第一章 消去された石工と渦巻きの残像
柏木朔(かしわぎさく)の仕事場は、静寂と古紙の匂いに満ちていた。壁一面を埋め尽くす書架には、革や和紙で装丁された無数の「記録」が眠っている。しかし、彼は司書でも古文書研究家でもない。彼の職業は、もっと静かで、そして残酷なものだ。彼は「歴史消去人」だった。
未来に深刻な悪影響を及ぼす、些細だが危険な過去の因子。それらを特定し、あらゆる記録媒体から、そして人々の集合的無意識から完全に抹消する。それが、国家機密組織「歴史調停局」に所属する彼の任務だった。
今日のターゲットは、二百年前、北国の小さな藩に生きた一人の石工だ。名は、卯之助(うのすけ)。公式な歴史書には一行たりとも登場しない、取るに足らない存在。彼が消去対象となった理由は、藩の川に架けられた橋の礎石に、個人的な意匠を彫り込んだ、ただそれだけのことだった。
「対象座標、ロック。因子パターン、特定完了。同期率九九・八パーセント。消去プロセス、開始します」
柏木はコンソールの前に座り、古びた石灯籠の拓本に指を添えながら、淡々と音声入力を行う。彼の指先から、淡い燐光が放たれ、拓本に描かれた複雑な紋様――卯之助が彫ったという渦巻き模様――に吸い込まれていく。それは、単なるデータ削除ではなかった。過去という巨大な織物から、一本の糸を、誰にも気づかれぬよう、そっと抜き取る神業に近い行為だった。
光が収まり、拓本の上に残っていた渦巻きの痕跡が、インクの染みへと変わる。世界のどこを探しても、もう卯之助という石工が生きた証も、彼が彫った渦巻き模様の記録も存在しない。完璧な仕事だった。
しかし、その夜、柏木は奇妙な体験をした。アパートの自室で、湯気の立つコーヒーカップを見つめていると、黒い液体の表面に、一瞬だけ、あの渦巻き模様が揺らめいたのだ。幻覚だ、と彼は首を振った。疲れているのだろう。歴史を消すという行為は、精神を深く摩耗させる。
だが、その日からだった。街角のショーウィンドウの反射に、雨上がりの水たまりに、眠りにつく直前の瞼の裏に、消したはずの渦巻きが「残像」としてちらつくようになった。それはまるで、世界から無理やり剥がされた歴史の断片が、柏木にだけ見える悲鳴を上げているかのようだった。彼は初めて、自分が消した過去の重みに、言い知れぬ恐怖を感じ始めていた。
第二章 禁忌の調査と歴史の分岐点
渦巻きの残像は、柏木の日常を静かに侵食していった。仕事に集中しようとすればするほど、思考の隅に渦が巻き、指先が微かに震える。これは危険な兆候だった。歴史消去人にとって、過去への私情や執着は最大の禁忌だ。消した対象に興味を持つことは、自らの精神の座標を狂わせ、存在の希薄化を招きかねない。
だが、柏木は抗えなかった。なぜ、名もなき石工の、たった一つの意匠を消さねばならなかったのか。その渦巻きは、未来にどのような「悪影響」を及ぼすというのか。疑問もまた、渦となって彼の内側で膨れ上がっていく。
彼は禁忌を破った。局のデータベースに正規ルートではない方法でアクセスし、「卯之助」に関する消去前のデータをサルベージし始めたのだ。凍てつくようなサーバーの冷却ファンの音だけが響く深夜、柏木の額には冷たい汗が滲んでいた。
見つけ出したデータは、断片的だったが、驚くべき事実を示唆していた。卯之助が渦巻き模様を彫った礎石を持つ橋は、「宝永の大水害」と呼ばれる記録的な洪水に見舞われている。公式記録では、その橋は他の多くの橋と同様に流失し、甚大な被害をもたらした、とある。
だが、消去される直前の郷土史の異聞には、全く異なる記述があったのだ。
『かの水害の折、卯之助が彫りし渦の礎、龍神の怒りを鎮めしか、激流に耐え抜き、唯一、落橋を免れたり。これにより、対岸への避難路確保され、数百の民が命拾いせしと云う。人々はこれを「卯之助橋の奇跡」と呼び、後世まで語り伝えた』
柏木は息を呑んだ。自分が消したのは、未来への脅威ではなかった。人々の命を救った「奇跡」の物語だったのだ。公式記録との齟齬。これは一体どういうことなのか。局はなぜ、この美談を消し去る必要があったのか。
残像の正体が、少しだけ分かった気がした。あれは悲鳴ではない。忘れられることを拒む、歴史自身の声なのだ。柏木の心に、仕事への誇りと共に築き上げてきた信念の壁に、初めて大きな亀裂が入った。彼は、自分が何をしたのか、そしてこれから何をすべきなのか、全く分からなくなってしまった。
第三章 美しすぎた奇跡
翌日、柏木は上司である室長・静谷(しずや)の前に立っていた。静谷は老齢の女性で、その瞳は磨かれた黒曜石のように、感情の機微を一切映さない。
「卯之助の件、調査したそうだな」
静谷の静かな声が、防音処理された室内に響く。隠し通せるとは思っていなかった。柏木は覚悟を決め、問いかけた。
「なぜ、奇跡を消したのですか? あの橋は、多くの人命を救ったはずです。それのどこが、未来への悪影響なのですか」
静谷はゆっくりと茶を一口すすると、柏木を真っ直ぐに見据えた。「お前は、我々の仕事を勘違いしている、柏木君」
彼女の言葉は、氷のように冷徹だった。
「我々が剪定するのは、未来への『悪影響』だけではない。時として、『良すぎる影響』もまた、対象となるのだよ」
「良すぎる、影響…?」
「そうだ」静谷は頷いた。「卯之助橋の奇跡は、その地に何をもたらしたと思う? 感謝、誇り、そして――停滞だ。人々は『我々の町には龍神の加護がある』『先人の奇跡が守ってくれる』と、災害への備えを怠るようになった。発展よりも、過去の栄光に固執するようになった。数世代後、その地域は防災意識の欠如から、宝永を上回る大水害で、歴史上から消滅する運命にあった。奇跡が、緩やかな破滅を招いたのだ」
柏木は言葉を失った。頭を鈍器で殴られたような衝撃が全身を貫く。
「我々の使命は、人類史という長大な物語を、破綻なく未来へと繋ぐことだ。そのためには、時に感動的なエピソードや、輝かしい英雄譚を、涙を飲んで間引かねばならない時がある。人々が過去の奇跡に酔いしれ、未来を自らの手で切り拓く意志を失うことこそ、我々が最も恐れる『歴史依存症候群』なのだ。美しすぎた奇跡は、未来にとっては猛毒なのだよ」
静谷は続けた。「お前が消したのは、数百人を救った石工ではない。数万人を緩やかな死に至らしめる『美しい物語』という名の呪いだ。我々は、クロノス(時)の庭師だ。未来という大樹を健やかに育てるため、美しかろうが何だろうが、伸びすぎた枝は剪定する。それが我々『歴史消去人』の真の姿だ」
柏木が信じてきた正義が、音を立てて崩れ落ちた。自分は未来を守っているのではなかった。感動を、希望を、奇跡を、冷徹な理屈で奪い去る、ただの破壊者だった。彼の足元が、ぐらりと揺らぐ。目の前に立つ静谷の姿も、そして自分自身の存在も、全てが歪んで見えた。
第四章 影の番人
その日から、柏木は局に出勤しなくなった。自室に閉じこもり、彼は考え続けた。静谷の論理は、マクロな視点で見れば正しいのかもしれない。だが、それでいいのか。感動も奇跡も知らず、ただ生存するためだけに最適化された未来に、果たして価値はあるのだろうか。
答えは出なかった。だが、一つだけ確かなことがあった。もう、自分は歴史を消すことはできない。
一週間後、柏木は深夜の局に忍び込んだ。彼の最後の仕事。それは、誰の歴史でもない、自分自身の歴史を消し去ることだった。
消去対象に「歴史消去人・柏木朔」と入力する。同期率が急速に上昇していく。世界から、柏木朔という人間が生きた証が、その記憶が、記録が、全て消えていく。それは組織への最大の反逆であり、過去の自分との決別だった。
淡い燐光が全身を包む。意識が薄れていく中で、彼は最後に、あの渦巻き模様を思い浮かべていた。消されてもなお、残像となって訴えかけてきた、名もなき石工の魂の意匠を。
数年後。
海沿いの小さな町で、一人の男が郷土史家として静かに暮らしていた。彼は「長谷(はせ)」と名乗っていた。彼は歴史を消すのではなく、忘れ去られた人々の小さな物語を、一つ一つ丁寧に掘り起こし、記録する仕事をしていた。それは、かつての自分への、ささやかな贖罪だった。
ある晴れた午後、長谷は町の外れにある古い石橋のたもとに立っていた。かつて、大水害で流されたと記録されている橋の、再建された姿だ。彼は何かに導かれるように、川べりに降り、苔むした礎石の一つにそっと触れた。
その瞬間、指先に微かな凹凸を感じた。苔をそっと剥がしてみる。
そこには、風雨に削られ、ほとんど見えなくなりながらも、確かに一つの渦巻き模様が刻まれていた。
完全に消されたはずの歴史の「影」。世界から抹消されてもなお、物質として、痕跡として、ここに在り続けた卯之助の仕事。
長谷――かつての柏木朔は、その渦巻きを、愛おしいものに触れるかのように、そっと指でなぞった。歴史は、完全には消えない。記録から消されても、記憶から消されても、誰かがその「影」に気づき、その意味を問い、語り継ごうとする限り、物語は生き続ける。
夕日が、彼の頬を伝う一筋の雫を、茜色に染め上げていた。彼は涙の理由を知らない。ただ、自分はこれから、この世界に無数に存在する、消された歴史たちの「影の番人」として生きていくのだろうと、静かに悟るだけだった。風が、川面を渡り、まるで遠い昔の石工の息遣いのように、彼の髪を優しく揺らした。