第一章 雨夜の依頼人
江戸の町が卯の花腐し(うのはなくたし)の長雨に煙る、昼下がりのことであった。神田の裏通りにひっそりと佇む香房『朧月堂(ろうげつどう)』の主、朔(さく)は、沈香(じんこう)の欠片を小刀で削りながら、降りしきる雨音に耳を澄ませていた。店内に満ちる馥郁(ふくいく)とした香りが、湿った空気を浄化するように漂っている。
朔は、人より鋭敏すぎる嗅覚を持っていた。それだけではない。香りを深く吸い込むと、その香りに纏わる持ち主の強い感情が、幻となって脳裏に流れ込んでくるのだ。喜び、悲しみ、怒り、恋慕。奔流のように押し寄せる他人の感情は、若き朔の心をひどく消耗させた。故に彼は、香りの世界に深く潜ることで、生身の人間との関わりを避けるように生きていた。
その静寂を破ったのは、戸口にかけられた鈴の音だった。朔が顔を上げると、そこに一人の娘が立っていた。濡羽色(ぬればいろ)の髪を結い上げ、雨に濡れた薄紫の着物をまとった姿は、まるで雨の中に咲いた桔梗のようであった。年の頃は十六、七。武家の娘であろう、その佇まいには気品と、どこか近寄りがたい翳(かげ)があった。
「ごめんください。こちらで、望みの香りを作っていただけると伺いました」
透き通るような声だったが、その響きには固い決意が滲んでいる。朔は、客との長話は不得手だった。ましてや、こんなにも強い存在感を放つ相手は。
「……どのような香りを?」
「決して、忘れることのできない香りを」
娘の言葉に、朔は思わず手を止めた。忘れられない香り。それはあまりに曖昧で、そしてあまりに重い依頼だった。人の記憶ほど、儚く移ろいやすいものはない。それを香りで繋ぎ止めろというのか。
「お嬢様、それは…」
朔が断りの言葉を探していると、娘――小夜(さよ)と名乗った――は、懐から小さな布包みを取り出し、そっと朔の前に置いた。包みを開くと、中から現れたのは、親指ほどの大きさの、古びた白檀の香木だった。長い年月を経て、その表面は滑らかに磨耗している。
「これを、使っていただけないでしょうか」
朔は無言で香木を手に取った。その瞬間、彼の鼻腔を、穏やかで甘い白檀の香りが微かに掠めた。だが、その奥に何かがある。それは、言葉にできぬほどの深く、静かな悲しみの気配だった。まるで、底の見えない水面に映る月影のような、揺らぎのない哀切。
この感情は、目の前の娘のものか、それとも――。
「……お受けいたします」
気づけば、朔はそう答えていた。小夜の瞳の奥に宿る、揺るぎない覚悟に射抜かれたように。そして何より、この香木が秘める謎めいた感情の正体を、知らずにはいられないという衝動に駆られていた。朔の日常が、この雨の日の来訪者を境に、静かに軋み始めた瞬間だった。
第二章 白檀に宿る記憶
依頼を受けてから数日、朔は小夜の持ってきた白檀と向き合っていた。小夜は調香の様子を確かめるため、何度か朧月堂を訪れた。朔は、彼女の望む「忘れられない香り」の芯となる人物について、慎重に言葉を選びながら尋ねた。
小夜は、ぽつりぽつりと語り始めた。一年前、病でこの世を去った許嫁、榊原景虎(さかきばらかげとら)のこと。彼は有望な若侍で、文武に優れ、誰からも慕われる実直な人柄だったという。この白檀は、景虎が肌身離さず持っていた形見であった。
「あの方は、いつもこの白聞の香りをさせておりました。穏やかで、温かくて……まるで陽だまりのようなお方でした」
そう語る小夜の横顔は、遠い日を慈しむように和らいでいた。しかし、その瞳の奥には、朔が最初に感じた深い翳が、決して消えることなく澱んでいる。
朔は、彼女が帰った後、一人店に残った。工房に籠り、意を決して白檀の欠片を香炉にくべる。立ち上る白い煙を、ゆっくりと吸い込んだ。
甘く、清らかな香りが肺腑を満たす。目を閉じると、朔の意識は香りの記憶へと引きずり込まれていった。
――陽光が降り注ぐ縁側。力強い腕が、優しく誰かを抱きしめている。満ち足りた幸福感と、守るべき存在への深い愛情が、温かい奔流となって朔の心を駆け巡った。これが景虎の感情。小夜への想いに違いない。
しかし、幻視が深まるにつれ、その温かい感情の底流に、奇妙な不協和音が混じり始めるのを朔は感じた。それは、任務を前にした武士が抱く高揚感や緊張とは質の違うものだった。もっと暗く、粘りつくような「焦り」。そして、己の信じる正義が足元から崩れていくような「混乱」。
朔は幻視から覚め、ぜ、と息を吐いた。額には脂汗が滲んでいる。病で亡くなった男が抱くには、あまりに不可解な感情の澱(おり)だった。この香木は、何かを隠している。景虎の死には、表沙汰になっていない真相があるのではないか。
朔の心に、単なる調香師としての仕事を超えた探求心が芽生え始めていた。小夜のためだけではない。この香りに宿る、名もなき魂の叫びに、応えなければならない。そう強く感じていた。彼は再び小刀を手に取り、さらに深く、香木の芯へと刃を進めていく。まるで、閉ざされた記憶の扉を、少しずつこじ開けるかのように。
第三章 香りの告白
朔は調香を続ける中で、幾度となく景虎の感情を追体験した。小夜への愛おしさ、主君への忠誠心、そして、日に日に色濃くなる焦燥と混乱。それらの感情の断片を、様々な香料と組み合わせ、一つの香りにまとめ上げていく作業は、他人の人生を追体験するに等しい、精神を削る行為だった。
そして、運命の日が訪れる。朔はついに、白檀の最も中心、香りが凝縮された「芯」の部分に辿り着いた。これを削り、焚けば、この香木が記憶する最も強烈な感情が解き放たれるはずだ。朔は覚悟を決め、最後のひとかけらを香炉に落とした。
立ち上った煙は、これまでとは比べ物にならないほど濃密だった。朔がそれを吸い込んだ瞬間、世界がぐにゃりと歪み、強烈な幻視が彼を襲った。
――場所は、薄暗い社(やしろ)の中。景虎がそこにいた。彼はひどく憔悴し、何かにおびえるように周囲を警戒している。その手には、一巻の書状が握られていた。藩の不正を告発する密書だ。彼はこれを、江戸屋敷の重役に届けようとしていたのだ。
だが、彼の前に現れたのは、刺客ではなかった。雨に濡れた薄紫の着物。そこに立っていたのは、許嫁であるはずの、小夜だった。
「景虎様……どうか、それをお捨て下さい」
小夜は涙ながらに懇願している。彼女の父は、その不正の中心にいる重臣の一人だったのだ。父を告発すれば、家はお取り潰し。景虎を愛すればこそ、彼に罪人の娘という重荷を背負わせたくない。しかし、景虎は首を横に振る。
「それはできぬ。武士として、人の道として、見過ごすことは」
「ならば!」
小夜は、景虎の手から書状を奪い取ろうともみ合いになる。その時だった。景虎が、社の濡れた床に足を取られ、体勢を崩した。彼の身体が、背後にあった石灯籠の角に、強く、鈍い音を立てて打ち付けられる。
「あ……」
小夜の口から、声にならない声が漏れる。景虎の身体から力が抜け、ゆっくりと崩れ落ちていく。彼の瞳から光が消えていく瞬間、そこに宿っていたのは、小夜への憎しみではなかった。己の信念を貫けなかった無念。そして、愛する人を悲劇に巻き込んでしまったことへの、深い、深い「絶望」と「恐怖」。
朔は、喉の奥から込み上げる叫びを、必死でこらえた。幻視から解放された時、彼の頬を涙が伝っていた。
全てを理解した。小夜が作ってほしかった「忘れられない香り」とは、美化された思い出に浸るためのものではない。景虎を死に追いやった自分の罪。その瞬間の彼の絶望と、自らの愚かさを、永遠に魂に刻みつけるための「戒めの香り」だったのだ。彼女は、甘い追憶ではなく、消えない痛みを求めていた。
人の感情の、あまりの業の深さに、朔は立ち尽くすしかなかった。香りは、時に甘美な嘘をつき、時に残酷すぎる真実を突きつける。これまで自分が逃げてきた人の心の深淵を、まざまざと見せつけられた気がした。
第四章 忘れじの残り香
数日後、完成した香を携え、小夜が朧月堂を訪れた。朔は無言で、白漆(しらうるし)の小さな香合を彼女の前に差し出した。小夜は、震える手でその蓋を開ける。
ふわりと立ち上った香りは、景虎を思わせる白檀の温かい甘さを基調としていた。しかし、その奥には、心を締め付けるような竜胆(りんどう)の苦みと、雨に打たれた土のような、冷たく湿った匂いが潜んでいる。それは、景虎の純粋な愛情、彼の抱いた正義、そして最期の瞬間の絶望と無念、さらには、それを受け止めた小夜の深い後悔と贖罪の祈り――その全てが複雑に絡み合い、一つの物語を紡ぎ出す香りだった。
小夜は目を閉じ、その香りを深く吸い込んだ。彼女の美しい顔が、苦痛と安堵の入り混じった表情に歪む。やがて、その白い頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちた。
「……ありがとうございます、朔様」
目を開けた彼女の瞳は、不思議なほど澄み切っていた。深い悲しみの翳は消え、全てを受け入れた者の静謐な光が宿っている。
「これで、私はようやく、あの方と共に生きていけます。この痛みを、あの方の心を、この胸に抱いて」
彼女は罪を忘れるのではない。許されるのでもない。ただ、その全てを背負い、それでも前を向いて生きていく覚悟を決めたのだ。深々と頭を下げ、小夜は静かに店を去っていった。
一人残された朔は、工房に残る香りの余韻に、しばらく身を浸していた。それは、ただ悲しいだけの香りではなかった。苦しみや後悔の奥底に、確かに存在した愛の記憶と、これからを生きていこうとする人間の、か弱くも気高い決意の香りが、微かに混じり合っていた。
朔はふと、窓の外に目をやった。雨はとうに上がり、西の空が茜色に染まっている。これまでただの景色としてしか見ていなかった江戸の町並みが、今は違って見えた。あの家にも、この道を行き交う人々にも、一人一人に、それぞれの物語があり、喜びや悲しみの「香り」がある。それは時に人を傷つけ、迷わせる厄介なものかもしれない。だが、同時に、人を支え、繋ぎ、明日へと向かわせる力にもなるのだ。
香りの世界に閉じこもり、他人の感情から逃げていた青年は、もうそこにはいなかった。人の心の痛みと尊さを知った彼は、その複雑な香りを恐れるのではなく、深く味わうことができるようになっていた。
朧月堂に満ちる残り香は、やがて消えゆくだろう。しかし、朔の心に刻まれたこの物語の香りは、彼のこれからの人生を照らす、忘れじの道しるべとなって、いつまでも残り続けるのだった。