灰色の残像と緋色の告白

灰色の残像と緋色の告白

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第一章 緋色の残響

世界から色彩が剥がれ落ちて、もう五年になる。俺、刳沢(くりさわ)蓮の網膜が捉えるのは、光と影が織りなす無限階調の灰色だけだ。かつて、カンヴァスの上に感情という名の絵の具をぶちまけていた画家は死んだ。今の俺は、他人の心の澱(おり)を覗き込む探偵という、色のない職業で生き長らえている。

その日、俺が足を踏み入れたのは、有名なピアニスト・月村響子の惨殺現場だった。警察からの非公式な協力依頼。彼らが俺のような変わり者に声をかけるのは、捜査が行き詰まった証拠だ。重厚なマホガニーの扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。防音の施された音楽室は、完璧な静寂に支配されている。グランドピアノの傍らに、白いドレスを纏った月村響子が倒れていた。ドレスも、床も、壁も、すべてが濃淡の異なる灰色。いつも通りの、死がもたらす無機質な風景だ。

刑事の説明を右から左へ聞き流しながら、俺は現場を観察する。密室殺人。鈍器による後頭部への一撃。凶器は見つかっていない。容疑者は三人。彼女の才能に嫉妬する一番弟子の若者、長年のライバルだったヴァイオリニスト、そして、彼女の音楽を誰よりも愛していたという夫。ありふれたミステリーの配役だ。

俺はゆっくりとピアノに近づいた。黒と白の鍵盤。それは、俺の世界では黒と灰色のグラデーションに過ぎない。月村響子の指先が、最後の瞬間まで触れていたであろう鍵盤に、そっと視線を落とした。

その瞬間、息が止まった。

あり得ないものが、そこにあった。

いくつかの鍵盤の上に、まるで陽炎のように揺らめく光の残像。それは、色を持っていた。鮮烈な、燃えるような「緋色」。五年ぶりに見る、初めての色。それは血のような粘性はなく、むしろ純粋な光の粒子が集まって形を成しているように見えた。緋色の残響は、無音の部屋で、俺にだけ聞こえる悲鳴のように明滅していた。

「……刳沢さん? どうかしましたか」

背後からの声に、俺は我に返った。振り返ると、怪訝な顔をした刑事が立っている。

「いや、何でもない」

俺は平静を装い、再び鍵盤に目を戻す。だが、緋色の光はもうどこにもなかった。幻だったのか? 脳が作り出した、過去の記憶の残滓か。しかし、あの網膜を焼くような鮮やかさは、決して気のせいではなかった。

灰色の世界に穿たれた、小さな穴。そこから漏れ出す緋色の光は、この退屈な事件が、俺にとって特別な意味を持つことを予感させていた。五年前に失ったはずの世界への扉が、今、目の前で静かに軋みを上げた気がした。

第二章 藍色の嘘

緋色の残像は、それきり現れなかった。俺は容疑者たちへの聞き込みを開始したが、皆一様に悲しみの仮面を被り、その裏に隠した本心を見せようとはしない。一番弟子の青年は、師の死を悼みながらも、その瞳の奥に野心の火をちらつかせていた。ライバルのヴァイオリニストは、好敵手を失った虚無感を語りながら、どこか安堵したような表情を浮かべていた。そして夫である月村正隆は、憔悴しきった様子で、ただ妻の思い出を訥々と語るだけだった。誰もが怪しく、誰もが犯人ではないように思えた。

捜査が手詰まりになりかけた三日後の夜、第二の事件が起こった。月村響子のライバルだったヴァイオリニスト、霧島朔也(きりしまさくや)が、自室で死体となって発見されたのだ。現場に駆けつけた俺の目に飛び込んできたのは、窓辺の椅子に深く腰掛け、愛用のヴァイオリンを抱いたまま息絶えている霧島の姿だった。第一発見者は、約束の時間に来ないことを心配したマネージャー。外傷はなく、警察は服毒自殺の線で考えているようだった。

部屋には、ほのかに甘い香りが漂っている。テーブルの上には、飲み干されたワイングラスと空の小瓶。そして、一輪の青い薔薇が手向けのように置かれていた。

「また、あんたの出番じゃないかもしれんが……」

刑事が気まずそうに言う。だが、俺は彼の言葉を聞いていなかった。俺の目は、別のものに釘付けになっていたからだ。

霧島の、わずかに開かれた唇。そこから吐息のようにこぼれ落ち、彼の胸元で淡く揺らめいている光があった。

深い、海の底を思わせる「藍色」。

それは緋色とは対照的に、静かで、どこまでも沈んでいくような悲しみの色だった。まるで、彼の魂が最後に奏でた音色が、色となって可視化されたかのようだった。

「緋」と「藍」。二つの事件、二つの色。これらは偶然ではない。俺の脳が見せるただの幻覚でもない。被害者たちが死の間際に抱いた、強烈な感情の残滓。俺は、そう直感していた。緋色は、月村響子の激情か、あるいは怒りか。藍色は、霧島朔也の絶望か、悲嘆か。

俺は自分の失われた過去と向き合わざるを得なかった。画家だった頃、俺は感情を色で表現することに憑かれていた。喜びは黄色、悲しみは青、怒りは赤。だが、ある事故を境に、俺は感情そのものと一緒に、色を認識する能力を失ったのだ。世界は安全な灰色になったが、同時に俺の心も死んだ。

この奇妙な能力は、呪いか、それとも救いか。事件の真相を追うことは、同時に、俺が失ったはずの感情のパレットを、もう一度こじ開ける行為に他ならなかった。藍色の光が静かに消えていくのを見つめながら、俺は震える手で煙草に火をつけた。煙さえも、ただの灰色の濃淡に過ぎなかった。

第三章 無色の真実

二つの色を手がかりに、俺は思考を再構築した。これらは超常現象ではない。必ず、論理的な説明がつくはずだ。俺は月村響子の夫、月村正隆に再び会うことにした。彼は高名な脳科学者でもある。何かわかるかもしれない。

彼の研究室を訪ねると、正隆はやつれた顔で俺を迎えた。部屋は膨大な資料と機材で埋め尽くされている。俺は単刀直入に切り出した。

「奥さんは、何か特別な薬を服用していませんでしたか?」

彼の肩が、わずかに震えた。図星だった。観念したように、彼は重い口を開いた。

「……なぜそれを」

「教えてください。それが、事件の核心に関わっている」

正隆はしばらく黙り込んだ後、一つのファイルを俺に差し出した。そこには『共感覚誘発剤(シナスタジア・インデューサー)に関する臨床報告』と記されていた。

「響子は……私の被験者だった」

彼の告白は、衝撃的なものだった。彼は音に色を感じる「色聴」という共感覚を人工的に発現させる薬を開発していた。そして、その薬を妻に投与し、彼女の奏でるピアノの音が、どのような色彩として見えるのかを観察していたのだ。

「彼女の音楽は、私の目には壮大な絵画のように見えた。ドの音は純粋な白、ファのシャープは燃えるような緋色、ラのフラットは憂鬱な藍色……。私は、彼女の才能を、私だけが見ることのできる芸術として独占したかったんだ」

彼の歪んだ愛情が、悲劇を生んだ。薬の副作用で、響子の精神は次第に不安定になっていった。幻覚と現実の区別がつかなくなり、音楽に追い詰められていった。

事件当日、彼女は薬を過剰に摂取し、錯乱状態に陥った。そして、自らピアノに頭を強く打ち付け、命を落とした。事故死だった。

「緋色」の残像は、彼女が死の間際に見ていた音の色だったのだ。おそらく、情熱的な、あの緋色に対応する音階を、彼女は最後の力で奏でようとしていた。その強烈な精神エネルギーが、死後も残留し、同じように色を失った俺の脳にだけ、共鳴したのだ。

「私は……彼女の死を受け入れられなかった。彼女の才能が、こんな形で終わるなんて。だから、私は偽装した。彼女が誰かに殺されたのだと、そう思いたかったんだ」

夫は、凶器を隠し、密室を演出した。すべては、偉大な芸術家である妻の死を、くだらない事故から守るための、身勝手な芝居だった。

では、霧島朔也の「藍色」は?

「彼も、響子から薬を分けてもらっていたようだ」と正隆は言った。「彼は自分の音楽に限界を感じていた。響子のように、音に色を見ることで、新たな境地が開けると思ったのかもしれない。だが、彼には耐えられなかった。響子の死を知り、絶望した彼は、自ら薬を呷り、悲しい調べを頭の中で鳴らしながら……逝ったのだろう」

第二の事件は、連鎖した悲劇に過ぎなかった。犯人など、最初から存在しなかったのだ。あるのは、才能を愛しすぎた男の狂気と、才能に苦しんだ芸術家たちの哀れな末路だけだった。俺が追いかけていたのは、殺人犯の影ではなく、人の心が生み出した、あまりにも儚く、そして鮮やかな色の幻影だったのだ。

第四章 灰色のパレットに灯る色

月村正隆は、死体遺棄と証拠隠滅の罪で逮捕された。事件は解決した。だが、俺の心には、冬の空のような灰色の虚無感が広がっていた。俺は一体、何を見つけたのだろう。真実はあまりにも無機質で、人の心の弱さだけが浮き彫りになった。

数日後、俺は馴染みの喫茶店のカウンターに座っていた。窓の外を流れる人々も、車も、街路樹も、すべてが色のない映画のワンシーンのようだ。俺の世界は、何も変わらない。緋色も藍色も、今はもう見えない。あれは、事件という非日常が生み出した、一瞬の幻だったのかもしれない。

マスターが、黙ってコーヒーカップを俺の前に置いた。立ち上る湯気が、午後の光の中で揺らめいている。その湯気を、ぼんやりと眺めていた、その時だった。

俺は、ふと、あることに気づいた。

その湯気が、完全な灰色ではないことに。

目を凝らすと、湯気の向こう側、カップの中の黒い液体との境界線あたりに、ごく淡い、温かな光が混じっているのが見えた。それは事件現場で見たような鮮烈な色ではない。もっと穏やかで、懐かしいような……「琥珀色」の光だった。

驚いて顔を上げると、カウンターの向こうで黙々とグラスを磨くマスターの、その使い込まれた布巾に、かすかな「若草色」が滲んでいるように見えた。窓際の席で静かに本を読む女性のページをめくる指先に、優しい「肌色」が灯っているように見えた。

それらはすべて、幻のように淡く、すぐに消えてしまいそうな儚い色だった。だが、確かにそこにあった。

俺は理解した。俺の世界から、色が完全に失われたわけではなかったのだ。強烈な感情だけでなく、日常に潜む、ささやかで穏やかな感情にも、色は宿っていた。安らぎ、温もり、平穏。俺が自ら目を背け、忘れてしまっていた感情たち。画家だった頃に追い求めていた、人の心の機微を映す色そのものだった。

事件は終わったが、俺の探偵としての本当の仕事は、これから始まるのかもしれない。この灰色の世界に隠された、無数の感情の色を見つけ出すこと。それは、かつてカンヴァスに向かっていた時と同じ、孤独で、しかしどこか救いのある旅になるだろう。

俺は、琥珀色の光が溶け込んだコーヒーを、ゆっくりと口に運んだ。ほろ苦い液体が喉を通り過ぎる。五年ぶりに、俺は自分の心に、小さな温かい染みが広がるのを感じていた。灰色のパレットに、新しい色が、一つ、また一つと増えていく予感を胸に。

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