第一章 勿忘草の破片
湊(ミナト)の世界は、あの日から色を失っていた。半年前に恋人の小夜(サヨ)を突然の事故で亡くして以来、彼の時間は灰色にくすみ、音は遠のき、味は砂のようだった。降りしきる梅雨の雨が、窓ガラスを叩く音だけが、やけに鮮明に鼓膜を揺さぶる。まるで世界そのものが泣いているかのようだ、と彼は自嘲した。
その日も、傘もささずに街を彷徨っていた。冷たい雨がシャツに染み込み、体温を奪っていく。逃げるように飛び込んだのは、埃と古紙の匂いが充満する、路地裏の古書店だった。無数の背表紙が静かに彼を見つめる中、一冊の本が彼の視線を捕らえた。革装のそれは、タイトルも著者名もなく、ただ中央に銀色の箔押しで『失われたもの、此処に在り』とだけ記されている。
何かに引き寄せられるように、湊は本を手に取った。ずしりと重い。指先が触れた瞬間、銀の文字が淡い光を放った気がした。ページをめくると、そこには文字ではなく、見たこともない複雑な紋様が描かれているだけだった。失望と安堵が入り混じったため息をつき、本を閉じようとしたその時。彼の指から滴り落ちた雨粒が、紋様の上に落ちた。
瞬間、紋様が眩い光の渦と化し、湊の身体を呑み込んだ。浮遊感とも落下感ともつかない感覚の後、彼が次に目を開けた時、そこに古書店はなかった。
目の前に広がっていたのは、信じがたい光景だった。空は七色の大理石模様を描き、地面からはガラス細工のような植物が生えている。そして何より異様なのは、空気中を漂う、形ある「何か」だった。悲しげな青い霧が足元を這い、触れると胸が締め付けられる。かと思えば、歓喜に満ちた金色の蝶が舞い、その羽ばたきは心を浮き立たせた。ここは、感情や概念が物理的な実体を持つ世界らしかった。
呆然と立ち尽くす湊の足元で、何かがキラリと光った。拾い上げてみると、それは小指の爪ほどの、青みがかった結晶の破片だった。その形に見覚えがあった。小夜がいつも髪に着けていた、勿忘草の髪飾り。湊が初めて彼女に贈った、思い出の品だ。
結晶を握りしめると、脳裏に鮮やかな記憶が流れ込んできた。公園のベンチで、はにかみながら髪飾りを受け取る小夜の笑顔。風に揺れる彼女の髪の匂い。その温かさに、湊の凍てついた心が、ほんの少しだけ溶けるのを感じた。
「小夜……?」
声が震えた。もしかしたら、この世界でこの結晶――憶晶石(おくしょうせき)とでも呼ぶべきか――を集めれば、失われた小夜の記憶を、彼女自身を取り戻せるのではないか。灰色だった湊の世界に、一条の、しかしあまりにも切実な光が差し込んだ。彼は顔を上げ、この不可思議な世界の深淵へと、一歩を踏み出した。
第二章 悲しみの沼と喜びの蝶
象形界、と湊はその世界を名付けた。あらゆる概念が形を成すこの場所で、彼の旅は始まった。勿忘草の形をした憶晶石の破片は、どうやら強い「喪失」の感情が漂う場所に惹かれるようだった。
彼は「後悔」が作り出した底なし沼を慎重に渡った。一歩踏み外せば、過去の苦い選択が泥のように絡みつき、永遠に沈んでしまいそうな恐怖があった。沼のほとりで、彼は二つ目の憶晶石を見つけた。それを手にすると、些細なことで小夜と喧嘩してしまった夜の、気まずい沈黙の記憶が蘇った。胸は痛んだが、その痛みすら愛おしかった。
次に訪れたのは、「平穏」が作り出した静謐な湖だった。水面は鏡のように空を映し、時間の流れさえ止まっているかのようだった。ここでは、穏やかな記憶が蘇った。二人で寄り添い、ただ夕日を眺めていた、何でもない日の午後。三つ目の憶晶石は、湖の底で優しい光を放っていた。
旅の途中、湊は一人の物静かな人物と出会った。リノと名乗るその者は、性別も年齢も判然としない中性的な容姿で、いつも少し離れた場所から湊の旅を見守っていた。リノは多くを語らなかったが、湊が「絶望」の崖から足を踏み外しそうになった時は、その腕を掴んで引き上げてくれた。
「君は、何を探している?」
ある夜、焚火の炎を見つめながらリノが静かに尋ねた。
「失くしたものを。俺にとって、世界そのものだった人を」
湊は、集めた憶晶石を掌で転がしながら答えた。欠片が増えるたびに、小夜の記憶は鮮明になる。しかし同時に、言いようのない虚しさが胸の奥で広がっていくのを感じていた。まるで、美しい絵画のピースを集めているようで、完成に近づくほど、それが本物の風景ではないという事実を突きつけられるような感覚だった。
「その輝きは、本当に君だけのものかい?」
リノの言葉は、謎めいていた。湊がその意味を問い返そうとすると、リノはただ静かに首を振り、金色の蝶が舞う方角を指さした。
「喜びの記憶だけが、温かいとは限らない。悲しみの記憶だけが、冷たいとも限らない。光が強ければ、影もまた濃くなる」
リノの言葉を反芻しながら、湊は旅を続けた。憶晶石は九つになった。あと一つ。最後の欠片は、「忘却」が支配するという谷の底にあるという。そこへ行けば、小夜の全てが完成する。湊は期待と、そして正体不明の不安を胸に、世界の最深部へと向かった。
第三章 忘却の谷の鎮魂歌
忘却の谷は、静寂と忘失の気配に満ちていた。あらゆる色が抜け落ち、モノクロームの霧が立ち込めている。一歩進むごとに、自分の名前さえ曖昧になっていくような心細さに襲われた。湊は小夜の名前を何度も心の中で唱え、意識を繋ぎとめた。
谷の最深部で、彼はそれを見つけた。
巨大な、心臓のように明滅を繰り返す憶晶石の母岩。これまで集めてきた欠片は、この巨大な結晶体から剥がれ落ちたものなのだと直感した。そして、その中央付近に、最後の一片が、勿忘草の花の形を保ったまま、埋まっていた。
「あれだ……」
湊は、吸い寄せられるように母岩に近づいた。手を伸ばし、最後の欠片に指が触れようとした、その瞬間。
「待て!」
鋭い声が響き、リノが彼の腕を掴んだ。その表情には、これまで見たことのない切迫感が浮かんでいた。
「それを抜いてはならない」
「どうしてだ! これで小夜が……小夜の記憶が完成するんだ!」
リノは悲しげに首を振った。「君が集めていたのは、本当に彼女だけの記憶だったと思うのか?」
その言葉に、湊は息を呑んだ。脳裏に、リノの以前の問いが蘇る。「その輝きは、本当に君だけのものかい?」
「この憶晶石は、一人の人間の記憶などではない」とリノは語り始めた。「これは、この象形界に流れ着いた、ありとあらゆる魂の『喪失の記憶』そのものだ。愛する者を失った悲しみ、果たせなかった約束の後悔、届かなかった想い……無数の魂が遺した、行き場のない感情の集合体なのだ」
リノの指し示す母岩は、ただ美しく輝いているのではなかった。よく見れば、その光の明滅は、苦痛に喘ぐ巨大な心臓の鼓動のようにも見えた。
「君の恋人の記憶は、その途方もない悲しみの奔流の中の、ほんの一滴に過ぎない。君が彼女を強く想うから、君には彼女の記憶として感じられただけだ」
衝撃の事実に、湊は言葉を失った。自分が集めてきた温かい記憶は、小夜だけのものではなかった? あの喧嘩の夜の後悔も、夕日を眺めた平穏も、見知らぬ誰かのものだったというのか?
「この母岩は、それら無数の悲しみを結晶として封じ込め、この世界が『悲しみの霧』に呑み込まれるのを防ぐ、鎮魂の装置なのだ」リノの声は、祈りのように響いた。「君が欠片を集めたことで、その封印はすでに綻び始めている。もし最後の欠片を抜けば、母岩は崩壊する。抑えられていた全ての悲しみが解放され、この世界は……永遠の慟哭に沈む」
湊は、呆然と母岩を見上げた。自分のエゴが、個人的な喪失感が、世界そのものを破壊しようとしていた。小夜を取り戻したいという願いは、無数の人々の魂の安寧を脅かす、呪いだったというのか。
彼は膝から崩れ落ちた。手の中の九つの憶晶石が、今は恐ろしく重い罪の塊のように感じられた。
第四章 君のいない世界で
絶望が、忘却の谷の霧よりも濃く、湊の心を覆った。小夜の記憶を手に入れることは、世界の終わりを意味する。だが、ここで諦めれば、彼女の記憶は再び無数の悲しみの中に溶け、永遠に失われる。どちらも地獄だった。
彼は掌の上の憶晶石を見つめた。一つ一つの輝きの中に、蘇ったはずの小夜の笑顔が揺らめいている。しかし今、その奥に、別の顔が見える気がした。見知らぬ老人の安らかな寝顔、戦場で友を失った兵士の涙、我が子を抱きしめる母親の温もり。そうだ、自分は感じていたのだ。これは小夜だけの記憶ではないと、心のどこかで気づいていた。それでも、気づかぬふりをしていただけだった。
小夜を失った悲しみは、自分だけの特権だと思っていた。だが、世界にはこれほどの喪失が満ちていたのだ。青い霧の悲しみも、金色の蝶の喜びも、全ては誰かが確かに生きた証だった。
湊は、ゆっくりと立ち上がった。その顔には、もう迷いはなかった。彼は母岩に向かって歩き出すと、最後の欠片を抜き取るのではなく、掌の上の九つの憶晶石を、一つ、また一つと、母岩の欠けた部分へとそっと戻していった。
「さよなら、小夜」
それは、諦めの言葉ではなかった。手放すことで、初めて本当に受け入れることができる。自分の記憶の中に彼女を閉じ込めるのではなく、無数の魂たちの記憶と共に、この世界に彼女を還す。それが、湊が見つけた唯一の弔いだった。
全ての欠片が母岩に戻った瞬間。巨大な憶晶石は、これまでとは比べ物にならないほど温かく、そして清らかな光を放った。光が湊を包み込み、彼の心に、最後の記憶が流れ込んできた。
それは、事故の直後、薄れゆく意識の中で、小夜が湊に遺した想いだった。
『ありがとう、ミナト。会えてよかった』
別れの言葉ではない。感謝の言葉だった。
『私のことは忘れていいから。あなたは、あなたの時間を生きて』
優しい、あまりにも優しい声だった。涙が、湊の頬を止めどなく流れた。しかし、それはもはや絶望の涙ではなかった。
気づくと、湊は再びあの古書店に立っていた。外では、いつの間にか雨が上がっていた。窓から差し込む西日が、埃っぽい店内をキラキラと照らしている。手の中にあったはずの本も、憶晶石も、どこにもない。まるで長い夢を見ていたかのようだ。
湊は、店の外へ出た。雨上がりの澄んだ空気は、草木の匂いを運んでくる。空には大きな虹がかかっていた。
もう、小夜の顔をはっきりと描くことはできないかもしれない。声も、仕草も、いつかは忘却の彼方に消えていくだろう。
しかし、それでいいのだ。
失われたものは、無に帰したわけではない。彼女の記憶も、象形界で出会った無数の魂の想いも、世界のどこかで誰かの心を支える、見えない光になっている。湊の胸の中には、小夜が遺してくれた温もりと、彼が受け入れた世界の悲しみが、確かに息づいていた。
彼は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。そして、虹の架かる道の先へ、ゆっくりと、しかし確かな一歩を踏み出した。君のいない、しかし君のいたこの世界で、自分の時間を生きていくために。