墨喰らいの硯

墨喰らいの硯

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第一章 墨痕に宿る願い

江戸の片隅、神田川の淀んだ水面を映すように、宗助の工房はひっそりと佇んでいた。彼は硯(すずり)職人だった。先代である父から受け継いだその腕は確かで、彼が端然と彫り上げる硯は、どの墨匠からも「墨の下りが違う」と賞賛された。だが、宗助の作る硯には、誰にも語らぬ秘密があった。

その日、工房の戸を叩いたのは、雨に濡れた雀のように痩せた娘だった。千代と名乗る娘は、震える手で小さな布袋を差し出した。中には、彼女が幾月もかけて貯めたであろう、僅かばかりの銭が入っている。

「どうか、このお金で硯を一つ。一番小さなもので構いませぬ」

その声は、か細くとも芯があった。宗助は無言で娘を見つめる。その瞳の奥には、切実な光が揺らめいていた。

「妹が、長らく病に伏せっておりまして。薬師様も匙を投げられ……。せめて、仏様に快癒を願う文を、美しい文字で届けたいのです」

宗助の胸が、ちりりと痛んだ。彼の作る硯は、ただの硯ではない。そこで磨られた墨で書かれた文字は、時折、現実を僅かに歪めるのだ。強い願いが込められれば込められるほど、その力は増す。だが、代償がある。硯は、願いを叶えるために、書き手の記憶を喰らうのだ。最も大切で、鮮やかな記憶の一片を。

「……やめておけ。気休めにしかならん」

宗助は、わざと突き放すように言った。娘を、この呪われた奇跡から遠ざけたかった。

しかし、千代は首を横に振った。「いいえ、気休めでも構いませぬ。妹のために、私にできることは、もう祈ることだけなのです」。その必死の形相に、宗助はかつての自分を重ねていた。数年前に姿を消した父を想い、夜ごと硯に向かい続けた自分を。

結局、宗助は小さな端渓(たんけい)の石塊から、手のひらに収まるほどの硯を彫り上げた。月光を吸い込んだような、静かな光沢を放つ硯だった。千代はそれを大切そうに胸に抱き、何度も頭を下げて去っていった。

宗助は、工房の暗がりで鑿(のみ)を握りしめた。石を削る冷たい感触だけが、己の罪を忘れさせてくれるようだった。

十日後、千代が妹の手を引いて工房に現れた。あれほど血の気のなかった妹の頬は、ほんのりと桜色に染まっている。

「宗助様! おかげさまで、妹の熱が嘘のように引いたのです。本当に、ありがとうございました」

屈託なく笑う千代を見て、宗助の心は安堵よりもむしろ、鉛のような重い予感に沈んだ。彼は努めて平静を装い、尋ねた。

「それは良かった。……妹御と、最近どこかへ出かけたりはしたか」

「ええ、昨日、十年ぶりに二人で川岸を散歩いたしました」

「十年ぶり?」

「はい。妹が言うのです。『姉様とこうして歩くのは、十年ぶりだね』と。でも、おかしいのです。私たちは、病になる前は毎日のように、あの岸辺で遊んでいたはずなのに……。なぜか、その頃のことが、霞がかったように思い出せないのです」

千代は不思議そうに首を傾げた。その無垢な瞳を見ることができず、宗助は俯いた。硯は、千代の願いを叶えた。そして代償として、病の妹と過ごした最も幸福だった日々の記憶を、墨と共に喰らったのだ。

「きっと、看病疲れだろう」

そう言って二人を帰した宗助の背中を、言いようのない虚しさが打ちのめしていた。人の幸福な記憶を犠牲にして、未来を捻じ曲げる。自分は、神でも仏でもない。ただの、呪われた道具を作る職人に過ぎないのではないか。その疑念が、彼の心を深く、暗く蝕み始めていた。

第二章 権勢の影、父の面影

宗助の硯がもたらす奇跡の噂は、ごく一部の人々の間で、囁き話のように広がっていった。そしてある晩秋の夕暮れ、彼の工房に、場違いなほど豪奢な駕籠が乗りつけられた。現れたのは、藩の用人である倉田という男だった。顔に刻まれた深い皺は、彼の老獪さを物語っている。

「硯職人の宗助と見受ける。お主の父、宗一郎殿には、昔世話になった」

倉田は値踏みするような目で工房を見回し、単刀直入に本題を切り出した。

「我が嫡男が、藩の跡目争いに巻き込まれておる。才覚では甥に劣り、このままでは家が乗っ取られるやもしれぬ。そこで、お主の力を借りたい。運命を覆すほどの、最高の硯を作ってはくれぬか」

その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。宗助は即座に首を横に振った。

「お断りいたします。私はただの硯職人。人の運命を左右するような大それたものは作れませぬ」

「しらを切るな。お主の硯が持つ力については、調べがついている」

倉田の目が、鋭く光る。「お主の父、宗一郎がなぜ姿を消したか、知りたくはないか?」

その一言は、宗助の心の奥深く突き刺さった。父の失踪は、彼の唯一の未練であり、癒えぬ傷だった。腕利きの職人だった父が、ある日、愛用の道具と共に忽然と姿を消した。病か、事故か、それとも――。

「……父のことを、何かご存知なのですか」

「無論だ。協力するならば、すべてを話してやろう」

倉田の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。それは、宗助の弱みを見透かした、狡猾な蜘蛛の笑みだった。

父の行方を知りたい。その一心で、宗助は倉田の要求を呑んだ。それは、自らが最も恐れていた、力の解放を意味した。彼は工房に籠もり、父が遺した中で最も上質とされる『龍眼石(りゅうがんせき)』に鑿を入れた。石の表面に浮かぶ、瞳のような模様が、まるで宗助の葛藤を覗き込んでいるかのようだ。

鑿を打つ音だけが、夜の静寂に響く。一打ちごとに、父の面影が脳裏をよぎった。「宗助、道具は心で使え。石の声を聞け」。優しかった父の声。なぜ、自分を置いて消えたのか。その答えが、この硯の先にあるのならば。

迷い、苦しみ、それでも宗助の手は止まらなかった。彼は持てる技術のすべてを注ぎ込んだ。石を削る音は、やがて彼の嗚咽と区別がつかなくなった。

数日後、硯は完成した。深い闇を湛えた水面に、龍の瞳が浮かび上がるような、見る者を畏怖させる硯だった。それは、もはや単なる道具ではなく、人の欲望を吸い尽くす呪物のように見えた。

倉田は完成した硯を手に、満足げに頷いた。

「これで、我が家の安泰は約束された。礼を言うぞ、宗助」

「……父の、ことを」

「案ずるな。事が成就した暁には、約束通り話してやろう」

倉田はそう言い残し、夜の闇へと消えていった。

宗助は、空になった作業台を見つめ、呆然と立ち尽くす。自らの手で、とんでもないものを世に放ってしまった。後悔が、冷たい水のように足元から這い上がってきた。だが、もう引き返すことはできなかった。

第三章 砕かれた硯、残された心

数日後、城下は騒然となった。倉田の嫡男と跡目を争っていた甥が、落馬事故で起居もままならぬ身になったという。これで跡目争いは決着し、倉田家の権勢は盤石のものとなった。願いは、あまりにも完璧に成就したのだ。

その夜、倉田が再び宗助の工房を訪れた。しかし、その顔に勝利の輝きはなかった。むしろ、深い絶望に彩られている。

「……約束通り、父上のことを話そう」

倉田は、重い口を開いた。彼の後ろには、嫡男の姿があった。しかし、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちた人形のようだった。

「硯の力は、凄まじかった。だが、代償もまた……。息子は、跡目を手にすると同時に、私に関する一切の記憶を失ったのだ。この私を、父であるこの私を、まるで見知らぬ人間を見る目で眺めるのだ!」

倉田の慟哭が、工房に響き渡った。宗助は息を呑んだ。硯は、嫡男が最も拠り所としていたであろう、父親との絆の記憶を根こそぎ喰らったのだ。

そして、倉田は衝撃の事実を語り始めた。

「お主の父、宗一郎もまた、この『記憶を喰らう硯』を作れる唯一の職人だった。彼は、先代藩主の命で、究極の硯を作らされたのだ」

先代藩主は、病で亡くした一人娘を生き返らせたいと願った。常軌を逸した願いだ。宗一郎は、その狂気に満ちた願いを叶える硯を、命じられるままに作った。

「その硯は、藩主一人の記憶では飽き足らず、関わった者全ての記憶を喰らい始めた。娘様が生きていたという『歴史』を捏造するために、家臣たちの記憶から、娘様の死の事実を消し去っていったのだ。歴史そのものを書き換えかねん、恐るべき代物だった」

父は、自らが作り出した物の恐ろしさに気づいた。そして、その硯と設計図を奪い、誰にも見つからぬよう姿を消した。それが、失踪の真相だった。

「わしは、その力の存在を知り、ずっとお主を監視していた。父の技術を受け継いだお主ならば、再びあの硯を作れるとな。父君は力を封じるために逃げ、わしは力を欲して、その息子を利用した。ただそれだけのことよ」

全てが繋がった。父は、逃げたのではなかった。守ろうとしたのだ。人の記憶という、かけがえのないものを。そして自分は、父の意志を踏みにじり、同じ過ちを犯してしまった。

絶望が、宗助の全身を貫いた。彼はゆっくりと立ち上がると、作業台に残っていた作りかけの硯を手に取った。そして、躊躇なく床の石畳に叩きつけた。甲高い音と共に、美しい石は無残に砕け散る。

宗助は、次々と棚にある鑿や砥石を手に取り、破壊し始めた。

「……もう、何も作りはしない」

その声は、静かだが、鋼のような決意に満ちていた。

「願いは、人の手で、心で、汗で叶えるものだ。記憶という魂を売って得る未来に、価値などありはしない。父が守ろうとしたものを、私が壊すわけにはいかない」

呆然と立ち尽くす倉田と、虚ろな目をしたその息子を残し、宗助は工房に火を放った。長年使い込まれた木材は、ごうごうと音を立てて燃え上がり、彼の過去と罪を浄化していくようだった。

数日後、焼け跡に宗助の姿はなかった。彼は、名もなき旅人として、どこかへ去った。父を探す旅なのか、それとも、自らの業を償うための巡礼なのか、誰にも分からない。

旅立ちの朝、宗助は遠巻きに、小さな人影を見た。病が癒えた妹と、その手を引く千代だった。千代は、記憶の霞の向こうにある宗助の顔を、もう思い出せないのかもしれない。それでも、妹と笑い合う彼女の姿は、紛れもなく幸福そのものだった。

失われた記憶の上にも、新たな日々は築かれていく。その光景を胸に焼き付け、宗助は歩き出した。彼の背負う影は、まるで墨で描かれたように、冬枯れの道に長く、長く伸びていた。人の願いの重さと、記憶の尊さを、その身に刻み込みながら。

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