ラストワードの聴罪師

ラストワードの聴罪師

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第一章 聞こえるだけの言葉

結城湊(ゆうき みなと)には、秘密があった。

それは、彼が触れた故人の、人生における「最後の言葉」が聞こえるという、呪いとも祝福ともつかない能力だった。納棺師という職業は、その能力を隠すには好都合だった。静謐な空気が支配する部屋で、湊は白手袋をはめた指先で故人の肌にそっと触れる。その瞬間、頭の中に、まるで古びたラジオから漏れるような、途切れ途切れの声が響くのだ。

「……ありがとう」

「……やっと、会える」

「……鍵は、机の三番目」

聞こえるのは、文脈を失った言葉の断片。湊はそれを感情を排して受け止め、仕事が終わると私用の黒い手帳に万年筆で書き留めるだけだった。それは彼にとって、単なるデータ収集に過ぎなかった。言葉の裏にある人生や感情の渦に深入りすれば、自分が摩耗するだけだと知っていたからだ。人の死を日常として扱うこの仕事において、過剰な共感は毒だった。だから彼は、聞こえてくる言葉に意味を求めず、ただの音として処理する術を身につけていた。

その日、彼が担当したのは、九十歳で大往生を遂げたという老婆だった。皺の刻まれた瞼をそっと閉じさせ、冷たくなった手に触れる。

『……アネモネ』

まただ。花の名前。時折、こういう抽象的な言葉が聞こえる。湊は表情一つ変えず、いつも通り粛々と納棺の儀を終えた。控室に戻り、手帳の新しいページに「アネモネ」とだけ記す。その前後のページには「夕焼けがきれい」「ごめんな」といった言葉が、墓石のように整然と並んでいた。

彼の心は、静かで、凪いでいた。死者の最後の言葉を聞き続けて二十年。どんな言葉を聞いても、彼の感情が揺さぶられることは、もうないはずだった。

その確信が、音を立てて崩れることになる一件が起きるまでは。

それは、うだるような夏の日の午後だった。警察から連絡が入ったのは、交通事故で亡くなった若い女性の案件だった。相沢沙耶(あいざわ さや)、二十七歳。遺体安置室の冷たいステンレス台に横たわる彼女の顔には、事故の凄惨さを物語る傷はほとんどなく、まるで眠っているかのように穏やかだった。

湊は息をひとつ吐き、手順通りに準備を始めた。消毒液と、遺族が持ってきたのだろう甘いフローラル系の香水が混じり合った、奇妙な匂いが鼻をつく。彼はそっと沙耶の頬に触れた。その瞬間、いつもとは違う、鋭利な棘のような言葉が彼の鼓膜を直接突き刺した。

『……嘘つき』

その一言は、憎悪でも、悲しみでもなく、まるで自らを嘲るかのような、乾いた響きを持っていた。湊の手が、一瞬止まる。なんだ、今のは。これまで聞いてきた数多の言葉とは明らかに異質だった。それは、誰かに向けられた非難というよりも、もっと深く、暗い場所から発せられた独白のように聞こえた。

部屋の外からは、堰を切ったような泣き声が聞こえてくる。おそらく、彼女の恋人だろう。「どうしてだよ、沙耶……あんなに、優しかったのに……!」その慟哭は、湊が聞いた『嘘つき』という言葉と、あまりにも不釣り合いだった。

初めて、湊の中で無視できない不協和音が鳴り響いた。彼は黒い手帳を取り出したが、その言葉を書き込むことができなかった。インクが紙に染み込むのを、なぜか躊躇してしまったのだ。その一言は、データとして処理するには、あまりにも生々しい感情の質量を伴っていた。

第二章 棘になった一言

相沢沙耶の葬儀は、彼女の明るい人柄を偲ばせるように、多くの若者で溢れていた。祭壇には、向日葵畑で満面の笑みを浮かべる彼女の写真が飾られている。その屈託のない笑顔を見つめるたび、湊の脳裏にはあの『嘘つき』という乾いた声が蘇り、胸の内に小さな棘が刺さったような鈍い痛みが走った。

「沙耶は、自分のことよりいつも他人を優先するような子でした。困っている人がいると、放っておけないんです」

弔辞を読む親友は、涙で声を詰まらせながら語った。恋人だと名乗った青年、健太は、憔悴しきった顔でただ一点を見つめている。誰もが彼女の「優しさ」を口にし、その早すぎる死を悼んでいた。その光景は、湊が今まで見てきた葬儀と何ら変わりない。しかし、そのすべてが、あの「最後の言葉」によって、まるで精巧に作られた舞台装置のように見えてしまった。

湊は仕事の合間を縫って、無意識に沙耶の人生の断片を探し始めていた。それは、彼の流儀に反する行為だった。故人に深入りしない。それが彼の鉄則だったはずだ。だが、彼の心を占拠した『嘘つき』という言葉は、彼を突き動かさずにはおかなかった。

彼はまず、自分の書斎に籠もり、埃を被った古い手帳の束を引っ張り出した。ページをめくると、インクの濃淡が異なる無数の「最後の言葉」が現れる。「愛してる」「すまない」「待っていて」。その多くは、遺される者へのメッセージだと解釈できるものだった。だが、中には「青い鳥はいない」「時計が逆回り」「海の底」など、意味の掴めない言葉も散見される。湊はこれまで、それらを故人の意識が混濁した末の譫言だと片付けてきた。だが、沙耶の一件以来、それらの言葉一つ一つが、未解決の謎のように思えてならなかった。

湊は、ごく個人的な興味だと断りを入れた上で、沙耶の遺品整理を手伝わせてほしいと遺族に申し出た。不審がられたが、彼の真摯な態度に、疲れ果てていた両親は承諾してくれた。

彼女の部屋は、住人の人柄を映すように、明るく整理整頓されていた。壁には友人たちとの楽しげな写真。本棚には旅行ガイドや料理のレシピ本が並ぶ。どこを探しても、「嘘」の影は見当たらない。健太の言う通り、彼女は陽だまりのような女性だったのだろう。

「湊さん、ありがとうございます。俺、まだ何も手につかなくて……」

部屋の隅で膝を抱えていた健太が、力なく呟いた。

「彼女は、本当に優しい人でした。喧嘩なんてしたこともない。俺に隠し事なんて、一つもなかったはずなんです」

その言葉が、湊の胸を再びちくりと刺した。本当に、そうだろうか。人は誰しも、最も近しい人間にさえ見せない顔を持っているのではないか。湊自身が、そうであるように。

「何か、変わったことはありませんでしたか。最近の彼女の様子で」

湊の問いに、健太はしばらく考え込んだ後、首を横に振った。

「いえ……ただ、少し疲れやすいみたいで、よく昼寝をしていました。でも、仕事が忙しいんだろうと……」

その時、湊の目に、本棚の隅に追いやられた一冊の古いノートが留まった。表紙には何も書かれていない、ごく普通の大学ノートだ。彼は何かに引かれるように、そのノートを手に取った。

第三章 嘘つきの告白

そのノートは、日記だった。

湊は健太と両親に断りを入れ、リビングのテーブルでページをめくり始めた。最初の数ページは、日々の出来事が他愛ない言葉で綴られていた。しかし、日付が一年ほど前に遡ると、その筆跡は徐々に乱れ、内容も深刻な色合いを帯びていく。

『病院で、検査結果を聞いた。信じたくない。なんで、私が』

『健太には言えない。お母さんたちにも。心配かけたくない。私が笑顔でいれば、誰も気づかないはず』

湊の心臓が、大きく脈打った。ページを繰る指が震える。そこには、明るく優しい相沢沙耶とは似ても似つかぬ、絶望と孤独に喘ぐ一人の女性の魂の叫びが記されていた。彼女は、進行性の難病を患っていたのだ。余命は、長くないと宣告されていた。

『薬の副作用で、体が鉛のように重い。笑顔を作るのが、日に日に辛くなる。でも、健太の前では笑っていなくちゃ。彼を悲しませたくない。私は、幸せな彼女でいなくちゃいけない』

『みんなに嘘をついている。優しい友人にも、愛する家族にも。私の人生は、巨大な嘘で塗り固められている。息をするのと同じくらい、自然に嘘をついている』

事故死。警察はそう結論づけていた。だが、日記の内容から察するに、事故は病気による発作が引き起こしたものだった可能性が高い。彼女の死は、突然の悲劇ではなく、静かに進行していた病の、必然的な結末だったのだ。

湊は息を呑んだ。そして、最後の日付が記されたページに辿り着く。それは、彼女が亡くなる前日のものだった。震えるような、か細い文字で、最後の告白が綴られていた。

『もう、限界かもしれない。意識が時々遠くなる。ごめんなさい、みんな。最後まで嘘をつき通すことが、私の精一杯の愛情でした。健太、あなたに会えて本当に幸せだった。でも、あなたの隣で未来を語る資格は、私にはなかった。こんな私を、どうか許さないで。……ああ、神様。私は、なんて浅ましくて、救いようのない――』

文章は、そこで途切れていた。

湊は、雷に打たれたような衝撃と共に、すべてを理解した。

彼女が最後に発した『嘘つき』という言葉。それは、健太や家族に向けられたものではなかった。ましてや、誰かへの恨み言などでは断じてない。

それは、病を隠し、偽りの笑顔を浮かべ続け、愛する人たちを欺き通した、自分自身の人生そのものに向けられた、痛切な自己への断罪の言葉だったのだ。

湊は顔を上げた。窓の外では、夕日が街を茜色に染めている。彼はこれまで、何百という「最後の言葉」を聞いてきた。だが、その本当の意味を理解しようとしたことは一度もなかった。それらは他者へのメッセージだと、一方的に思い込んでいた。しかし、違ったのだ。人生の最期に人が発する言葉は、誰かに聞かせるためだけのものではない。それは、後悔であり、懺悔であり、あるいは自分自身への赦しを乞う、魂の独白なのだ。

彼は、故人の最も神聖で、プライベートな瞬間に、土足で踏み入っていたに過ぎないのではないか。自分の能力に対する認識が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。それは恐怖にも似た畏怖の念だった。同時に、相沢沙耶という一人の女性が、命の瀬戸際で抱え続けた孤独と愛情の深さに、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

彼の心に長年巣食っていた、冷たく硬い殻に、確かな亀裂が入った瞬間だった。

第四章 声なき声の聴き手

湊は、日記を健太に手渡した。

「……これを」

健太は訝しげに受け取り、ページをめくり始めた。彼の表情が、驚き、混乱、そして深い悲しみへと変わっていくのを、湊はただ静かに見つめていた。やがて、健太の肩が小刻みに震え始め、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、葬儀の時のような慟哭ではなく、真実を受け止めた者の、静かで、しかし深い嗚咽だった。

「そうだったのか……あいつ、ずっと、一人で……」

健太は日記を胸に抱きしめた。「気づいてやれなくて、ごめん……沙耶……」

彼の言葉は、もはやこの世にいない沙耶には届かない。だが、その言葉に込められた想いは、きっと彼女の魂に届いているはずだと、湊はなぜか確信できた。嘘で固められた彼女の人生は、その嘘によって守られた恋人の、心からの言葉によって、ようやく救われたのかもしれない。

数日後、湊は自分の書斎で、あの黒い手帳を開いていた。彼は万年筆を手に取り、「相沢沙耶」の項に、こう書き加えた。

『嘘つき』――それは、愛ゆえの孤独な告白。

彼は、手帳の束を一つ一つ手に取り、これまで記録してきた言葉たちを、まったく新しい視点で見つめ直した。『アネモネ』と言った老婆は、夫との思い出の花を思い浮かべていたのかもしれない。『青い鳥はいない』と呟いた男は、叶わなかった夢に別れを告げていたのかもしれない。

一つ一つの言葉の裏に、語り尽くせぬ人生の物語が横たわっている。彼はその声なき声の、ほんの入り口を覗いていたに過ぎなかったのだ。

湊の納棺師としての仕事への向き合い方は、その日を境に完全に変わった。彼はもはや、単なる記録者ではなかった。故人が人生の最後に紡ぎ出す、たった一言の物語に、敬意をもって耳を傾ける「聴罪師」であり、「聞き手」となったのだ。

彼の仕事ぶりは、より丁寧で、慈愛に満ちたものになった。故人の顔を清めるその手つきには、一つの人生を締めくくることへの畏敬の念が込められていた。

季節が巡り、冷たい風が吹くようになったある日。湊は、新たな仕事のために一軒の家を訪れた。病で長年寝たきりだったという老人の、穏やかな寝顔がそこにあった。

湊は白手袋をはめ、そっとその手に触れた。

目を閉じ、意識を集中させる。どんな言葉が聞こえてきても、もう恐れはなかった。その一言に込められた人生の重みを、今の自分なら、きっと受け止められる。

やがて、彼の頭の中に、温かく、そして少し掠れた声が響いた。

『……ああ、よく眠った』

そのあまりに平凡で、しかし満ち足りた響きを持つ言葉に、湊の口元に、ふっと柔らかな笑みが浮かんだ。彼は心の中で静かに頷き、その安らかな旅立ちを祈った。

彼の黒い手帳の、最後のページはまだ空白のままだ。これから記されていくであろう無数のラストワードは、彼の心を豊かにし、そして生きることの意味を、静かに問いかけ続けるだろう。死者の声を聞くという彼の孤独な能力は、今、他者と、そして自分自身の生と深く繋がるための、かけがえのない架け橋となっていた。

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