第一章 停止した時間のアパート
そのアパートは、時の流れから置き去りにされたように、ひっそりと佇んでいた。蔦が絡みつく煉瓦の壁は雨に濡れて黒ずみ、錆びた鉄骨階段は軋むたびに過去の悲鳴を上げるかのようだった。私の名は藤堂アヤ。どんな些細な情報も決して取りこぼさない、「完璧な記憶」を持つ調査員だ。このアパートの三階、304号室で、私は三年前に起きた未解決失踪事件を追っていた。
依頼は、失踪した女性画家、佐倉ユウキの友人からだった。ユウキはまるで煙のように忽然と姿を消し、手掛かりは何も残されていない。警察も捜査を打ち切り、事件は人々の記憶から薄れつつあった。しかし、友人は信じていた。ユウキは、決して自殺などしない。きっと何かのメッセージを残しているはずだと。
304号室の鍵を回した瞬間、鼻腔をくすぐったのは、絵の具と古い紙、そして微かにカビの混じった独特の匂いだった。部屋は三年間の空白をそのまま閉じ込めたかのように、当時のままの状態を保っていた。キャンバス立てに立てかけられた未完成の抽象画、散乱する絵の具チューブ、使い古された筆が転がるテーブル。私は部屋の中央に立ち、目を閉じた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、あらゆる情報を吸収し、脳内で鮮明なデータベースを構築する。これが私の能力であり、私自身が最も信頼する真実だった。
「…おかしい」
目を開けた瞬間、脳裏に一つの違和感が生まれた。
テーブルの隅に置かれた、一冊の古い画集。それは私が以前、別の場所で、別の画家の作品集として「見た」記憶があるものと、表紙の色が微妙に違う。いや、構図が違うのだ。記憶の中のその画集は、もっとくすんだ青の表紙だったはずなのに、目の前のそれは鮮やかな群青色だ。些細なことだ。だが、私の完璧な記憶が、その些細なずれを見逃すことはない。私の記憶は、一度見たものは写真のように、一度聞いた言葉は録音テープのように、寸分違わず再現できる。それが、私の唯一の絶対的な自信だった。
壁には、幾枚ものユウキの絵が飾られていた。どれも抽象画で、鮮烈な色彩と激しい筆致が印象的だ。その中の一枚に目が止まった。中心に描かれた、深い森のような緑色。その中に、まるで閉じ込められたかのように、歪んだ人間の顔がいくつも隠されている。不気味でありながら、強烈な何かを訴えかけているようだった。
私は部屋の隅々まで丹念に調べた。引き出し、本棚、クローゼット、キッチンの食器棚。そして、ベッドサイドの小さな木箱から、一冊の薄いノートを見つけた。ユウキの、日記の断片だった。鉛筆で殴り書きされた文字は、読みにくい。
「…記憶が…混ざる…夢…現実…区別…できない…」
「…あの男…神崎…私を…どこへ…」
「…絵の中に…隠す…真実を…」
私は眉をひそめた。「神崎」という名に、私の脳内のデータベースが反応した。それは、三年前に読んだ精神医学の論文の著者名だった。確か、「記憶の再構築」に関する画期的な研究を発表していたはずだ。なぜ、画家のユウキが、そんな人物と関わりを持っていたのだろう?
そして、さらに不穏な記述を見つけた。「この部屋の、あの場所だけは…違う…」。
「あの場所」とはどこだ?私は再び部屋を見回した。全ての配置、家具の傷一つ一つまで、私の記憶と寸分違わないはずだ。だが、先ほどの画集の件が、私の確信をわずかに揺るがしていた。この部屋のどこかに、私の記憶が及ばない、あるいは記憶と矛盾する場所があるというのか?
私は再び、あの不気味な緑色の絵に目を向けた。その絵の構図が、私の記憶の中にある、とある古い病院の庭園と酷似しているような気がした。しかし、なぜ病院の庭園がこんな抽象画の中に?そして、その病院は、私の記憶の中ではすでに廃院となっているはずの場所だ。
私の完璧な記憶に、小さな亀裂が入り始めていた。それはまるで、長年信じ続けてきた強固な壁に、見えないヒビが入るかのような感覚だった。
第二章 螺旋の記憶、揺らぐ現実
佐倉ユウキの日記の断片と、神崎という名。私はその二つの点をつなぐべく、神崎医師について深く調べ始めた。彼は数年前まで、都内有数の大学病院に勤務する精神科医だった。その研究テーマは、主にPTSD(心的外傷後ストレス障害)患者の記憶の「再構築」。辛い記憶を患者にとってより受け入れやすい形に修正することで、精神的な回復を促すという、倫理的にも議論を呼ぶ最先端の治療法だ。
私は図書館に足を運び、古い医学雑誌や論文を読み漁った。彼の論文は、確かに学術界に大きな衝撃を与えていた。特に印象的だったのは、彼が提唱する「記憶のモジュール化」という概念だ。記憶は単一のデータではなく、感覚、感情、事実など複数の要素が組み合わさって形成されており、それを個別に操作することで、特定の記憶を「上書き」できるというのだ。
「そんなことが本当に可能なのか?」
私は思わず呟いた。私自身の記憶は、一度たりとも書き換えられたことなどない。それどころか、まるで超高性能な記録装置のように、過去の出来事を鮮明に、ありのままに再現し続ける。それが私のアイデンティティだった。
神崎医師の現在の所在は不明だった。大学病院も既に退職しており、彼の研究室は閉鎖されている。しかし、過去の論文発表会での写真に、私は見覚えのある顔を見つけた。それは、ユウキの依頼主である友人、つまりユウキの妹だった。彼女は、神崎医師の研究の共同研究者として、彼の隣に立っていた。彼女は私に、「ユウキは自殺などしない」と強く訴え、ユウキの失踪に不審を抱いていたはずだ。だが、もし彼女が神崎医師と共謀していたとしたら?
私はユウキの妹に連絡を取り、神崎医師との関係について問いただした。彼女は動揺した様子で、最初は否定したが、最終的には認めた。「姉は、過去のトラウマに苦しんでいました。神崎先生は、唯一の希望だったんです。でも、治療はうまくいかなくて…」彼女の声は震えていた。彼女は、姉の失踪後、神崎医師も姿を消したと付け加えた。しかし、その声にはどこか不自然な響きがあった。
その夜、私は自宅のソファで、神崎医師の論文を読み返していた。彼の研究には、副作用として「現実と記憶の混同」が挙げられていた。その時、私のスマートフォンが鳴った。大学時代の友人からの着信だ。
「アヤ、この前の同窓会、楽しかったね!」
友人の声は弾んでいた。しかし、私の脳内のデータベースは、その言葉に違和感を覚えた。同窓会?私はこの数ヶ月、同窓会には参加していないはずだ。
「同窓会…いつのこと?」私は問い返した。
友人は怪訝な顔で言った。「え?先月だよ。アヤもいたじゃない。あの時、アヤが言ってた『完璧な記憶』の話、みんな驚いてたよ」
私の心臓が、ドクンと大きく鳴った。私の完璧な記憶には、先月の同窓会の記録など存在しない。そんな話を私がするはずがない。何かの間違いだ。しかし、友人の声は確信に満ちていた。
「まさか、忘れたの?アヤが記憶を忘れるなんて、ありえないことだよね?」友人の声が、私の耳に鋭く突き刺さった。
自宅の部屋を見回す。見慣れた家具、壁に飾られた写真。全てが私にとっての「現実」だ。だが、その現実が、今、螺旋状にねじれ始めているように感じられた。私は自分の記憶に絶対の自信を持っていた。それが、私という存在の根幹だった。しかし、その根幹が、今、揺らいでいる。
数日後、私は再び304号室を訪れた。あの緑色の抽象画をじっと見つめる。この絵が、私に何かを訴えかけている。そう確信した。絵の中の歪んだ顔たち。それは、現実と記憶の狭間で苦しむ者の顔なのだろうか。
私は絵をじっと見つめているうちに、ある奇妙な感覚に襲われた。絵の構図が、私の記憶の中の廃院の庭園と酷似している。だが、その庭園の風景が、私にとってまるで「かつて訪れた場所」であるかのように、やけに生々しいのだ。そして、その庭園の片隅に、私が確かに「見た」はずのない、小さな石碑が立っている。私の完璧な記憶が、その石碑の存在を否定しているのに、なぜか、その石碑の冷たい感触までが、私の手のひらに甦るようだった。
これは何だ?私の記憶は、一体どうなっているのだ?
第三章 歪められた過去の肖像
私は自分の記憶の絶対性を疑い始めていた。それは、自分自身という存在が、根底から崩れ去るような恐怖だった。私は過去の記憶を辿った。なぜ、自分が「完璧な記憶」を持つようになったのか。いつから、そう自覚するようになったのか。
小学三年生の時、私はある交通事故に遭い、頭を強く打った。一週間の意識不明の後、目を覚ました時、それまで覚えていなかった赤ん坊の頃の出来事まで鮮明に思い出せるようになっていた。以来、私はどんな情報も、一度見聞きしたものは決して忘れることがなかった。それは、周囲からは「天才」と称され、私自身も自己の存在を確立する拠り所となっていた。
しかし、その「完璧な記憶」が、今、私の最大の敵として立ちはだかる。もし、私の記憶が、あの神崎医師の「記憶の再構築」によって作られた偽物だとしたら?私は、この十数年間、偽りの自分として生きてきたことになる。
再び304号室に戻った私は、狂ったように部屋を調べ始めた。あの「あの場所だけは…違う…」というユウキの日記の言葉。私は、部屋のあらゆる場所の寸法を測り、壁を叩き、床板の軋み音に耳を澄ませた。そして、緑色の抽象画の裏側。壁に絵を掛けるためのフックが取り付けられていたが、そのフックの位置が、他の絵画と比べて不自然に低いことに気づいた。
絵を外し、壁をよく見ると、微かに異なる色の漆喰の跡がある。私はそこに手を当て、ゆっくりと押してみた。
ガタン、という鈍い音と共に、壁の一部が内側に開き、隠し部屋が現れた。
息をのむ。中は埃っぽく、小さな棚とテーブルが置かれていた。テーブルの上には、山積みの書類と、数冊のファイル。それらを手に取ると、全て「神崎研究室」と記されていた。そこには、神崎医師がユウキに行った「記憶再構築治療」の詳細な記録が克明に綴られていた。
治療の目的は、ユウキが過去に経験した壮絶な出来事――親しい友人の死――による心的外傷を癒すため。神崎医師は、ユウキの脳内に、友人の死が起こらなかった、あるいは異なる形で解決した「新しい記憶」を植え付けようとしていた。しかし、治療は難航し、ユウキは現実と偽りの記憶の間で深く苦しんでいた。日記に書かれていた「記憶が混ざる」という言葉は、このことだったのだ。
そのファイルの一番下から、私は一枚の写真を見つけた。
写真の中央には、あの緑色の絵の背景となっている廃院の庭園が写っている。そして、そこに並んで立つ三人の人物。
神崎医師。佐倉ユウキ。そして――私。
私の呼吸が止まった。写真の中の私は、まだ幼い。だが、間違いなく私だった。三人の顔には、笑顔はない。どこか沈痛な面持ちで、まるで追悼式にでも参加しているかのようだった。
その写真の裏には、走り書きされた文字があった。
「20XX年X月X日。藤堂アヤ、佐倉ユウキ、共に記憶再構築治療を開始。アヤ、ユウキの友人として、偽りの記憶を定着させる。ユウキ、過去のトラウマ克服。アヤ、ユウキの死の記憶を封印。成功率50%」
頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
ユウキの「失踪事件」は、神崎医師によって作り出された偽りの記憶だった。ユウキは失踪したのではなく、あの時、親友である私の目の前で、治療の失敗によって精神が崩壊し、自殺したのだ。そして、私はそのショックから、神崎医師の手によって「記憶の再構築」を施された。私の「完璧な記憶」は、あの悲劇を忘れるために、神崎医師によって作り上げられた、完璧な偽りの世界だったのだ。私が覚えている「交通事故」も、偽りの記憶だった。本当に起きたのは、ユウキの死という、もっと恐ろしい出来事だった。
ユウキの失踪事件の依頼は、神崎医師が私の記憶の定着度合いを測るために仕組んだものだった。彼女の妹も、その計画の一端を担っていたのだ。
あの緑色の絵。描かれていたのは、ユウキが苦しんだ記憶の混濁、そして、偽りの世界で生きる私への、警告だったのだ。絵の中の廃院の庭園は、私とユウキが共に治療を受けていた場所であり、ユウキが命を絶った場所だった。私が感じた石碑の冷たさは、彼女の墓標の感触だったのだ。
完璧な記憶。私の存在そのものが、巨大な嘘の上に成り立っていた。私の価値観は、根底から崩れ去った。
第四章 真実の欠片を紡ぐ
私は茫然自失のまま、隠し部屋の床に座り込んだ。壁にもたれかかり、遠い目をする。私の生きてきた世界は、全てが偽りだった。完璧な記憶を持つ私が、最も重要な真実から目を背けさせられていた。この虚無感は、今まで経験したどんな感情よりも深く、私を奈落の底へと引きずり込んだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。私はゆっくりと立ち上がり、隠し部屋にあった神崎医師の連絡先をメモし、その場を後にした。
翌日、私は神崎医師の隠れ家を突き止めた。郊外の、人里離れた古い一軒家だった。
玄関の扉を叩くと、中から現れたのは、やつれた顔の神崎医師だった。彼は私の顔を見ると、全てを悟ったかのように、静かに私を中へ招き入れた。
「全て、知ってしまったのですね」
神崎医師の声は、疲弊しきっていた。
「なぜ…なぜこんなことを?」私の声は、震えていた。
「君を、救いたかったからだ」彼は俯いた。「ユウキさんの死は、あまりにも唐突で、君の精神は崩壊寸前だった。君の持つ特異な記憶力は、その悲劇を永遠に忘れさせない。だから、私は…」
彼の言葉は、自分への言い訳のように聞こえた。しかし、その目には、後悔の色が深く刻まれていた。
「ユウキの妹も、協力者だったのね」
「彼女も、姉の死を乗り越えられず、君の救済に希望を託したんだ」
神崎医師は、ユウキの死後、記憶再構築の危険性を痛感し、研究から身を引いたという。そして、私を監視し、偽りの記憶が定着しているかを確認するために、あの「依頼」を仕組んだのだった。
私は、ユ崎の描いたあの緑の絵を思い出した。絵の具の厚み、筆致の激しさ、そして、そこに隠された歪んだ顔たち。それは、彼女が真実と偽りの間で苦悶した叫びだった。同時に、私に真実を知ってほしいという、最後のメッセージでもあったのだ。
私は、完璧な記憶を失った。あの廃院の庭園で、ユウキが命を絶った光景は、ぼんやりとした輪郭しか思い出せない。しかし、そのぼやけた記憶の中に、ユウキが最期に私に語りかけた言葉だけが、鮮明に蘇った。
「アヤ、生きて。真実を見つけて、生きて。」
私は、自分が誰なのか、この世界が本物なのか、という根本的な問いに直面した。これまで信じてきた「私」は、虚像だった。だが、ユウキの言葉と、この痛みだけが、私自身の真実だった。
完璧な記憶は、私を過去に囚われたままにしていたかもしれない。だが、今、私の記憶は壊れた。失われた記憶の欠片は、もう二度と元には戻らないだろう。しかし、その欠片の中から、私は初めて、自分自身の足で未来へと歩み出すことを決意した。
私はアパートの304号室に戻り、あの緑の絵をじっと見つめた。絵の中の歪んだ顔は、もはや私を呪うものではなかった。それは、真実を求める私の魂の叫びであり、同時に、未来への希望を宿す光のように見えた。
私は完璧な記憶を持たない。しかし、この壊れた記憶の欠片の中にこそ、私の新しい「私」が隠されている。痛みを受け入れ、曖昧な真実の中で、私は未来を紡いでいく。