無香の輪郭

無香の輪郭

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第一章 沈黙の依頼人

柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、香りで構成されていた。

彼の営む小さなアトリエ「香りのアトリエ」には、壁一面に数百種類の香料瓶が並び、琥珀色や黄金色の液体が静かな光を放っている。しかし、湊が嗅ぎ取っているのは、それら物質的な香りだけではなかった。幼い頃の高熱が脳に残した奇妙な後遺症――共嗅覚。彼は、人間の感情を鮮烈な「香り」として感じ取ることができた。

喜びは弾けるような柑橘系、深い愛情は甘く濃厚な薔薇、そして嘘は、鼻の奥を刺す腐った卵のような硫黄の香り。この能力のおかげで、彼は客の深層心理を読み解き、その魂に寄り添う唯一無二の香水を創り出す天才調香師として、知る人ぞ知る存在だった。だが、その裏側で、彼の心は静かに摩耗していた。嘘の悪臭に満ちた世界は、彼を人間不信にし、深い孤独の淵に沈めていたのだ。

その日、店のドアベルが澄んだ音を立て、一人の女性が入ってきた。橘沙羅(たちばな さら)と名乗った彼女は、喪服のような黒いワンピースに身を包み、その表情は能面のように静かだった。

「亡くなった恋人を、偲ぶための香りが欲しいのです」

彼女は言った。声に震えはない。ただ、ひどく乾いていた。

湊はいつものように、意識を集中させた。彼女の内面から立ち上る香りを、その輪郭を捉えようと。深い悲しみなら、雨上がりの土や湿った落ち葉のような香りだろうか。あるいは、後悔を伴うなら、錆びた鉄のような金属臭が混じるかもしれない。

しかし――。

何も、香らなかった。

まるで真空のガラスケースにでも入っているかのように、彼女の周りだけが、感情の香りの「無」に包まれていた。喜びも、悲しみも、緊張も、そして嘘の硫黄臭さえも。完全な無臭。そんな人間は、湊の三十年の人生で初めてだった。

背筋を冷たいものが走り抜ける。これは、どういうことだ?

「恋人のお名前と、亡くなられた状況を伺っても?」

湊は平静を装い、尋ねた。

「水城圭(みずき けい)と申します。一月前、建設現場の事故で……転落死でした」

沙羅は淀みなく答える。その瞳は昏く、どこか遠くを見ているようだった。湊は彼女の言葉を、ただの音の羅列としてしか受け取れなかった。香りの裏付けがない言葉は、彼にとって意味をなさない。

この女は、一体何を隠しているのか。あるいは、本当に何も感じていないのか。

後者だとしたら、それは人間なのだろうか。

湊の探求心と、調香師としてのプライド、そして正体不明のものへの恐怖が入り混じった奇妙な感情が、彼の胸をざわつかせた。

「承知いたしました。最高の香りを、あなたのために。少し、お時間をいただきます」

湊は微笑んでみせた。その笑顔の下で、彼は決意していた。この無香の女、橘沙羅の正体を、そして彼女が隠す沈黙の真実を、必ずや嗅ぎ出してみせると。それは、彼の能力そのものへの挑戦でもあった。

第二章 香りのない迷宮

調査は難航を極めた。水城圭の死は、警察によって早々に「事故」として処理されていた。彼は将来を嘱望された新進気鋭の建築家で、その日は自身が設計したビルの建設現場を視察中に、足場から転落した。目撃者はおらず、状況証拠も事故を示唆していた。

湊はまず、圭の仕事仲間を訪ねた。圭の才能を惜しむ言葉の裏側から、湊は焦げ付くような「嫉妬」の酸っぱい香りを嗅ぎ取った。次に訪れた圭の実家は、むせ返るような「悲嘆」と「後悔」の香りに満ちていた。年老いた両親は、息子の突然の死を受け入れられずにいた。誰もが、人間らしい生々しい感情の香りを放っている。その事実が、橘沙羅の異常性をより一層際立たせた。

湊は、香りの手がかりを得るため、沙羅に何度か会う口実を作った。

「圭さんの好きだった香りはありますか? どんな思い出でも構いません」

アトリエの柔らかな光の中で、彼は尋ねた。

「彼は……雨の日の匂いが好きでした。アスファルトが濡れる、あの匂い」

沙羅は静かに答える。彼女の言葉を頼りに、湊はジオスミンやペトリコールを基調とした香りの試作品を作るが、手応えはなかった。彼女はそれを嗅いでも、表情一つ変えない。ただ、「ありがとうございます」と乾いた声で言うだけ。

彼女と会うたび、湊は言いようのない焦燥感に駆られた。彼の絶対的な感覚が、この女の前では完全に無力なのだ。まるで分厚い防音壁に囲まれた部屋で、必死に音を聞き取ろうとするようなものだった。嘘の硫黄臭がしないから、彼女は嘘をついていないのか? 悲しみの香りがしないから、彼女は悲しんでいないのか?

自分の感覚が信じられなくなると、世界の全てが不確かに見え始めた。街ですれ違う人々の感情の香りが、以前よりも強く、乱雑に感じられる。それはまるで、彼の内面の混乱が、外の世界に反映されているかのようだった。

「あなたは、なぜそんなに私のことを知りたがるのですか?」

ある日、沙羅が不意に尋ねた。その声には、初めて微かな棘が含まれていた。

「最高の香水は、その人の魂を理解することから始まるからです」

湊は用意していた答えを返した。しかし、彼の鼻腔は、自身の言葉から立ち上る、微かな「苛立ち」の金属臭を捉えていた。

彼は迷宮に迷い込んでいた。出口のない、香りのない迷宮に。そしてその中心には、静かな瞳で彼を見つめる、無臭の女が座っていた。

第三章 腐食する真実

湊は行き詰まっていた。自分の能力が通用しないという現実は、彼の存在意義そのものを揺るがしていた。彼は原点に返ることにした。水城圭、その人自身について、もっと深く知る必要がある。湊は圭の遺品であるパソコンのデータ復旧を知人に依頼し、数日後、驚くべき情報に辿り着いた。

圭のメール履歴の奥深くに、海外の闇サイトとのやり取りが残されていたのだ。そこで彼が購入していたのは、「セリーン」と名付けられた非合法の薬剤。それは最新の神経科学を応用した、強力な「感情抑制剤」だった。脳の扁桃体に直接作用し、恐怖、怒り、喜び、悲しみといったあらゆる情動反応を、一時的に完全にシャットダウンさせるという。圭は、極度のプレッシャーがかかるコンペのプレゼンを乗り切るために、これに手を出していたらしい。

その瞬間、湊の脳内で全てのピースがはまった。

橘沙羅は、無臭なのではない。この薬を、服用しているのだ。

感情そのものを消し去っていたのだ。だから、何の香りもしなかった。

全身の血が逆流するような衝撃と共に、一つの確信が湊を貫いた。圭の死は、事故ではない。そして沙羅は、その真相を知っている。だからこそ、彼女は感情を消す必要があったのだ。罪悪感から逃れるために。

湊は沙羅をアトリエに呼び出した。彼の前には、例の薬剤に関する調査資料が広げられている。

「橘さん。あなたが探しているのは、恋人を偲ぶ香りじゃない」

湊は静かに、しかし強い口調で言った。「あなたが求めているのは、罪を忘れさせてくれる忘却の香りだ。違うか?」

沙羅の顔が、初めて僅かに強張った。だが、それでも香りはしない。薬の効果はまだ続いているようだった。

「……何のことです?」

「水城圭は、この薬の副作用に苦しんでいたんじゃないか? メールには、衝動制御が困難になる症例も報告されているとあった。彼は、あなたに暴力を……」

湊の言葉が、最後の引き金になった。沙羅の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、ダムが決壊したように、堰き止められていた全てが溢れ出した。

「そうよ!」

彼女の声は、金切り声に近かった。「彼は怪物になった! あの薬のせいで! いつも穏やかだったあの人が、些細なことで怒鳴り、私に手を上げるようになった! あの日もそうだった! 建設現場で、彼は突然、私に襲いかかってきたの! 目が、人間の目じゃなかった……!」

沙羅は息も絶え絶えに語った。錯乱した圭ともみ合いになり、突き飛ばしたのか、彼が自分で足を滑らせたのか、もう覚えていない。ただ、気づいた時には、圭は遥か下の地面に倒れていた。

「怖かった。自分が彼を殺したのかもしれないと思うと、気が狂いそうだった。だから……だから、圭が隠し持っていたこの薬を飲んだの! 罪悪感も、恐怖も、悲しみも、圭を愛していた気持ちさえも、全部消してしまいたかった!」

彼女は叫んだ。その言葉は、湊の胸に突き刺さった。

「あなたには、人の嘘が匂いでわかるそうね。噂で聞いたわ。でも、感情そのものがなければ、嘘だって生まれないでしょう? 私の勝ちよ。あなたの世界では、私は無罪なんでしょう!?」

その言葉は、湊の世界を根底から破壊した。

彼は今まで、香りを絶対的な真実の指標としてきた。嘘の硫黄臭が、世界の秩序を保つ最後の砦だと信じていた。だが、沙羅はその前提そのものを覆した。感情を消すことで、真実と嘘の境界線を曖昧にし、彼の能力を、彼の世界を、無効化したのだ。

目の前が暗くなるような感覚。彼の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。真実とは、一体何だ? 感情がなければ、罪は存在しないというのか?

アトリエに満ちる数多の香りが、意味を失っていく。それはただの化学物質の集合体に過ぎないのではないか。彼の見ていた世界は、全てが彼の脳が作り出した幻だったのかもしれない。

第四章 沈黙の先の香り

やがて、薬の効果が切れ始めたのだろう。橘沙羅の身体から、ついに香りが立ち上り始めた。それは一つの香りではなかった。圭を殺してしまったかもしれないという「恐怖」の酸っぱい香り、罪を隠し続けた「罪悪感」の錆びた香り、そして、それでもなお彼を愛していたという「哀切」の湿った土の香り。それらが混沌と入り混じり、むせ返るような、あまりにも人間的な香となってアトリエに満ちた。

湊は初めて、彼女の本当の姿に触れた気がした。それは、彼が今まで嗅いだどんな香りよりも複雑で、悲しく、そして美しいものに感じられた。

数日後、沙羅は自首することを湊に告げた。彼女の顔には、憔悴の中にも、どこか吹っ切れたような穏やかさが浮かんでいた。

彼女が去る前日、湊は一つの香水瓶を彼女に手渡した。

「これは?」

「あなたのための香水です」

それは、亡き恋人を偲ぶ香りではなかった。落ち着きを与える白檀、過去の罪を洗い流すような浄化のベルガモット、そして、決して忘れてはならない悲しみを象徴する、微かなスミレの香り。これから彼女が一人で背負っていく罪と、それでも生きていくための力を与えるための香りだった。

沙羅は黙ってそれを受け取ると、深く頭を下げ、アトリエを去っていった。

一人になったアトリエで、湊は窓の外を眺めた。雑踏からは、相変わらず様々な感情の香りが流れ込んでくる。嘘の硫黄臭、嫉妬の酸っぱい香り、無邪気な喜びの甘い香り。しかし、それらの香りに対する彼の感じ方は、以前とは決定的に違っていた。一つ一つの香りが、人間のどうしようもない複雑さ、弱さ、そして愛おしさの一部なのだと、少しだけ受け入れられる気がした。

彼はふと、棚から空の香水瓶と、純粋なアルコール、蒸留水だけを取り出した。そして、香料を一切加えない、「無香」の香水を作り始めた。

香りのない液体が、静かに瓶を満たしていく。

橘沙羅は、彼に教えてくれたのだ。真実は、必ずしも香りの中にあるわけではない、と。時には、香りが全て消え去ったその沈黙の先に、より深く、本質的な何かが隠されているのかもしれない。

湊はその「無香の香水」を手に取り、静かに目を閉じた。もう、人の心を香りで判断するのはやめよう。この鼻は、ただ美しい香りを創るためにだけ使おう。そして、人は、この両の目で、フィルターを通さずに、ありのままを見つめてみよう。

彼の孤独な世界に、静かに、新しい扉が開いた。その先にあるのがどんな世界なのか、まだわからない。だが、もう香りのない迷宮を彷徨うことはないだろう。彼は、歩き出す準備ができていた。

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