第一章 墨色の侵食
結城櫂(ゆうき かい)がそれに気づいたのは、月曜の朝のことだった。寝ぼけ眼でキッチンに向かう途中、リビングの白い壁紙に、見慣れない黒い染みがあるのを見つけた。コーヒーでもこぼしたか、と眉をひそめて近づき、彼は息を呑んだ。それは染みではなかった。明らかに、何者かの手によって描かれた「落書き」だった。
油性マーカーで描かれたような、拙くも力強い線。それは、大きな一つ目と、裂けたような口を持つ、人型のキャラクターだった。手足は異様に長く、まるで影が歪んで実体を得たかのような不気味な姿をしている。櫂の脳裏に、錆びついた記憶の扉が軋む音がした。
「ノイズマン…」
思わず、その名前を呟いていた。小学生の頃、ノートの隅や教科書の裏に飽きもせず描いていた、自分だけのオリジナルキャラクター。あらゆる音を吸収し、沈黙を支配する王。そんな空想の設定まで、鮮明に蘇ってくる。
誰かの悪戯だ。そう結論づけるのが最も合理的だった。昨夜、酔って友人を連れ込んだだろうか。いや、櫂にそんな社交性はない。合鍵を渡している人間もいない。だとしたら、不法侵入?警察に連絡すべきか。だが、落書き一つで大騒ぎするのも馬鹿らしい。櫂は舌打ち一つで思考を打ち切り、雑巾でその黒い影を擦った。
しかし、落書きはびくともしなかった。それどころか、壁紙の凹凸に完全に一体化し、まるで最初からそこにあったかのように馴染んでいる。まるで、壁そのものが黒いインクを滲ませて、この形を成したかのようだ。櫂の指先が、その黒い線に触れた瞬間、ぞわりと背筋を冷たいものが駆け上った。インクは、まだ生乾きのように粘り気を帯びていた。
その日から、櫂の日常は静かに侵食され始めた。翌日、ノイズマンはリビングの壁から、廊下の壁へと「移動」していた。前の場所には痕跡一つなく、まるで瞬間移動したかのようだ。その次の日には、寝室のドアに。そして、その口は昨日よりも大きく裂けているように見えた。
櫂はデザイン事務所で働く、しがない会社員だ。かつてはイラストレーターを夢見ていたが、才能の限界と生活の重さに夢を折り畳み、今では退屈なバナー広告の修正作業に一日を費やしている。彼の世界は、彩度を失った灰色だった。その灰色の世界に、ノイズマンの漆黒は、あまりにも鮮烈な異物だった。
恐怖よりも先に立ったのは、苛立ちだった。現実から目を背けるように生きてきた自分への、罰なのか。あるいは、これは疲労が見せる幻覚か。彼はノイズマンを無視することにした。存在しないものとして扱えば、そのうち消えるだろう。そう、自分があの夢を葬り去った時のように。
だが、その週末の夜、決定的な出来事が起こる。ヘッドフォンで音楽を聴きながら作業をしていると、ふと、音が途切れた。デバイスの故障かと思ったが、ヘッドフォンを外して、櫂は悟った。違う。音が「消えた」のだ。窓の外で鳴り響いていた救急車のサイレンが、すぐ近くでぷつりと途絶えた。階下の住人の笑い声が、ぴたりと止んだ。冷蔵庫のモーター音さえ、聞こえない。
世界から、音が奪われていた。
櫂はゆっくりとリビングへ向かう。そこには、壁に張り付いたノイズマンがいた。その裂けた口は、満足げに歪んでいるように見えた。そして、その一つ目が、確かに、ゆっくりと、彼の方を向いた。
第二章 静寂の共犯者
世界は、真空パックされたように静まり返っていた。櫂は自分の荒い呼吸と、心臓が肋骨を打つ鈍い音だけを頼りに、その場に立ち尽くしていた。壁のノイズマンは、まるで音を飽食した後のように、その黒い輪郭をじっとりと濡らしていた。恐怖が、遅れてやってきた津波のように櫂の全身を飲み込んでいく。これは幻覚ではない。紛れもない、現実だ。
なけなしの理性をかき集め、櫂は幼馴染の早乙女美咲(さおとめ みさき)に電話をかけた。スマートフォンの画面をタップする指が震える。コール音は、鳴らなかった。ただ、画面に「発信中」の文字が虚しく表示されるだけだ。それでも数秒後、回線が繋がったらしい表示に切り替わった。
「もしもし、櫂?どうしたの、こんな時間に」
美咲の声が、ノイズ混じりに聞こえた。まるで電波の悪い場所にいるかのように、途切れ途切れだ。
「美咲か。聞こえるか?俺の周りで、変なことが…」
「え、何?声が遠いよ。なんか、ザーッて音しか…」
そこで通話は切れた。ノイズマンが、通話の「音」すら喰らい始めたのだ。櫂はスマートフォンを握りしめた。外界と繋がる最後の lifeline が、今、目の前の落書きによって断ち切られようとしている。
翌朝、櫂は美咲のアパートを直接訪ねた。インターホンの音は鳴らなかったが、ドアを叩くと、すぐに彼女が顔を出した。
「櫂、どうしたの。昨日の電話も変だったし」
「話がある。中、入ってもいいか」
招き入れられた部屋で、櫂は事の経緯を全て話した。壁に現れたノイズマンのこと。それが自分の子供の頃の落書きであること。そして、世界から音が消え始めていること。常識的に考えれば、精神の耗弱を疑われても仕方ない話だった。
だが、美咲は真剣な顔で聞いていた。彼女は、櫂が夢中でノイズマンを描いていた姿を、誰よりもよく知る人物だった。
「ノイズマン…懐かしい名前。確か、すごい設定があったよね。『あらゆる音を吸収して自分の力にする、沈黙の王様』だっけ」
「ああ。だが、ただの空想だったはずだ。それが、なんで今頃…」
「ねえ、櫂」。美咲はコーヒーカップを置き、まっすぐに櫂の目を見た。「君が最後に、夢中で絵を描いたのって、いつ?」
その問いに、櫂は答えられなかった。イラストレーターの夢を諦めてから、絵を描くことは自己嫌悪を掻き立てる行為でしかなかった。彼は、創造する喜びを、自ら手放したのだ。
「君は、ノイズマンを捨てた。自分の夢と一緒に、心の奥底に閉じ込めた。もしかしたら…そいつ、寂しいんじゃないかな」
「寂しい?ただの落書きが?」櫂は鼻で笑った。
「君が作った物語の主人公でしょ。創造主に見捨てられたら、そりゃあ、寂しいよ」
美咲の言葉は、櫂の心の固い殻を、少しだけこじ開けた。
アパートに戻ると、静寂はさらに深まっていた。蛇口をひねっても、水が流れ落ちる音はしない。ただ、無音の液体がシンクに吸い込まれていくだけだ。床を歩く自分の足音すら、カーペットに吸収されて消える。五感が一つ、完全に奪われたような感覚。それは、じわじわと正気を削り取っていく、拷問に近いものだった。
その夜、櫂は古い段ボール箱から、小学生の頃に使っていたスケッチブックを引っ張り出した。黄ばんだページをめくると、そこには無数のノイズマンがいた。授業中に描いたもの、休み時間に描いたもの。様々なポーズや表情のノイズマンが、ページの至る所で暴れ回っている。当時の熱量が、紙の中から溢れ出してくるようだった。
櫂は、自分がどれだけこのキャラクターを愛していたかを思い出した。ノイズマンは、内気で臆病だった自分にとっての、唯一のヒーローだったのだ。
スケッチブックの最後のページ。そこには、これまで見たことのないような、悲しげな表情のノイズマンが描かれていた。そして、その下に、震えるような文字で、櫂自身が忘れていた設定が書き殴られていた。
『ノイズマンは、さびしいときに おとを たべる。でも、ほんとうに ほしいのは、おとじゃない。ぼくの こえが ききたいだけなんだ』
第三章 聞こえない慟哭
その一文を目にした瞬間、櫂の脳を雷が撃ち抜いた。恐怖の対象だと思っていた存在。自分の日常を破壊する侵略者。その正体は、悪意ではなかった。それは、見捨てられた子供のような、悲痛な叫びだったのだ。ノイズマンは、櫂の注意を引きたかった。再び自分を見て、物語を紡いでほしかった。音を喰らっていたのは、静寂の中で、櫂の声だけを待っていたからだ。
櫂は壁に張り付くノイズマンを見つめた。その黒いシルエットが、今はまるで助けを求めるように震えているように見える。かつてヒーローだった存在を、自分は怪物だと決めつけていた。夢を諦めた自分自身を嫌悪するように、ノイズマンの存在を拒絶していた。
「俺の声が…聞きたいのか」
呟きは、音にならなかった。自分の声帯が震える感覚はあるのに、空気の振動が生まれない。ノイズマンが作り出した沈黙は、今や櫂自身の声さえも奪い去っていた。
どうすればいい。声が届かないなら、どうやって彼に応えればいい。櫂は混乱した頭でスケッチブックをめくり続けた。何か、何かヒントは無かったか。ノイズマンを止める方法を、自分は設定していなかったか。
その時、不意に玄関のドアが叩かれた。音はしない。だが、頑丈なドアが内側から圧迫されるような、鈍い振動が伝わってきた。美咲だ。櫂は慌ててドアを開けた。
「櫂、大丈夫!?やっぱり心配で…って、何これ…」
美咲は部屋の中の異常な静寂に気づき、言葉を失っていた。彼女の唇は動いているのに、声だけが掻き消されている。
彼女は櫂の腕を掴み、必死の形相で何かを訴えかけてきた。そして、櫂が持っていたスケッチブックを指差した。その最後のページを。
『ノイズマンは、さびしいときに おとを たべる』
美咲は、そのページの一角を、震える指で示した。ページの隅に、小さな文字で日付が書かれていた。櫂の記憶から完全に抜け落ちていた日付。
それは、彼の父親が、交通事故で亡くなった日だった。
全身の血が凍りつく。記憶の洪水が、堰を切ったように押し寄せてきた。あの日、病院の冷たい廊下で、父の死を告げられたこと。感情をどう処理していいか分からず、ただ無心にスケッチブックに向かったこと。もう二度と聞くことのできない、父の優しい声。その喪失感を埋めるように、彼は「音」を自在に操るノイズマンという存在を生み出したのだ。
ノイズマンは、単なる空想のキャラクターではなかった。父を失った悲しみ、誰にも言えなかった孤独、その全てを吸い取ってくれる、幼い櫂が必死の思いで生み出した、自分自身の魂の半身だった。
夢を諦めた時、櫂はただのキャラクターを捨てたのではなかった。彼は、父親の死の悲しみと向き合うことから逃げ、その象徴であるノイズマンごと、心の奥底に封印したのだ。
「そうか…」櫂の口から、声にならない声が漏れた。「お前はずっと、俺の中にいたのか…」
ノイズマンは、櫂が忘れていた痛みそのものだった。櫂が悲しみから目を背けるほど、その孤独は深まり、歪み、そして今、現実世界に溢れ出してしまったのだ。
壁のノイズマンが、ぐにゃりと形を変えた。その一つ目から、黒いインクの涙が、一筋、流れ落ちた。それは、櫂自身が、ずっと流せずにいた涙だった。
第四章 君と描く再生
もう、逃げないと決めた。恐怖は消えていなかった。だが、それ以上に、壁の向こうで泣いているかつての自分を、独りにしてはおけないという想いが勝っていた。櫂は、傍らで不安げに自分を見つめる美咲に、力なく、しかし確かに頷いてみせた。そして、机に向かった。
ペンを握る。何年も本格的に使っていなかった、彼の指にしっくりと馴染む相棒。真っ白なケント紙を前に、櫂は深く息を吸った。音は聞こえない。だが、心の中には、描くべき物語の音が鳴り響いていた。
声が届かないのなら、別の方法で語りかければいい。創造主として、彼の物語を、再び紡ぎ始めればいい。
櫂のペンが、紙の上を滑り始めた。それは、ノイズマンの新しい物語だった。音を喰らうだけの存在ではない。吸収した悲しみの音を、美しい旋律に変えて、世界に返す力を持つ存在。孤独な子供たちのために、優しい子守唄を奏でる、新しいノイズマンの姿。
一筆、また一筆と線が重ねられていく。櫂の目からは、止めどなく涙が溢れたが、手は止まらなかった。これは、ノイズマンのための物語であり、父を失った自分自身への鎮魂歌であり、未来へ向かうための誓いでもあった。
すると、信じられないことが起きた。
ペンが紙を擦る、カリカリという微かな音が、耳に届いたのだ。最初は幻聴かと思った。だが、それは徐々に確かな音となり、世界に輪郭を与え始めた。櫂がノイズマンの新しい姿を描き進めるにつれて、失われていた音が、一つ、また一つと世界に戻ってくる。エアコンの作動音。窓の外を走る車の走行音。美咲が息を呑む、小さな気配。
音は、櫂の創造に呼応していた。
最後に、櫂は新しいノイズマンの隣に、笑顔の少年を描き加えた。かつての自分だ。二人が手を取り合っている絵。その最後の線を引いた瞬間、部屋の空気が震え、全ての音が、鮮やかに世界に帰ってきた。
「…櫂!」
美咲の、涙声の呼びかけが、はっきりと聞こえた。
櫂は顔を上げ、リビングの壁を見る。そこにいたはずの、黒く不気味なノイズマンの姿は、どこにもなかった。ただ、真っ白な壁があるだけだ。いや、違う。壁の中心に、一枚の絵が、まるで最初からそこにあったかのように、飾られていた。
それは、櫂が今しがた描き上げたばかりの、新しいノイズマンと少年が微笑みあう絵だった。インクの黒は温かみを帯び、まるで祝福のように、静かに輝いていた。
あの日以来、櫂の世界は変わった。彼はデザイン事務所を辞め、再びイラストレーターへの道を歩み始めた。もう、自分の才能を疑ったり、過去の痛みから目を背けたりはしない。壁の絵は、彼が創作する意味を、そして彼が独りではないことを、常に教えてくれるお守りとなった。
時折、静かな夜には、あの壁の絵から、優しい子守唄が聞こえてくるような気がした。それは、父の声にも似た、温かい旋律だった。恐怖は乗り越えるものではなく、受け入れ、共に生きていくものなのだと、櫂は今、静かに理解していた。彼の灰色の世界は、今、無限の色で満たされていた。