだけ、感傷的になりますね」

彼女は窓の外を流れる雨粒を見つめていた。その時、僕は気づいた。僕は彼女の感情を「見よう」とするのではなく、「感じよう」としている。他人の心を、色という視覚情報ではなく、気配や雰囲気で読み取ろうと試みている。それは僕にとって、初めての経験だった。

彼女といると、僕は少しずつ人間らしくなっていく気がした。モノクロームの世界に、微かな濃淡が生まれるような感覚。それはまだ色ではなかったが、確かな変化の兆しだった。

第三章 灰色の誕生

探し始めてから三ヶ月が経った冬の初め、ついにその絵本は見つかった。九州の小さな古書店に、一冊だけ眠っていたのだ。取り寄せた絵本は、表紙こそ色褪せていたが、中のページは驚くほど綺麗だった。

僕は逸る心を抑えながら、栞さんが店に来るのを待った。彼女が喜ぶ顔が見たい。その時、彼女からはどんな色が立ち上るのだろう。もしかしたら、僕が今まで見たこともないような、美しい色が。

夕暮れ時、栞さんはいつものように静かに店に入ってきた。

「栞さん、見つかりましたよ」

僕がカウンターの下から絵本を取り出すと、彼女は息を呑み、その瞳を大きく見開いた。そして、震える指先で、そっと絵本の表紙に触れた。『色のない国』という金色の箔押し文字が、西陽を受けてきらりと光る。

「……ありがとうございます。本当に、ありがとう」

彼女の声は、涙に濡れていた。僕は、その瞬間を待っていた。彼女の周りに立ち上るであろう、歓喜の色を。

しかし、何も現れなかった。彼女の世界は、静かなままだった。

失望、というわけではない。ただ、深い謎が僕の胸につかえた。

彼女は僕を店の外に誘った。近くの公園のベンチに座り、二人で絵本を開いた。それは、全ての色が失われたモノクロームの国で、一人の少女が自分の涙で花を濡らし、そこに最初の「青」が生まれるところから始まる物語だった。少女は自分の血でリンゴを「赤」く染め、笑い声でヒマワリを「黄」色に輝かせる。自らの感情と命を代償にして、世界に色を取り戻していく、切なくも美しい話だった。

ページをめくり終えた時、公園はすっかり夜の闇に包まれていた。

「私ね、もうすぐ死ぬんです」

栞さんは、凍てついた空を見上げながら、独り言のように言った。

僕は、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。彼女の言葉は、あまりにも平坦で、感情が乗っていなかったからだ。

「末期の病気で、余命はあと数ヶ月。ずっと、この絵本を探していました。私の人生みたいだなって、思っていたから」

彼女は静かに続けた。

「私の感情に色が見えなかったのは、たぶん、もう全部受け入れてしまっていたから。怒りも、悲しみも、喜びも、全部が大きな静寂の中に溶けて、凪いでしまっていたんだと思います。もうすぐ、私もこの世界から色が消える。この絵本の少女のように」

頭が、真っ白になった。いや、違う。何か、黒いものが思考を塗りつ潰していく。知識として「悲しい」出来事だと理解できる。だが、僕の心は相変わらず静かだ。そう、静かなはずだった。

なのに、どうしてだろう。胸の奥が、万力で締め付けられるように痛い。呼吸が苦しい。栞さんの顔が見られない。彼女が、いなくなる? この静寂をくれる人が? 僕の世界から、唯一の安らぎが?

その時だった。

僕の視界の隅に、ゆらり、と何かが立ち上った。

それは、今まで見たことのない色だった。重く、冷たく、深く沈んでいくような、鈍い光を放つ**灰色**。それは僕自身の内側から、まるで滲み出すように生まれていた。

「……ぁ」

声にならない声が漏れた。

これが、僕の色なのか。これが、僕の感情。

僕は、知識として知っていた。灰色は、絶望や深い悲しみの色だ。しかし、今、この胸の痛みと共に感じるこの色は、ただの記号ではなかった。それは紛れもなく、僕自身の魂の叫びだった。

栞さんが、心配そうに僕の顔を覗き込む。

「相葉さん……?」

僕は、生まれて初めて、自分の感情の色を見つめていた。それは絶望の色のはずなのに、なぜか、涙が出るほどに、その存在が愛おしかった。僕は、今、初めて「悲しい」という感情を、この身をもって知ったのだ。

第四章 僕のスペクトル

その日を境に、僕の世界は一変した。

僕の内側には、常に「灰色」が漂っていた。それは栞さんを失うことへの恐怖と、どうしようもない無力感から生まれた、悲しみの色だった。しかし、不思議なことに、その灰色は僕を苛まなかった。むしろ、それは僕が生きている証であり、僕が栞さんをどれほど大切に想っているかの証明のようだった。

僕らは、残された時間を慈しむように過ごした。二人で海を見に行ったり、プラネタリウムで星を眺めたり、ただ彷徨堂で熱い紅茶を飲みながら、とりとめのない話をしたり。

彼女のそばにいると、僕の灰色の世界に、時折、別の色が混じることに気づいた。彼女が僕の名前を呼ぶ時、その声の響きに呼応するように、胸の奥に**淡い金色**の光が灯る。彼女の冷たい手に僕が触れると、そこから温かい**蜜柑色**がじわりと広がる。

それは愛しさの色であり、幸福の色だった。悲しみの灰色を地色としながら、僕の心には、栞さんとの一瞬一瞬が、新たな色を加えていった。僕の感情は、もはやモノクロームではなかった。それは複雑で、繊細な色のグラデーションを持つ、僕だけのスペクトルだった。

春の訪れと共に、栞さんは静かに旅立った。

彼女のいなくなった彷徨堂は、がらんとして、あまりにも広く感じられた。窓から差し込む光は、以前と同じように埃をきらきらと照らしている。僕は一人、カウンターに座り、胸に広がる深い灰色をただじっと見つめていた。

涙は出なかった。ただ、その灰色が、彼女との思い出の金色や蜜柑色を優しく包み込んでいるのを感じていた。悲しみは消えない。でも、その悲しみがあるからこそ、他の感情の色がより一層鮮やかに輝くのだと、僕は知っていた。

数日後、僕は店の鏡に映る自分を見た。

そこにはもう、空っぽのガラス玉のような男はいなかった。僕の周りには、淡く、しかし確かな色のオーラが揺らめいていた。深い悲しみの灰色を基調としながらも、そこには栞さんとの思い出がくれた金色が輝き、これから生きていくことへの静かな決意を示すような**柔らかな水色**が、ゆっくりと混じり合っていた。

街に出ると、相変わらず世界は他人の感情の色で溢れていた。しかし、もはやそれは僕を苛むノイズではなかった。僕の内なる色と、外の世界の色が、時に反発し、時に共鳴し合い、一つの壮大なシンフォニーを奏でているように感じられた。

僕は栞さんを失った。しかし、彼女は僕に、世界で最も大切なものを遺してくれた。それは、痛みも、喜びも、全てを抱きしめて生きていくための、僕自身の「感情の色」だった。

僕は古書店の窓を開け、春の柔らかな風を胸いっぱいに吸い込む。風は、新しい季節の匂いを運んでくる。僕の世界は、これからも様々な色で満たされていくだろう。僕は、その全てを、この心で感じていく。

鏡の中の僕は、そこに確かな色が灯っているのを見て、静かに微笑んだ。それは、悲しみを知り、愛を知った、人間の微笑みだった。

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