歌垣の境界線

歌垣の境界線

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第一章 静寂の尋問室

鉄の扉が軋み、冷たい空気がリョウの首筋を撫でた。地下にあるその尋問室は、湿った土と消毒液の匂いが混じり合い、まるで墓所のような静寂に満たされている。中央に置かれた粗末な木製の椅子に、痩せた男が一人座っていた。東国連合の軍服は泥に汚れ、所々が引き裂かれている。捕虜だ。リョウは言語学者として、この戦争が始まって以来、数えきれないほどの尋問に立ち会ってきた。

「始めろ」

上官であるサカキ大尉が、壁際で腕を組みながら低い声で命じた。リョウは頷き、捕虜の前に置かれたマイクに向かって、淀みなく東国語を紡ぎ出す。長年、彼の情熱の全てを注ぎ込んできた、美しく複雑な言語だ。

「名前と所属部隊を。抵抗は無意味だ。話せば、相応の待遇を約束する」

しかし、捕虜の反応はいつもと同じだった。虚ろな目でリョウを見つめ、乾いた唇から漏れ出てくるのは、意味をなさない音の羅列。それは、喉の奥でくぐもった摩擦音や、舌を奇妙に弾く破裂音の連続であり、リョウが知る東国語のどの単語、どの文法にも当てはまらなかった。まるで、鳥の鳴き声と岩が擦れる音を無理やり混ぜ合わせたような、不快な響きだった。

「またか。こいつら、何を話しているんだ」サカキ大尉が苛立たしげに舌打ちする。「最新の暗号体系か、あるいは自白防止の薬物か。リョウ君、何か分からないのか。君が我が国随一の東国語研究者だろう」

「……申し訳ありません、大尉。これは……言語ではありません。少なくとも、私が知る限りでは」

リョウは嘘をついた。彼の耳は、あの無意味に聞こえる音の洪水の中に、微かな、しかし確かな秩序を感じ取っていた。音の高さの揺らぎ、繰り返されるリズム、そして何よりも、その響きに乗せられた剥き出しの感情。それは絶望であり、恐怖であり、そして諦観だった。彼の言語学者としての直感が、これは単なる暗号ではないと叫んでいた。これは、言葉が「壊れた」姿なのだと。だが、そんな非科学的な憶測を口にすれば、狂人扱いされるのが関の山だった。

数ヶ月前、東国との国境線で始まった小競り合いは、瞬く間に全面戦争へと発展した。そして、その開戦とほぼ時を同じくして、奇妙な現象が報告され始めた。東国の通信が、ある日を境に一切解読不能になったのだ。捕虜の言葉も、まるで示し合わせたかのように、この意味不明の「音」へと変わってしまった。

軍上層部はこれを、東国が開発した恐るべき音響暗号だと結論づけた。だがリョウには、どうしてもそうは思えなかった。あれは、意思疎通を目的とした暗号などではない。もっと根源的な、コミュニケーションそのものが崩壊した果ての残骸のように聞こえた。

尋問は成果なく終わった。連行されていく捕虜の背中を見送りながら、リョウは掌にじっとりと滲んだ汗を握りしめた。彼の世界は、音と意味で構築されていた。その土台が、今、足元から静かに崩れ始めているような、底知れぬ不安に襲われていた。この戦争の本当の敵は、東国の軍隊ではないのかもしれない。我々がまだ名前さえ知らない、もっと巨大で不条理な何かなのではないか。その予感が、鉛のように彼の胸に沈み込んでいた。

第二章 失われた音の系譜

リョウは軍の資料室の奥深く、埃と古紙の匂いが充満する書庫に籠もるようになった。公式な暗号解読任務の傍ら、彼は独力でこの謎の現象を追い続けていた。彼の仮説は単純かつ突飛だった。「言葉が、病にかかったのではないか」。

彼は専門である言語学の領域を超え、両国の歴史、民俗学、果ては神話の領域にまで調査の範囲を広げた。両国は遠い昔、一つの文化圏を共有していた。その名残は、国境地帯の地名や古い風習に今も色濃く残っている。リョ-ウは、そこに手掛かりがあるはずだと信じていた。

書庫の片隅で、彼は一冊の古びた本を見つけ出した。『辺境風土記』と題されたその本には、国が二つに分かれる以前の、古い伝承や歌が記録されていた。ページをめくる指が、ある記述の上で止まる。

「『音喰らい』の伝承。山に棲む古きモノは、人の言葉を喰らうという。喰われた者は、意味ある言葉を紡ぐ術を失い、ただ獣のような唸り声を上げるのみとなる。されど、その魂が歌を忘れぬ限り、救いはある。歌垣にて旋律を交わし、心を繋ぎとめるべし」

歌垣(うたがき)。古代、男女が求愛の歌を詠み交わしたという風習だ。言葉ではなく、歌。旋律に感情を乗せて伝え合う、原始的なコミュニケーション。リョウの心臓が、大きく脈打った。

彼はすぐに、押収された東国の通信記録のアーカイブにアクセスした。解読班の誰もが匙を投げた、無秩序な音の奔流。リョウはそれを、言語としてではなく、「音楽」として聴き始めた。何十時間も、何百時間も。ヘッドフォンが耳に食い込み、感覚が麻痺しそうになる頃、彼はついに気づいた。

単調に聞こえるノイズの中に、確かに存在する「旋律」の断片を。それは西洋音楽の音階とは全く異なる、微分音を多用した複雑なものだったが、そこには間違いなく法則性があった。特定の感情……例えば、警戒、安堵、あるいは攻撃命令といった単純な意思が、それぞれ固有の短いメロディ・パターンと結びついているようだった。

彼らは話しているのではない。歌っているのだ。言葉という精緻な記号体系を失った彼らが、唯一残された伝達手段――感情の直截的な表現である「音楽」に回帰しているのだ。

リョウは自分の発見に震えた。だが、同時に深い絶望感に襲われた。これをサカキ大尉に、軍上層部にどう説明すればいい?「敵は歌っている」などと進言したところで、一笑に付されるだけだろう。むしろ、敵に与する狂人として拘束されかねない。

彼の内面で、学者としての探究心と、軍人としての義務感が激しく衝突していた。真実を明らかにしたい。しかし、その真実は、この戦争の前提そのものを根底から覆してしまう。これは、意思疎通が可能な敵との戦いではない。言葉を奪われ、互いを理解する術を失った者同士の、悲劇的な誤解の連鎖なのではないか。

その夜、リョウは夢を見た。広大な荒野で、無数の人々が互いに向かって意味のない音を発し続けている。その声は誰にも届かず、空しく響き渡るだけ。静かな地獄のような光景だった。

第三章 荒野に響く子守唄

好機は、思いがけない形で訪れた。最前線で新たに捕らえられた、まだ若い東国の兵士。彼は負傷しており、高熱にうなされていた。リョウは、治療という名目で、彼と二人きりになる時間を得た。

兵士は、意識が朦朧としながらも、絶えず何かを呻いていた。例の、意味をなさない音だ。だが今回は、苦痛と恐怖に満ちたその響きの中に、リョウは聞き覚えのある旋律の断片を見出した。それは、幼い頃、今は亡き祖母がよく歌ってくれた子守唄によく似ていた。その歌は、国が分かれるよりもずっと昔から、この土地に伝わるものだと聞かされていた。

リョウは息を呑んだ。これは賭けだ。しかし、試す価値はあった。

彼は意を決し、震える声でその子守唄を歌い始めた。彼の歌は決して上手ではなかったが、一音一音に、祖母の温もりと、失われた平和への祈りを込めた。

「眠れ、眠れ、我が愛し子よ…山の鳥も、川の魚も…皆、お前を見守っている…」

歌声が、湿った地下室に静かに響き渡る。すると、奇跡が起きた。

呻き続けていた兵士が、ぴたりと静かになった。彼はゆっくりと目を開け、驚愕に染まった表情でリョウを見つめた。その瞳から、堰を切ったように大粒の涙が流れ落ちた。そして、途切れ途切れに、震える唇で、彼は歌い返してきたのだ。

それは、リョウが歌った子守唄の続きの旋律だった。しかし、その歌詞は、本来の優しいものではなかった。彼が歌う旋律に乗せられていたのは、故郷を思う悲しみ、家族を案ずる苦しみ、そして、なぜ戦わなければならないのかという、痛切な問いかけだった。言葉の意味は分からない。だが、旋律が運ぶ感情は、痛いほどリョウの胸に突き刺さった。

二人の間に、初めて「対話」が成立した瞬間だった。言葉ではなく、歌による対話が。

その時、扉が乱暴に開け放たれ、サカキ大尉が数人の兵士と共に踏み込んできた。リョウと捕虜が「歌い合っている」異様な光景に、大尉は眉をひそめた。

「リョウ君、何を…」

「大尉! 聞いてください! これは暗号じゃない! 彼らは言葉を失ったんです! でも、歌なら…歌なら通じるんです!」

リョウは必死に訴えた。だが、その直後、通信兵が血相を変えて駆け込んできた。

「た、大変です! 西部の第三監視所からの定時連絡が途絶! 直前の通信音声は……解読不能! まるで、東国のような…!」

部屋中の空気が凍りついた。リョウは悟った。恐れていたことが、ついに現実になったのだ。言葉の病は、敵国だけのものではなかった。それは国境線を越え、今や自国をも蝕み始めていた。この戦争は、領土を奪い合う戦いではない。互いの「言葉」が失われていく中で、恐怖に駆られた者同士が、意思の疎通ができない相手をただ排除しようとしているだけの、巨大なパニックだったのだ。そしてその引き金は、おそらく両国が極秘に進めていた、人間の認識に干渉する新型音響兵器の実験失敗によるものだろう、と彼は直感した。

サカキ大尉の顔から血の気が引いていた。彼はリョウの腕を掴み、絞り出すような声で言った。

「…君の言うことが、本当なら…我々は何と戦っているんだ…?」

その問いに、リョウは答えることができなかった。ただ、涙を流し続ける若い敵兵の姿を、呆然と見つめるだけだった。

第四章 歌い手の旅立ち

その日を境に、リョウの世界は完全に変わった。彼はもはや、軍の命令に従う一介の言語学者ではいられなかった。この狂った戦争を止めるために、自分にしかできないことがある。そう確信していた。

彼は数日をかけて、密かに準備を進めた。彼の発見を裏付ける全ての資料――通信記録の音声解析データ、古文書の写し、そして何よりも、あの若い兵士と子守唄で対話した際の録音。それらを小さなカバンに詰め込んだ。

軍を抜けることは、敵前逃亡を意味する。捕まれば、即刻銃殺刑だろう。だが、彼に迷いはなかった。このまま戦いを続ければ、両国は言葉を失い、互いを理解する術を永遠に失ったまま、共倒れになるだけだ。

月が雲に隠れた、風の強い夜。リョウは基地のフェンスの綻びから、闇の中へと滑り出した。目指すは、どちらの国にも属さない中立地帯にある、国際学術機関の本部だ。そこにいる碩学たちならば、この現象を政治や軍事のレンズを通さずに、純粋な人類の問題として捉えてくれるかもしれない。微かな、しかし唯一の希望だった。

背後で、基地の喧騒が遠ざかっていく。荒野に吹きすさぶ風が、まるで誰かの嘆きのように耳元を通り過ぎていった。孤独と恐怖が、冷たい手のように心臓を鷲掴みにする。彼は本当に、たった一人でこの巨大な悲劇に立ち向かえるのだろうか。

ふと、彼の足が止まった。彼は空を見上げ、乾いた唇から、自然とあの歌が漏れ出た。

「眠れ、眠れ、我が愛し子よ…」

それは、敵兵に歌いかけた子守唄だった。しかし今、この歌は、敵のためでも味方のためでもなかった。言葉を失い、恐怖に怯え、それでもなお誰かと繋がりたいと願う、この世界に生きる全ての人々への祈りの歌だった。

彼の歌声は、風に乗り、夜の荒野へと静かに溶けていく。それが誰かに届くのか、世界を変える力になるのか、彼には分からない。しかし、彼は歩き続けた。歌い続けた。

たとえ言葉が滅びようとも、歌がある限り、人の心は繋がれる。その信条だけを道標に、一人の言語学者は、新たな言葉を探すための、果てしない旅へと踏み出したのだった。

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