第一章 禁じられた解糸針
「刻の書庫」の空気は、常に古びた羊皮紙と、乾いたインクの匂いで満たされている。天井から吊るされた無数のタペストリーは、世界の始まりから今この瞬間に至るまでの、ありとあらゆる歴史を織り込んだものだ。喜びは金糸のように煌めき、平穏な日々は柔らかな生成りの綿糸で、そして悲劇は、血の滲んだような赤黒い麻糸で、克明に編み込まれている。
僕、リノの一族は、代々この書庫を守り、歴史を編み上げる「編纂官」の役目を担ってきた。指先で因果の糸を操り、世界の出来事をタペストリーに定着させる。それは神聖で、誉れ高い仕事だと教えられてきた。けれど、僕にとってこの書庫は、巨大な墓標に他ならなかった。
今宵、僕はその墓標に、禁じられた冒涜を犯そうとしている。
月光が天窓から差し込み、巨大なタペストリーの一角を青白く照らし出す。僕の目指す場所だ。そこだけが、醜く、汚れた染みのように沈んだ色合いをしていた。ざらついた鉛色の糸と、錆びた鉄のような赤黒い糸が複雑に絡み合い、一つの悲劇を形作っている。二十年前に僕の故郷を地図から消し去った、「灰色の水曜日」と呼ばれる大火災の記録。
懐から取り出したのは、象牙の柄に黒曜石の針を取り付けた「解糸針」。歴史を編むのではなく、解くために作られた禁断の道具だ。これをタペストリーに突き立て、呪われた歴史の糸を一本ずつ解いていけば、その出来事は「なかったこと」になる。因果律が再構築され、世界は新たな歴史を紡ぎ始める。誰もが、そんなことは不可能だと、世界の均衡を崩す愚かな行為だと言う。だが、僕には確信があった。そして、そうしなければならない理由があった。
冷たい汗が背中を伝う。心臓が肋骨を激しく打ち鳴らすが、僕の決意は揺るがない。愛する家族も、友も、笑い声に満ちた故郷の街並みも、すべてはこの醜い染みの向こうにある。
「待っていてくれ」
誰にともなく囁き、僕は震える手で解糸針を握りしめた。針先が、鉛色の糸に触れる。その瞬間、指先に氷のような冷たさと、微かな痛みが走った。まるで、タペストリーそのものが、僕の行為を拒絶しているかのようだった。
第二章 灰色の水曜日の記憶
僕が解糸の儀に執着する理由は、憎しみだ。それも、血を分けた先祖に対する、深く、昏い憎しみ。
「灰色の水曜日」を編んだのは、僕の曽祖父、偉大な編纂官として名を馳せたエリオスその人だった。なぜ、彼はあのような惨劇を編んだのか。故郷が炎に包まれ、何千もの命が失われていく様を、彼はどんな思いで一本一本の糸に込めていったのか。僕には到底理解できなかった。
幼い頃、両親を失い、親戚に引き取られた僕は、やがて一族の慣わしに従って編纂官の見習いとなった。師である長老は、僕に歴史を編むことの崇高さを説いた。「リノよ、我々の仕事は、ただ起こったことを記録するのではない。無数の可能性の中から、世界が最も安定する未来を選び取り、その因果を固定する役目なのだ。編まれた歴史は、たとえ悲劇であっても、より大きな破滅を防ぐための礎なのだ」
その言葉を聞くたび、僕は心の中で反発した。礎? 僕の家族の死が、僕の故郷の犠牲が、何かの礎だというのか。それは、力を持つ者が自らの行いを正当化するための、傲慢な言い訳に過ぎない。歴史は、もっと美しく、幸いに満ちたものであるべきだ。もし過ちがあったのなら、それを正す勇気を持つべきだ。
僕は編纂官としての技術を学びながら、夜ごと書庫の禁じられた区画に忍び込み、解糸の理論を独学で探求した。歴史を解くことは、世界の構造に深刻な亀裂を生む危険な行為だと古文書は警告していた。だが、僕の目には、それは希望の光に映った。
僕の脳裏には、今もあの日の光景が焼き付いている。空を覆う灰色の煙、熱風に混じる人々の悲鳴、そして、燃え落ちる我が家の梁の下で、僕を庇って動かなくなった両親の姿。あの温もりを、優しい声を、もう一度取り戻したい。その一心だけが、僕を突き動かしていた。
「曽祖父さん、あんたが間違っていたんだ」僕はタペストリーを見上げ、心の中で語りかける。「あんたが編んだ絶望を、僕が終わらせてやる。もっと良い世界を、僕がこの手で創り出す」
その信念は、もはや信仰に近かった。僕は、自分の正義を疑わなかった。この行為が、僕自身だけでなく、世界にとっても救いになると信じていた。
第三章 曽祖父の涙
僕は意を決し、解糸針を深く、鉛色の糸の中心に突き立てた。
抵抗があった。まるで生き物が身を捩るような、鈍い感触。構わず力を込めると、ぷつり、と何かが断ち切れる微かな音がした。その瞬間、世界が揺らいだ。足元の石床が波打ち、周囲のタペストリーが陽炎のように歪む。書庫の空気が急激に冷え込み、僕は目眩と共にその場に膝をついた。
視界が白く染まり、やがて像を結んだ時、僕は息を呑んだ。そこはもう「刻の書庫」ではなかった。見覚えのある、しかし遥かに古い時代の編纂室。蝋燭の灯りが揺れる中、一人の老人が、巨大な織機の前で一心不乱に糸を編んでいた。
エリオス。僕の曽祖父だった。
彼は、僕が今まさに解こうとしていた「灰色の水曜日」のタペストリーを編んでいた。だが、彼の表情は、僕が想像していたような冷酷なものではなかった。その顔は苦悩に歪み、深い皺が刻まれた目からは、大粒の涙が次々と零れ落ち、編みかけの糸を濡らしていた。
「なぜ……なぜこれ以外の道がないのだ……」
曽祖父は呻くように呟いた。その声は、幻影であるはずなのに、僕の鼓膜を直接震わせた。彼の視線は、目の前のタペストリーではなく、その遥か向こう、虚空に浮かぶ二つの未来図に向けられていた。
僕にもそれが見えた。
一つは、「灰色の水曜日」が起こる未来。僕の故郷が炎に呑まれ、多くの犠牲者が出る。悲しみに満ちた、僕が憎み続けた歴史だ。
そして、もう一つ。その隣には、「灰色の水曜日」が起こらなかった場合の未来が、禍々しい光を放って広がっていた。故郷の街は平和なまま。しかし、その平和という名の小さな揺らぎが、数十年後、大陸全土を巻き込む巨大な戦争の引き金となっていた。国と国が互いを疑い、憎しみを増幅させ、最終的には、僕の故郷の悲劇とは比較にならないほどの、何百万、何千万という命が失われる、破滅的な未来。空は毒の雲に覆われ、大地は裂け、文明そのものが崩壊の危機に瀕していた。
曽祖父は、二つの未来を前に、ただ慟哭していた。彼は、一つの街の悲劇を編むことで、世界全体の破滅という、より巨大な因果の連鎖を断ち切ろうとしていたのだ。
「許せ……許してくれ……」
彼は、生まれてくることのない犠牲者たちに、そして未来で彼を憎むであろう僕のような子孫に、涙ながらに謝罪しながら、震える手で絶望の糸を一本、また一本と編み込んでいく。それは、創造ではなかった。世界の痛みを一身に引き受ける、あまりにも孤独で、あまりにも残酷な選択だった。
歴史を編むとは、美しい物語を紡ぐことではない。未来の無数の可能性の中から、最も痛みの少ない道を選び取り、その悲劇を自らの手で確定させる、呪いにも似た責務だったのだ。
第四章 礎としての痛み
幻影が消え、僕は再び「刻の書庫」の冷たい石床の上にいた。手にはまだ解糸針が握られ、その針先は、解かれかけた歴史の糸に触れたままだ。
けれど、僕の心は、数分前とはまったく違うものに変わっていた。憎しみは溶け去り、代わりに、曽祖父が背負った計り知れない重圧と、深い愛情が津波のように押し寄せてきた。彼が流した涙の熱が、時を超えて僕の胸を焼いた。
僕が正そうとしていた過ちは、過ちではなかった。それは、世界を守るための、苦渋に満ちた祈りだったのだ。僕が憎んでいた「灰色の水曜日」は、僕の故郷は、数えきれない未来の命を守るための、尊い「礎」だった。
涙が溢れて止まらなかった。それはもう、失った家族を思う悲しみの涙ではなかった。真実を知らずに先祖を憎み続けた自分への悔恨と、彼の孤独な戦いへの共感、そして、この世界の構造そのものの、残酷な優しさに対する畏敬の念が入り混じった涙だった。
僕はゆっくりと立ち上がると、解かれかけた糸を、元の場所へと慎重に戻した。指先が、ざらりとした鉛色の麻糸に触れる。かつては醜い染みにしか見えなかったその感触が、今はどこか温かく感じられた。この糸の一本一本に、曽祖父の涙が、祈りが、そして僕が知らずに守られてきた未来の息吹が宿っている。
解糸針をそっと懐にしまい、僕は「灰色の水曜日」のタペストリーの前に跪いた。そして、深く、深く頭を垂れた。それは、犠牲となった故郷への追悼であり、曽祖父への謝罪であり、そして、歴史の編纂官としての新たな覚悟を誓う儀式だった。
もう、歴史を書き換えることは望まない。ただ、受け入れよう。痛みも、悲しみも、すべて。それらが礎となって、今の僕たちが、そしてこれからの未来が成り立っているのだから。
書庫を出て、東の空が白み始めているのを見上げた。冷たい夜明けの空気が、涙で濡れた頬に心地よかった。僕の役目は、過去を裁くことではない。過去から受け取ったこの世界の重みを、次の世代へと繋いでいくことだ。いつか僕も、曽祖父のように、苦しい選択を迫られる日が来るのかもしれない。その時は、涙を流しながらも、最も犠牲の少ない未来を編むだろう。誰にも知られず、賞賛もされず、ただ孤独に。
僕は踵を返し、再び書庫へと向かった。自分の織機が、僕を待っている。これから僕が編む歴史は、金糸のように輝くものばかりではないだろう。しかし、どんな色の糸であろうと、僕はそこに未来への祈りを込めて編み上げていく。それが、刻を編む者として、この世界に生まれた僕の、本当の使命なのだから。