第一章 硝子の小鳥は歌わない
神保町の古書店『彷徨書房』の隅で、音無響(おとなし ひびき)は息を潜めるようにして生きてきた。インクと古紙の匂いが染みついたこの場所は、世界の喧騒から彼を守る唯一のシェルターだった。彼には秘密があった。他人の嘘が、奇妙で詩的な物語として聞こえてしまうのだ。それは断罪のサイレンではなく、脈絡のない幻聴にも似た、呪いのような能力だった。だから響は、人との関わりを極力避け、本の沈黙の中に安らぎを見出していた。
その日、彼のささやかな平穏は、一本の電話によって破られた。相手は、店の常連客である時田ハルさんの孫娘、美咲と名乗った。週に一度、決まって木曜の午後に訪れ、マザー・グースの稀覯本をうっとりと眺めては帰っていく、上品な老婦人。ここ二週間、彼女は姿を見せていなかった。
「祖母が、亡くなりました」
受話器の向こうで、声が震えていた。警察の検分では、老衰による心不全。事件性はない、と。しかし、美咲の声は納得していない響きを帯びていた。
翌日、響は約束通り、時田ハルの家を訪れた。古いが手入れの行き届いた日本家屋。通された客間で、美咲は俯きながら茶を淹れた。
「警察は病死だと言います。でも、私には分かるんです。祖母は、殺されたんだって」
その言葉は、悲しみに満ちていた。響は黙って彼女の目を見つめる。
「祖母は誰からも愛されていました。誰かに恨まれるような人じゃ、決して……」
美咲の頬を涙が伝った、その瞬間だった。
――*硝子の小鳥が歌う、凍てついた森の歌。枝には赤い実がひとつだけ残っていた。*
響の世界から、茶器の触れ合う音も、窓の外の車の音も消えた。代わりに、頭の中に澄んだソプラノのような声で、その短い物語が響き渡る。嘘だ。彼女の言葉には、嘘がある。だが、どの部分が? 祖母が殺されたという主張か、それとも誰にも恨まれていなかったという部分か。硝子の小鳥、凍てついた森、たった一つの赤い実……。その詩的な断片は、謎を深めるだけで、何も教えてはくれなかった。
「何か、心当たりは?」
響は、自分の能力を悟られぬよう、努めて平静に尋ねた。美咲はかぶりを振る。その仕草に嘘の響きはなかった。響は決心した。この呪われた能力が、初めて誰かの役に立つかもしれない。この凍てついた森の奥に隠された、一つの赤い実を見つけ出すために。
第二章 乾いた井戸と底なしの沼
響の調査は、時田ハルのささやかな交友関係を辿ることから始まった。響は探偵ではない。ただの古書店の店員だ。彼が持つ武器は、膨大な本の知識と、嘘を暴くこの奇妙な耳だけだった。
最初に話を聞いたのは、ハルに金を借りていたという隣家の主婦だった。彼女は憔悴した様子で、ハルの親切さを涙ながらに語った。
「時田さんには、本当に良くしていただいて……。お金も、必ず返すつもりだったんです。まさか、こんなことになるなんて」
彼女がハンカチで目元を押さえた時、響の耳に低く、重い声が響いた。
――*底なしの沼が、銀貨を一枚飲み込んだ。波紋ひとつ立てずに。*
次に訪ねたのは、ハルと土地の境界線を巡って、長年静かな対立を続けていたという遠い親戚の男だった。男は仏頂面で、しかし言葉は丁寧だった。
「確かに、多少の意見の相違はありました。しかし、憎んでいたわけではありません。寂しくなりますな」
男がそう言って、遠い目をした瞬間。
――*乾いた井戸が、雨乞いの踊りを嘲笑っている。一滴の恵みも信じずに。*
響は彷徨書房に戻ると、ノートに聞こえてきた詩を書き留めた。『底なしの沼』『乾いた井戸』。どちらも嘘の比喩だ。おそらく、主婦は金を返す気などなく、親戚の男はハルの死を悲しんではいない。だが、それが殺意に結びつく証拠にはならない。詩はあまりに抽象的で、人の心の暗部を覗かせるだけで、犯人を指し示してはくれなかった。
「どうですか、何か分かりましたか?」
店を訪れた美咲が、不安げに尋ねる。彼女の顔には疲労の色が濃かった。
「少しだけ」と響は答える。「時田さんは、詩集などはお好きでしたか?」
「ええ、とても。特に……」
美咲は一瞬言葉を詰まらせ、それから微笑んだ。「『硝子の森』という、あまり有名ではない詩人の詩集を、宝物のように大切にしていました」
その言葉に、嘘の響きはなかった。
響は書店のデータベースで検索をかける。幸い、その詩集は一冊だけ在庫があった。埃をかぶったそれを手に取り、ページをめくる。インクの匂いが、彼の心を落ち着かせた。彼は、聞こえてきた詩の断片が、この詩集と何か関係があるのではないかと、漠然と感じ始めていた。この本が、凍てついた森への道しるべになるかもしれない。
第三章 一番近くの星
詩集『硝子の森』を読み進めるうちに、響は愕然とした。『底なしの沼』も、『乾いた井戸』も、すべてこの詩集に収められた詩の一節だったのだ。犯人は、この詩集を知る人物に違いない。そして、響の能力が聞き取る「嘘の詩」は、誰かが意図的に選んだものではなく、嘘をついた人間の深層心理が、この詩集の言葉を借りて無意識に表出しているのではないか。
響は再び美咲に連絡を取った。
「その詩集、お祖母様はいつもどこに置いていましたか?」
「寝室の、枕元です。私に読み聞かせてくれたのも、その本でした」
そう言って、美咲は続けた。「祖母が亡くなった後、形見として私が譲り受けたんです」
その言葉に、響は息を呑んだ。彼の耳には、何も聞こえなかったからだ。それは、紛れもない真実だった。
詩集は、今、美咲の手元にある。
「犯人の見当は、まだつきませんか?」響は、震える声で尋ねた。
「ええ……。私には、まったく……」
美咲がそう答えた、その時だった。これまでで最も鮮烈なイメージと共に、悲痛な物語が響の脳髄を貫いた。
――*一番近くの星が、自らの光で目を焼いた。愛おしむあまり、闇に焦がれて。*
全身に鳥肌が立った。一番、近くにいた星。それは、誰だ。ハルを愛し、その光を誰よりも近くで見ていた人物。そして、その光を自らの手で……。
パズルのピースが、恐ろしい形で嵌っていく。
最初の嘘。「祖母は誰にも恨まれていなかった」。あの詩は、『硝子の森』の序文にあった。「*硝子の小鳥が歌う、凍てついた森の歌。枝には赤い実がひとつだけ残っていた。*」
美しい思い出という凍てついた森。その中で、ただ一つだけ異質で、血のように赤い実。それは、歪んでしまった愛情の果実。
犯人は、隣人でも親戚でもない。
「美咲さん」響は、絞り出すように言った。「あなただったんですね」
美咲の瞳から、涙が溢れた。それは悲しみでも、驚きでもなく、ついにたどり着いてくれた者への安堵の涙に見えた。
「祖母は……、少しずつ壊れていきました」
認知症だった、と美咲は告白した。大好きだった詩の一節も思い出せなくなり、孫である自分のことさえ分からない日が増えていった。聡明で、誇り高かった祖母が、ただ尊厳を失っていく姿を見るのは、耐えがたい苦痛だった。
「あの日、祖母は私を見て、『あなたはどなた?』と言ったんです。その瞬間、決めてしまいました。美しい祖母の記憶のまま、この森の時間を、凍らせてあげようって……」
それは、歪んだ愛がもたらした、究極の選択。法的には殺人だが、彼女にとっては鎮魂の儀式だったのだ。
「祖母は殺された」という彼女の言葉は、犯人を探してほしいという依頼ではなく、自分自身を告発してほしいという、悲痛な叫びだった。そして「誰にも恨まれていなかった」という嘘は、他でもない自分自身が、愛するがゆえに祖母の存在を「損なった」という罪の意識の表れだったのだ。
第四章 沈黙のレクイエム
響は、警察に通報しなかった。ただ、静かに美咲の隣に座り、彼女の嗚咽が途切れるのを待った。何が正しく、何が間違っているのか、彼にはもう分からなかった。嘘の裏には、こんなにも切実で、痛ましい物語が隠されている。彼の能力は、真実を暴くだけでなく、その奥にある魂の叫びを聞くためのものだったのかもしれない。
翌日、美咲は自ら警察に出頭した。響がそう勧めたからだ。彼女は自分の物語に、自分で終止符を打つべきだと、彼は思った。
事件が終わり、彷徨書房にいつもの静寂が戻ってきた。響はカウンターに立ち、窓から差し込む午後の光を浴びていた。世界は何も変わらない。人の言葉には、相変わらず嘘が混じっている。だが、彼の世界の聞こえ方は、確実に変わっていた。
以前はただのノイズだった嘘の詩が、今では人の心のかけら、声にならない祈りのように感じられる。それはもはや呪いではなく、痛みと共にある、一つの共感の形だった。
響は、書棚から『硝子の森』を抜き取り、そっとページを開いた。
「*硝子の小鳥が歌う、凍てついた森の歌。枝には赤い実がひとつだけ残っていた。*」
その一節を、今度は自分の声で、静かに呟いてみる。それはもう、ただの謎の断片ではなかった。愛と喪失、そして赦しを求める魂のための、鎮魂歌(レクイエム)のように、彼の心に深く、静かに響き渡った。響は本を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そして、次に訪れる客の、その心の物語に耳を澄ませる準備をした。