残響のリフレイン

残響のリフレイン

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第一章 静寂を破る声

相馬律(そうま りつ)の世界は、常に厚い壁に守られていた。物理的には、防音材を幾重にも重ねた自室の壁。心理的には、外界のノイズを完璧に遮断する、愛用のノイズキャンセリングヘッドホン。音響デザイナーである彼にとって、静寂は仕事道具であり、聖域であり、そして何より、彼自身を守るための最後の砦だった。

律には秘密があった。三年前の冬、雑踏の中で起きた些細な事故をきっかけに、彼の耳は呪われた。死にゆく者の、断末魔ではない、その魂が最後に紡ぐ「言葉」だけが、何の脈絡もなく彼の鼓膜を直接揺さぶるようになったのだ。それは音波ではない。脳内に直接響く、抗いようのない侵入者だった。以来、彼は人混みを避け、他人との深い関わりを絶ち、ヘッドホンという結界の中で生きてきた。

その夜も、律はヘッドホンの中で純粋な音の波形を調整していた。窓の外では冷たい雨がアスファルトを叩いているはずだが、彼の耳には届かない。完璧な無音。その、はずだった。

『……青い、鳥籠……』

不意に、老婆のかすれた声が脳裏に響いた。ヘッドホンを突き抜け、頭蓋の内側から直接語りかけられたような、生々しい感触。律は全身の血が凍るのを感じた。この感覚は知っている。これは「最後の言葉」だ。そして、今聞こえたのは、隣室に一人で暮らす、腰の曲がった小柄な老女、福田千代の声だった。

律はヘッドホンをむしり取るように外し、壁に耳を押し当てた。しん、と静まり返っている。雨音すら遠い。ただ、心臓の鼓動だけが、耳元で警鐘のように鳴り響いていた。

千代とは、たまに廊下で会えば挨拶を交わす程度の仲だ。いつも穏やかに微笑み、「お仕事、大変ですね」と声をかけてくれる、陽だまりのような人。その彼女が? いま?

馬鹿な、考えすぎだ。最近疲れているから、幻聴を聞いたに過ぎない。律は自分にそう言い聞かせたが、一度芽生えた疑念は、じっとりとした湿気のように肌にまとわりついて離れなかった。結局、彼はその夜、一睡もできなかった。

翌朝、意を決して隣のドアをノックしたが、返事はなかった。胸騒ぎが頂点に達し、大家に連絡を取る。駆けつけた大家がマスターキーでドアを開けると、そこには、安らかな顔でベッドに横たわる千代の姿があった。駆けつけた医師は、老衰による心不全、いわゆる大往生だと告げた。事件性はない。誰もがそう結論づけた。

だが、律の耳には、あの言葉がこびりついていた。

『……青い、鳥籠……』

千代の部屋を見渡しても、そんな物はどこにも見当たらない。警察の簡単な現場確認でも、不審な点は何もなかった。

日常の中に穿たれた、小さな、しかし決して無視できない穴。律だけが知る、不自然な最後の言葉。彼の守り続けてきた静寂は、その日から静かに崩れ始めていた。

第二章 存在しない鳥籠

千代の葬儀は、遠い親戚だという数名によって、ひっそりと執り行われた。律は、アパートの住人として末席に参列したが、彼の心は晴れなかった。自然死。誰もが疑わない。だが、あの声は何だったのか。

「あの、福田さんの隣室の方ですよね?」

焼香を終えた帰り際、一人の男に声をかけられた。歳の頃は三十代半ば。黒いスーツを着こなしているが、どこか場違いなほど鋭い目つきをしている。千代の親戚だという男だった。

「少し、お話を伺えませんか。千代叔母の、最近の様子など」

男は自身を「遠縁の甥の、倉田」と名乗った。律は警戒しながらも、当たり障りのない会話を交わす。千代が穏やかに暮らしていたこと、特に変わった様子はなかったこと。

「そうですか……」倉田は何かを探るように律の顔をじっと見つめた。「何か、奇妙なことや、叔母が変わった物を欲しがっていた、なんてことはありませんでしたか?」

律の心臓が跳ねた。「変わった物、ですか?」

「ええ。例えば……そう、古い装飾品とか、置物とか」

青い鳥籠。その言葉が喉まで出かかったが、律は寸でのところで飲み込んだ。この能力のことは誰にも話せない。話したところで、精神の異常を疑われるだけだ。

「いえ、特に何も……」

律がそう答えると、倉田は失望を隠せない様子で、曖昧に頭を下げて去っていった。あの男は何かを知っている。あるいは、何かを探している。律の疑念は確信に変わった。

数日後、遺品整理業者が千代の部屋を空にしていくのを、律は自室のドアスコープから見つめていた。彼の内で、何かが焦り始めていた。このままでは、あの言葉の謎は、千代の思い出と共に永遠に処分されてしまう。

律は大家に頼み込み、業者が引き払った後の、空っぽになった千代の部屋に入らせてもらった。がらんどうの空間には、陽だまりの匂いと、微かな線香の香りが残っていた。壁のシミ、畳のへこみ。そこにかつてあった生活の痕跡が、今は亡き主の不在を雄弁に物語っていた。

律は、まるで現場検証をする刑事のように、部屋の隅々まで調べた。しかし、鳥籠どころか、鳥に関するものは何一つ見つからない。押し入れの奥、畳の下、天井裏。すべてが無駄だった。

「やっぱり、幻聴だったのか……」

床に座り込み、律は両手で顔を覆った。この三年間、彼を苛んできたのは、聞こえるはずのない声だけではない。その声が現実なのか、それとも自分の精神が生み出した幻なのか、その境界線が曖昧になることへの恐怖だった。千代の死は、その恐怖を再び呼び覚ました。自分は、静かに狂い始めているのではないか。

その時だった。押し入れの天袋の、さらに奥。指先に、硬い段ボールの感触が触れた。引きずり出すと、それは古びたアルバムだった。埃を払い、ページをめくる。セピア色に変色した写真の数々。若き日の、溌剌とした笑顔の千代がいた。その隣には、律の知らない精悍な顔つきの青年が、少し照れくさそうに立っている。

そして、ある一枚の写真に、律は釘付けになった。海辺で撮られたその写真。二人の足元に置かれたピクニックバスケットの上に、それはあった。手のひらに乗るほどの、小さなオルゴール。繊細な金属細工でできた、紛れもない「青い鳥籠」の形をしていた。

第三章 聞こえるべきではなかった後悔

青い鳥籠のオルゴール。それは確かに存在した。だが、なぜ千代は死の間際に、その言葉を口にしたのか。オルゴールは、部屋のどこにもなかった。

律はアルバムを抱えて自室に戻り、再びヘッドホンを装着した。外界を遮断し、思考に集中する。写真の中の千代は、幸せそうに微笑んでいる。このオルゴールは、彼女にとって大切な思い出の品だったに違いない。それを失くしてしまい、死の間際に悔やんでいたのだろうか。それならば、話の筋は通る。だが、律の心には、まだパズルのピースが一つ、しっくりとはまらないような違和感が残っていた。

その日の深夜。仕事を終え、ベッドに潜り込んだ律の耳を、再びあの不快な感覚が襲った。

『ごめん……間に合わなかった……』

若い男の声だった。苦痛と、深い後悔に満ちた響き。律は飛び起きた。まただ。誰かが、どこかで死んだのだ。

翌日のニュースで、近所の交差点でバイクの単独事故があり、二十代の男性が亡くなったことを知った。

律は混乱した。あの声は、事故で亡くなった男性のものだろう。だが、なぜ「間に合わなかった」? 彼は何に間に合わなかったというのか。

思考の海に沈むうち、律の中に、天啓のような、しかし恐ろしい仮説が浮かび上がった。

もし、自分の聞いている声が、死者本人の「最後の言葉」ではなかったとしたら?

もし、それが、誰かの死を悟った瞬間に、その死に対して、残された者が抱いた最も強い「後悔」や「想い」の念だったとしたら?

三年前の事故。律の目の前で車にはねられた女性。彼女の娘らしき少女が駆け寄り、泣き叫んでいた。あの時、律が聞いたのは「今日の夕飯、ハンバーグなのに」という、あまりに日常的な言葉だった。それは、死にゆく母親の言葉ではなく、母の死を目の当たりにした少女の、あまりに悲痛な後悔の叫びだったのではないか。今日、母の作るハンバーグが食べられない、という絶望。

そうだとしたら。千代の死の瞬間に聞こえた『青い、鳥籠』という言葉は、彼女自身の言葉ではない。彼女の死を知った「誰か」が、彼女の死に対して抱いた後悔の念なのだ。

では、誰が?

律の脳裏に、あの鋭い目つきの男、倉田の顔が浮かんだ。

この仮説が正しいなら、千代の死は、やはりただの自然死だったのだ。サスペンスも事件もない。あるのは、一人の人間の死と、それを取り巻く誰かの静かな悲しみだけだ。律は、自分が全く的外れな方向に突き進んでいたことに気づき、愕然とした。そして同時に、自分の能力の本当の意味を理解し、背筋が凍るような思いがした。自分は、死者の無念ではなく、残された者の、あまりに生々しい心の叫びを聞き続けていたのだ。それは、死者の声よりも、ずっと重く、悲しい響きを持っていた。

第四章 青い鳥の行方

律は、倉田に連絡を取った。近くの喫茶店で会う約束を取り付ける。もう、謎を解きたいという好奇心ではなかった。ただ、確かめなければならない。そして、伝えなければならないことがある、という衝動に駆られていた。

約束の時間、倉田はすでに来ていた。彼の前には、空のコーヒーカップが置かれている。

「どうも」律が席に着くと、倉田は探るような視線を向けた。「何か、思い出していただけましたか?」

「倉田さん」律は単刀直入に切り出した。「あなたが探しているのは、青い鳥籠のオルゴールですね」

倉田の目が、驚きに見開かれた。その反応が、すべてを物語っていた。

「なぜ、それを……」

「千代さんの部屋で、古い写真を見つけました。そこに写っていました」

律は続けた。「あなたは、本当は千代さんの親戚ではない。違いますか?」

観念したように、倉田は深くため息をついた。「……祖父の、遺言だったんです」

彼は、ぽつりぽつりと語り始めた。彼の祖父は、写真に写っていたあの青年だったこと。若い頃、千代と深く愛し合い、駆け落ちの約束までしていたこと。しかし、家の事情でそれは叶わず、二人は別れるしかなかった。青い鳥籠のオルゴールは、二人が別れる前に、祖父が千代に贈った、唯一の思い出の品だった。

「祖父は、生涯、千代さんのことを忘れられなかった。亡くなる直前、私に言ったんです。『千代君を探し出して、あのオルゴールを、もう一度この手で触りたい』と。そして、『もし叶わなければ、せめて彼女の幸せな最期を見届けてくれ』と……」

倉田は、何年もかけてようやく千代の居場所を突き止めた。しかし、彼がこのアパートに辿り着いた日、すでに千代は息を引き取った後だった。

「大家さんから、千代叔母が亡くなったと聞かされた時……頭が真っ白になりました。間に合わなかった、と。そして、ふと思ったんです。祖父とのたった一つの思い出の品、あの青い鳥籠のオルゴールは、どうなったんだろう、と。祖父の最後の願いを、何も叶えてやれなかった……」

その言葉を聞いた瞬間、律の中で最後のピースがはまった。『青い、鳥籠』。それは、千代の死を知った倉田の、祖父への申し訳なさと、果たせなかった約束への後悔が凝縮された、心の声だったのだ。

「オルゴールなら」律は静かに言った。「見つけました」

律は、倉田を連れてアパートに戻った。千代の部屋の、畳を一枚剥がす。床板の一部が、不自然に新しい。そこを開けると、小さな桐の箱が大切そうに置かれていた。中には、錆一つない、美しい青い鳥籠のオルゴールが納められていた。

倉田は、震える手でそれを受け取った。ぜんまいを巻くと、澄み切った、どこか切ないメロディが静かな部屋に響き渡る。それは、まるで長い時を超えて、二人の若者の声が聞こえてくるようだった。倉田の頬を、一筋の涙が伝った。

事件は解決した。いや、そもそも事件など存在しなかった。そこにあったのは、何十年という時を超えても色褪せることのなかった、静かで深い愛の物語だった。

アパートを出て、夕暮れの街を歩く。律は、ポケットからいつも入れていたヘッドホンを取り出し、ゆっくりとカバンにしまった。

ざわめき、クラクション、人々の話し声。今まで彼が必死に遮断してきた世界の音が、彼の耳に流れ込んでくる。その中に、時折、あの声が混じる。誰かが誰かを想う、後悔や、愛しさや、感謝の念。

もう、それは恐怖の対象ではなかった。それは呪いではなく、目には見えないけれど、確かに存在する、人と人との繋がりそのものなのだ。悲しくて、温かい、魂の残響。

律は、空を見上げた。茜色に染まる空に、一番星が瞬いている。

これから自分は、この無数の声たちと共に生きていくのだ。

彼は、三年間忘れていた、穏やかな微笑みを口元に浮かべた。世界は、こんなにも多くの声で満ち溢れていた。

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