貌なき街のスケッチ

貌なき街のスケッチ

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第一章 喪失の朝

水野蓮の朝は、いつもコーヒーの香りと、窓から差し込む光の粒子を眺めることから始まった。そして鏡に向かい、そこに映る自分自身の顔の、昨晩と寸分違わぬ輪郭、目尻の僅かな皺、光の加減で変わる瞳の色を確認する。彼にとって「顔」は世界そのものだった。一度見た顔は、どんな些細な特徴も、写真のように脳裏に焼き付く。「超相貌記憶能力」と呼ばれるその才能は、彼を警視庁でも随一の似顔絵捜査官たらしめていた。

だが、その日の朝は違った。

ベッドから身を起こし、隣で眠る妻・沙耶香に微笑みかけようとした蓮は、息を呑んだ。そこに沙耶香の顔はなかった。あるのは、滑らかな肌がつるりと表面を覆う、卵のような、表情のない塊だけ。声にならない悲鳴が喉の奥で凍りつく。夢だ、悪夢に違いない。彼は乱暴に頭を振り、もう一度妻を見た。しかし、何度瞬きをしても、愛する妻の顔はそこにはない。のっぺらぼう。その古風な言葉が、脳内で不気味に反響した。

震える足で洗面所へ向かい、鏡を覗き込む。そこに映っていたのもまた、同じだった。目も、鼻も、口もない、ただ輪郭だけが存在する、空虚な自分。パニックが全身を駆け巡り、冷たい汗が背筋を伝う。彼は窓の外に目をやった。通勤ラッシュで賑わう歩道。人々が歩き、話し、笑っている。だが、その誰もが、同じ顔をしていた。個性も、感情も、歴史もすべてを剥奪された、無機質な「貌なし」の群れ。世界から、すべての顔が消え失せてしまったのだ。

三日前、蓮は雑踏の中で、ある顔を目撃した。世間を震撼させている連続通り魔事件の容疑者の顔だ。フードを目深にかぶった男とすれ違った一瞬、その鋭い目つき、頬の古い傷、歪んだ唇の形が、彼の記憶に完璧に刻み込まれた。それは逮捕の決め手となる、唯一無二の証拠のはずだった。

「あなた、どうしたの? 顔色が真っ青よ」

背後から聞こえたのは、紛れもなく沙耶香の声だった。しかし、振り向いた先にいるのは、やはり表情のないマネキンだ。蓮は絶望に打ちひしがれた。最強の武器であった彼の記憶は、今や何の役にも立たないガラクタと化した。犯人の顔は、記憶の深淵に沈んでしまった。靄がかかったように、どうしても思い出せない。この貌なき街で、彼はどうやって犯人を見つけ出せばいいのか。いや、それ以前に、自分自身を見失わずにいられるだろうか。蓮の世界は、音と形だけを残して、静かに崩壊を始めていた。

第二章 残響の輪郭

職場である捜査一課に出勤した蓮は、鉄の仮面を被ったような心地で自分のデスクに座った。同僚たちの声が飛び交う。だが、彼らの顔はすべて同じ、つるりとした卵だ。声の主を特定するのに、コンマ数秒の遅れが生じる。これまで「顔」という究極のショートカットに頼り切っていた自分の認識能力が、いかに脆いものであったかを思い知らされた。

「水野、例の件、似顔絵はまだか。上層部が急かしてる」

課長の声。いつもは柔和な彼の表情が、今は見えない。声の硬さだけが、その不機嫌さを伝えてくる。蓮は、自分の異常を悟られるわけにはいかなかった。唯一の目撃者である自分が使い物にならないと知れれば、捜査は振り出しに戻る。

「……はい。細部の確認に、少し時間を要しておりまして」

嘘をつきながら、蓮は真っ白なスケッチブックを開いた。鉛筆を握る指が、微かに震える。思い出せ。あの男の顔を。頬の傷。歪んだ唇。だが、記憶の中の顔もまた、のっぺらぼうに侵食され始めていた。まるで、墨汁が和紙に滲むように、輪郭が曖昧になっていく。焦燥感が心臓を鷲掴みにする。

その日から、蓮の日常は一変した。彼は失われた視覚情報を補うため、眠っていた他の感覚を必死に呼び覚まそうとした。妻の沙耶香を識別するのは、彼女が淹れるコーヒーの独特の香りと、歩くたびに床が軋む微かなリズム。課長は、革靴が放つ古いワックスの匂いと、時折漏らす深い溜息。彼は、まるで盲目の音楽家が音で世界を捉えるように、人々を「音」「匂い」「気配」の集合体として再構築し始めた。

週末、蓮は犯人を目撃した雑踏の交差点に、一人で立っていた。目を閉じ、記憶の再生に全神経を集中させる。顔は思い出せない。だが、他の記憶は鮮明だ。すれ違った瞬間に鼻をついた、安煙草のヤニ臭い匂い。アスファルトを削るように引きずられた、すり減ったスニーカーの靴音。そして、追い越し際に耳元で聞こえた、焦燥感に満ちた早口の独り言。「……これで終わりだ……これで……」

それだ。蓮は目を見開いた。顔ではない。声、匂い、歩き方。犯人を構成する要素は、他にもあったはずだ。彼はスケッチブックに、顔の輪郭ではなく、断片的な情報を書き連ねていく。煙草の銘柄、靴のブランド、独り言のアクセント。それはもはや似顔絵ではなかった。だが、犯人という存在の、確かな「残響」がそこにはあった。顔が見えない世界で、彼は犯人の輪郭を、別の方法で捉えようともがいていた。それは、出口の見えない暗闇の中で見つけた、か細く、しかし確かな一条の光だった。

第三章 歪んだ鏡

捜査が行き詰まりを見せる中、蓮の異常な集中力は、同僚たちの間で奇妙な噂を呼び始めていた。彼は人の顔を見ずに話す。相手の足元や手元に視線を落とし、何かを探るように耳を澄ませる。誰もが彼の奇行を、過度のプレッシャーによるものだと解釈した。

そんなある夜、蓮は自宅のベッドで浅い眠りから目を覚まし、言いようのない違和感に襲われた。自分の症状が始まった、あの「喪失の朝」のことだ。何かがおかしかった。記憶を辿る。ベッドから起き上がり、妻の顔を見て、洗面所へ……。その時、枕元に朝日が差し込み、何かがキラリと光ったのを思い出した。当時はパニックのあまり気にも留めなかったが、それは見慣れないものだった。小さな、爪の先ほどの金属片。

蓮はベッドから飛び起き、サイドテーブルの引き出しを片っ端から開けた。沙耶香が「何かの部品かしら」と拾って入れておいてくれた、あの金属片を探し出す。それは精密機器の一部のように見えた。科学捜査班の同期に、内密に分析を依頼する。

数日後、同期からの連絡に、蓮は愕然とした。

「蓮、これは……特殊な超低周波発生装置のコアパーツだ。ごく狭い範囲に、人間の脳の特定領域、特に顔を認識する『紡錘状回顔領域』の働きを阻害する信号を送るものらしい。軍事技術の応用で、まだ理論段階の代物だと思っていたが……」

病気ではなかった。事故でも、呪いでもない。これは、何者かによる意図的な攻撃だった。犯人は、蓮が目撃者であることに気づき、彼の能力を無力化するために、あの夜、家に侵入し、この装置を仕掛けていったのだ。全身の血が凍りつくような恐怖と、同時にパズルのピースがはまるような奇妙な納得感が蓮を襲った。犯人は、自分が思っていたよりもずっと狡猾で、そしてずっと近くにいる。

そこで、蓮の脳裏に、恐るべき仮説が閃いた。この装置の影響範囲が「ごく狭い」のであれば、装置を仕掛けた犯人自身も、その夜、同じ影響下にあったのではないか? 犯人もまた、蓮と同じ「顔のない世界」を見ているとしたら?

それは、犯人の動機を根底から覆す可能性があった。単なる目撃者の無力化が目的なら、もっと直接的な方法があったはずだ。なぜ、こんな回りくどい、自分自身をも巻き込むような手段を選んだのか。犯人は、蓮の能力を奪うこと自体に、特別な執着を持っていたのではないか。歪んだ鏡のように、蓮と同じ世界を共有することで、何かを成し遂げようとしているのではないか。蓮は、見えざる敵の、深い闇に満ちた内面を垣間見た気がした。

第四章 心で描く肖像

犯人もまた「貌なき世界」の住人である可能性。その仮説は、蓮の捜査方針を劇的に変えた。犯人はなぜ、そんな世界を望んだのか。顔にまつわる、深いコンプレックスやトラウマがあるに違いない。蓮は、物理的な特徴のリストアップを止め、犯人の心理的なプロファイリングに切り替えた。

彼は、捜査本部の同僚たちを一人一人、改めて観察し始めた。顔は見えない。だが、声の抑揚、歩くリズム、ふとした瞬間の仕草には、隠しようのないその人の本質が滲み出る。蓮は、これまで自分が「顔」という情報にどれほど依存し、人の内面を見てこなかったかを痛感していた。

そして、ついに一人の男に辿り着く。技術支援課の、影山という男だ。彼はいつも物静かで、存在感が希薄だった。蓮の記憶の中でも、彼の顔は「特徴がない」という印象しかなく、すぐに思い出せないほどだった。だが、今の蓮には、他の誰とも違う彼の特徴が分かった。電話応対の際に微かに震える声。焦ると指の関節を鳴らす癖。そして、彼のデスク周りにだけ漂う、あの安煙草の微かな匂い。すべてが、あの交差点の記憶と符合した。

蓮は意を決し、影山を誰もいない資料室に呼び出した。

「影山、三日前の夜、俺の家に来たか?」

蓮が静かに問いかけると、影山の肩が微かに揺れた。顔は見えない。だが、そのシルエット全体から放たれる緊張と絶望の気配は、何よりも雄弁だった。

やがて、影山は堰を切ったように語り始めた。彼は幼い頃から、その「特徴のない顔」のせいで誰からも覚えてもらえず、いじめられ、存在を無視され続けてきた。必死に努力しても、評価されるのはいつも見栄えの良い同僚ばかり。彼は、容姿で人を判断し、序列をつけるこの世界そのものを憎んでいた。

「だから、俺は世界を平等にしたかったんだ。誰もが同じ、顔のない存在になれば、人は初めて、その人の本当の価値を見るようになる。そう思ったんだ……」

連続通り魔事件は、彼の歪んだ正義感が生んだ凶行だった。彼を不当に扱ったと彼が思い込んだ人間たちへの復讐。そして、その計画の最大の障害が、人の顔を完璧に記憶し、人を「顔」で識別するスペシャリスト、水野蓮だった。

「お前のような人間がいる限り、俺の世界は完成しない。だから、お前にも見せてやりたかったんだ。顔のない世界が、どれほど静かで、公平で……美しいかを」

影山の声は、狂気と悲哀に満ちていた。蓮は、目の前にいるのが単なる凶悪犯ではないことを理解した。彼は、自分と同じように「顔」に囚われ、その呪縛から逃れようともがいた、もう一人の自分だったのかもしれない。蓮は、鉛筆を握りしめた。今なら描ける。影山の、苦悩に歪んだ心の肖像を。

第五章 夜明けの色彩

影山は逮捕され、事件は解決へと向かった。彼が蓮の寝室に仕掛けた装置も回収された。しかし、一度狂わされた脳の認識は、すぐには元に戻らなかった。蓮の世界は、依然として貌なきままだった。

だが、蓮の心は不思議なほど穏やかだった。むしろ、以前よりも澄み渡っているような感覚さえあった。ある夜、沙耶香が不安そうな声で尋ねた。

「ねえ、蓮。私の顔、まだ見えないの? もし、ずっとこのままだったら……」

蓮は、表情のない彼女の輪郭を、そっと両手で包み込んだ。肌の温もり、呼吸の微かなリズム、そして声に含まれる愛情の響き。それら全てが、どんな美しい顔立ちよりも雄弁に、彼女の存在を伝えてくれた。

「見えなくてもいい。君がここにいることは、誰よりも分かるから」

数日後、蓮は辞表を提出した。彼の唯一無二の能力は失われた。だが、彼は何も失っていないと感じていた。むしろ、もっと大切なものを手に入れたのだ。

自室のアトリエで、蓮は真っ白なキャンバスに向かった。彼はもう、誰かの似顔絵を描くことはないだろう。代わりに、彼は一本の線を、ゆっくりと引いた。それは誰の顔でもない。影山の絶望、沙耶香の温もり、そして、貌なき街で彼が見つけた、人の繋がりの微かな光。それら全てを内包した、抽象的な、しかし力強い線だった。

いつか、再び人々の顔が見える日が来るかもしれない。あるいは、永遠に来ないのかもしれない。だが、蓮はもうそれを恐れてはいなかった。彼は、目に見えるものだけが真実ではないと知った。顔という記号を失った世界で、彼は初めて、人の「心」というものを見る方法を学んだのだから。

キャンバスに引かれた線は、まるで夜明けの空を裂く最初の光のように、静かな輝きを放っていた。

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