残響の修復師と、塗り潰された明日

残響の修復師と、塗り潰された明日

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第一章 空白の遺言

死にゆく者の部屋には、特有の澱みがある。

黴びた紙の匂いと、生物が呼吸を止めた後に残る、冷ややかな鉄の臭いだ。

「現場は手つかずだ。湊、頼めるか」

背後からかけられた声に、僕はゴム手袋をはめ直す。

振り返ると、幼馴染であり刑事の翔(カケル)が、充血した目で立っていた。

いつもなら軽口の一つも叩く彼が、今日は唇を真一文字に結んでいる。

「……ああ、やってみる」

警官が指差したマホガニーのデスク。

そこには、一本の万年筆が転がっていた。

自殺と断定された富豪、郷田の遺品だ。

僕は息を止め、右手の指先をゆっくりと黒い軸へと這わせる。

指の腹が触れた、その刹那。

脳髄を直接鷲掴みにされたような、鋭い痛みが走った。

キーン、という不快な高周波。

視界がノイズ混じりの砂嵐に覆われる。

胃の腑が冷え、吐き気がこみ上げる。

――視える。

『許してくれ、私は……』

男の掠れた声。

恐怖に痙攣する指先。

視線の先にあるのは、遺書ではない。

誰かの写真だ。

だが、肝心の顔の部分が、まるで黒いインクをぶちまけたような「モヤ」で塗り潰されている。

直後、強烈なフラッシュバック。

男の心臓が早鐘を打つ。

そして、視界が唐突に暗転した。

死だ。

「……っ」

僕は机に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

脂汗が頬を伝い、床に落ちた。

「見えたか?」

翔の声が、ひどく遠く聞こえる。

「おかしいんだ。郷田の最期の記憶……肝心な部分が『食われて』いた」

僕は震える手でポケットを探り、一冊のスケッチブックを取り出した。

亡き妹の形見。

表紙にはクレヨンで描かれた四人の家族。

だが、僕以外の三人の顔は、激しい筆圧で黒く塗り潰されている。

「このスケッチブックの『黒』と同じ質感のノイズだった。誰かが、作為的に記憶を消している」

翔の表情筋が、ピクリと跳ねた。

彼は何も言わず、ただジッポライターを弄んでいる。

カチン、カチン。

硬質な金属音が、不吉なカウントダウンのように響いた。

第二章 崩落する境界

異変は、署を出た直後に起きた。

自動販売機で買った缶コーヒーを開けようとした瞬間だ。

指先にあったはずの硬い感触が、ふわりと消えた。

落下音もしない。

液体が靴を濡らすこともない。

最初から、そこには何も存在しなかったかのように「消滅」した。

「……始まったか」

世界の歪み。

僕が能力を使いすぎたり、記憶の深淵に触れすぎると起きる現象だ。

過去と現在の因果律が狂い、物質が欠落する。

だが、早すぎる。

僕はまだ、何も修復していないはずだ。

ズキリとこめかみが痛む。

視界の端で、アスファルトが泥のように融解し始めた。

――炎の匂い。

――焦げたゴムと、肉の焼ける臭気。

「うっ……!」

強烈な拒絶反応。

喉の奥から酸っぱいものがせり上がる。

僕の記憶のロックだ。自分の過去に触れようとすると、防衛本能が現実を遮断する。

その時、スマホが震えた。

画面には『非通知』の文字。

『……湊、聞こえるか』

ノイズ交じりの声。翔だ。

いや、今の翔はすぐ近くのパトカーにいるはずだ。

『郷田は、15年前のあの日……お前の家が火事になった現場にいた消防団の一人だった』

心臓が嫌な音を立てる。

『それだけじゃない。当時、お前の両親の死因を「事故」として処理した担当者たち。そいつらが今週、全員死んだ』

「翔、何を言って……」

『俺は、お前を守りたかっただけなんだ。でも、もう限界みたいだ』

電話が切れる。

同時に、周囲の風景がガラスのようにひび割れた。

街灯が消える。

通り過ぎる車の音が消える。

世界が急速に彩度を失い、モノクロームの静寂へと沈んでいく。

この現象は、ただの能力の暴走じゃない。

誰かが、僕の記憶の蓋を無理やりこじ開けようとしている。

その「鍵」となる場所へ、世界が収束しようとしていた。

郷田の屋敷。

全ての始まりの場所へ。

第三章 断罪の銃口

夜の屋敷は、深海の底のように静まり返っていた。

血の匂いがする。

それも、新しい血だ。

僕は書斎に駆け込む。

月明かりが、部屋の中央に立つ人影を青白く切り取っていた。

「遅かったな、湊」

翔だった。

その手には、黒光りする拳銃が握られている。

銃口からは、まだ硝煙の匂いが漂っていた。

「翔……?」

言葉が出ない。

彼の足元には、郷田の隠し金庫から出されたであろう、古い資料が散らばっている。

そして、壁には無数の弾痕。

「なんで、お前が銃を」

翔は答えなかった。

ただ、悲痛なほど歪んだ笑みを浮かべ、銃口をゆっくりと僕に向ける。

「……見ろ」

彼が左手で放り投げたものが、僕の足元に滑り込んできた。

一枚の紙切れ。

僕のスケッチブックから破り取られた、あのページだ。

「拾え、湊。そして思い出せ。お前が能力で『見なかったこと』にした、あの日の一瞬を」

僕は動けない。

翔の指が引き金にかかる。

その指は、小刻みに震えていた。

殺意ではない。

これは、懇願だ。

僕は意を決し、彼との距離を詰めた。

銃口が僕の額に押し付けられる。

冷たい金属の感触。

だが僕は止まらない。

右手を伸ばし、翔が握りしめるその銃身に、直接触れた。

「見せろ、翔。お前の『真実』を」

能力発動。

翔の記憶が、濁流となって僕の中に流れ込んでくる。

――映像が弾ける。

郷田に向けられた銃口。

『やめろ! わしは何も喋っちゃいない!』

命乞いをする老人。

引き金を引く翔の目から、涙が溢れている。

『お前たちが生きている限り、湊は思い出せないんだ……!』

発砲音。反動。

掌に残る熱と、罪悪感という名の重圧。

「あ、ぁぁ……」

僕は弾かれたように手を離した。

翔は、僕のために手を汚したのか。

僕が目を背け続ける「過去」を清算するために。

「俺が全員殺した。これで障害はなくなった」

翔の声が震える。

「さあ、修復しろ湊! 歪んだ世界も、塗り潰されたお前の記憶も!」

第四章 修復される業火

足元の紙切れが、勝手に舞い上がった。

黒いクレヨンの塗り潰しが、ボロボロと剥がれ落ちていく。

封印が解ける。

『湊! 翔くんを連れて逃げろ!』

15年前。

燃え盛る家。

父の怒号が鼓膜を震わせる。

僕の記憶では、両親と妹は逃げ遅れて死んだはずだった。

運が悪かっただけの、悲劇の事故として。

だが、流れ込んでくる映像は違う。

『お兄ちゃん、早く!』

妹が、崩れてきた梁をその小さな体で支えていた。

皮膚が焦げる音。

両親が、炎の壁に立ち向かい、僕らの退路を確保していた。

その背中は、恐怖に震えながらも、決して退こうとしなかった。

彼らは「逃げ遅れた」のではない。

僕と翔を生かすために、自ら炎の中に飛び込み、命を燃やし尽くしたのだ。

そして、最期の瞬間。

炎に巻かれる直前、母は振り返り、泣きじゃくる僕らに向かって――笑ったのだ。

『生きなさい』

その笑顔があまりに壮絶で、あまりに美しくて。

幼い僕はその「愛の重さ」に耐えきれず、能力を発動させてしまった。

『彼らは事故で死んだ』

『誰も悪くない、仕方なかった』

そう事実を改竄し、彼らの崇高な自己犠牲を、スケッチブックの黒いクレヨンで塗り潰した。

自分が生き残った罪悪感から逃げるために。

「思い……出したか」

翔が膝から崩れ落ちる。

彼もまた、あの日、僕の両親に救われた命だった。

だからこそ、許せなかったのだ。

僕が彼らの死を「ただの事故」に貶め、偽りの平穏の中で生きていることが。

「ごめん……翔……」

涙が止まらない。

僕は、なんてことをしてしまったんだ。

世界が激しく明滅する。

僕の嘘によって歪められていた現実が、音を立てて崩壊していく。

「終わらせよう、湊」

翔が銃を床に置いた。

遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。

「俺は罪を償う。だからお前は、現実(ココ)で生きろ」

僕は頷き、震える手でスケッチブックを拾い上げた。

残響が消えていく。

修復すべきは、過去の改竄ではない。

僕自身の、弱さだ。

最終章 明日への色彩

光の粒子が舞う中、世界があるべき姿へと再構築されていく。

消えかけたコーヒーの味が戻る。

足元のアスファルトが固まる。

歪んでいた因果が、カチリと正しい位置に嵌まる音がした。

その代償として、僕の能力(チカラ)が枯渇していく。

指先の感覚が薄れる。

心地よい疲労感と共に、朝陽が窓から差し込んできた。

部屋には、もう歪みはない。

ただ、手錠をかけられ、警官に連行されていく親友の背中だけがあった。

翔は一度だけ振り返った。

その表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。

『またな』

口パクでそう告げ、彼は光の中へと消えていった。

残されたのは僕一人。

そして、手の中にある一冊のスケッチブック。

僕は表紙を開く。

黒く塗り潰されていたページから、インクの粉が完全に消え去っていた。

そこには、下手くそな絵で描かれた家族がいる。

父さんが大口を開けて笑っている。

母さんが優しく微笑んでいる。

妹がピースサインをしている。

そしてその真ん中で、僕と翔が肩を組んで、泥だらけで笑っている。

それは、僕がずっと見ようとしなかった、残酷で、けれど世界で一番愛おしい「真実」。

頬を伝う涙は、もう冷たくなかった。

鉄の臭いは消え、朝の澄んだ空気が肺を満たす。

僕はスケッチブックを閉じ、一歩を踏み出す。

塗り潰された昨日に別れを告げ、彼が命懸けで守ってくれた、色鮮やかな明日へ。

AIによる物語の考察

この物語は、主人公・湊が自らの能力で過去を「塗り潰す」ことで、真実から目を背けてきた罪と向き合う深遠なテーマを描きます。

登場人物の心理:
湊は、幼い頃の火事から逃れるため、両親の崇高な自己犠牲を「事故」と改竄し、自己の弱さから偽りの平穏を選んでいました。一方、翔は湊の家族に救われた過去を持ち、湊を真実と向き合わせるため、自ら悪役を演じ、過去の因果に関わる者を断罪します。彼の行動は、湊への深い友情と壮絶な自己犠牲の証です。

伏線の解説:
スケッチブックの「黒」は、湊が封印した真実の象徴。それが剥がれ落ちることは、記憶の修復と心の解放を意味します。また、世界の歪みや物質の消滅は、湊の記憶改竄が現実世界に及ぼす負の影響。非通知の電話は、翔が組織の枠を超え、独自に真実へ至る道を「清算」していたことを示唆します。

テーマ:
本作は、「真実と偽り、罪と贖罪」という哲学的な問いを投げかけます。湊は自己の弱さから真実を塗り潰しましたが、翔の命がけの行動により、過去の痛みを伴う真実と向き合い、未来へ歩み出す勇気を得ます。歪んだ記憶を修復することは、自己を修復し、真に生きることを意味するのです。
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