言霊の庭と、最後の物語

言霊の庭と、最後の物語

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第一章 白紙の書と囁く世界

水月奏(みづき そう)にとって、世界は常に一枚の厚いガラスで隔てられているようだった。街の喧騒も、人々の笑い声も、どこか遠い場所の出来事として彼の耳を滑っていく。市立図書館の古書修復室。それが彼の世界のすべてだった。黴と古い紙の匂いが混じり合った静寂の中、彼は誰にも邪魔されず、傷ついた本の背を直し、破れたページを繕う。言葉は好きだった。しかし、それはページに綴じられた、死んで動かぬ言葉だけだ。生きた言葉を交わす会話は、彼をひどく消耗させた。

その日も、奏は寄贈された古書の山に埋もれていた。埃を払い、一冊ずつ状態を確認していく単調な作業。その中で、彼は奇妙な一冊を見つけた。革と思しき装丁には、タイトルも著者名も刻まれていない。まるで無地のノートのようだったが、その質感は数百年を経たかのような古格を漂わせていた。好奇心に駆られ、そっとページをめくる。

中は、真っ白だった。インクの染み一つない、純白のページが延々と続いている。失望のため息をつき、本を閉じようとした、その瞬間。指先がページに触れた途端、世界がぐにゃりと歪んだ。

視界が白い光で塗りつ潰され、図書館の匂いがふっと消える。代わりに、蜜のように甘く、それでいて澄み切った花の香りが鼻腔を満たした。目を開けると、奏は言葉を失った。

そこは、光で編まれた庭園だった。足元には柔らかな苔が光の粒子を放ち、周囲には見たこともない植物が、自ら淡い燐光を放ちながら揺れている。空には太陽も月もなく、ただ穏やかな薄明の光が世界を均一に照らしていた。風が頬を撫でると、チリン、と鈴のような音が響く。それは風に舞う光の結晶が立てる音らしかった。

「……どこだ、ここは」

呟いた奏の声は、彼の口から離れた瞬間、小さな青い光の玉となり、ふわりと宙に浮かんで弾けた。驚いて息を呑む。自分の言葉が、形になったのだ。

混乱する彼の前に、一人の少女が姿を現した。亜麻色の髪を揺らし、透き通るような白いワンピースを着た、十歳くらいの少女。彼女は奏の足元で躊躇うように咲いた、小さな青い光の花を指さした。

「きれいな色……」

少女は屈み込み、その光の花を愛おしそうに撫でた。そして、真っ直ぐな瞳で奏を見上げる。

「あなたのお名前は? あなたの言葉は、どんな色をしているの?」

その問いは、ガラスの向こう側からではなく、真っ直ぐに奏の胸に届いた。彼は、うまく返事をすることができなかった。

第二章 言葉が紡ぐ安らぎ

少女はリラと名乗った。彼女はこの「言霊(ことだま)の庭」で、ずっと一人で暮らしているという。奏は自分の置かれた状況が理解できなかったが、リラの無垢な存在が、彼の警戒心を少しずつ解かしていった。

「ここはね、言葉が形になる世界なの」

リラはそう言って、にこりと笑った。「ありがとう」と彼女が言うと、その口元から温かいオレンジ色の蝶が生まれ、ひらひらと舞い上がった。「楽しい」と笑えば、きらきらと輝く星屑が辺りに降り注ぐ。逆に、奏が内心で抱いた戸惑いや不安は、淀んだ灰色の靄となって足元に漂った。

奏は、自分の内面がこれほどまでに可視化されることに恐怖を覚えた。現実世界で彼が押し殺してきた感情が、ここでは無防備に晒されてしまう。彼は喋ることをやめ、黙り込んだ。すると、彼の周りからは一切の光が生まれなくなり、ただ沈黙の影が落ちるだけだった。

そんな彼に、リラは根気強く寄り添った。彼女は奏の手を取り、庭の美しい場所を案内してくれた。言葉を発さずとも、彼女の周りには常に優しい光が満ち溢れていた。その光に照らされていると、奏の心のささくれが、少しずつ癒されていくような気がした。

ある日、リラがぽつりと言った。

「奏の言葉が、見てみたいな。どんなお話でもいいの」

その純粋な眼差しに、奏は抗えなかった。彼は、現実世界で誰にも話したことのなかった、幼い頃に母から聞かされたおとぎ話の記憶を、辿々しく語り始めた。

「むかしむかし、月の雫を集めて作られた、銀色の狼がいました……」

彼の声は震えていた。だが、その言葉は、確かに形を成した。銀色の光の粒子が集まり、美しい狼の姿を形作る。狼は夜の闇を思わせる深い蒼色の光を纏い、庭を駆け抜けた。リラは歓声を上げ、その光の狼を追いかけた。

奏は、生まれて初めて、自分の言葉が誰かを喜ばせるという経験をした。胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。彼は次々と物語を紡いだ。空を泳ぐ魚の話、星を食べる巨人の話、七色の涙を流すお姫様の話。そのたびに、庭は色とりどりの光景で満たされていった。奏の言葉は、もはや淀んだ靄ではなく、鮮やかで力強い光となって世界を彩っていた。

いつしか奏は、この庭を自分の本当の居場所だと感じるようになっていた。現実世界の、あの息苦しいガラスの部屋には戻りたくない。リラの笑顔が隣にある、この光の庭で、永遠に物語を紡いでいたい。彼は心の底からそう願っていた。

第三章 砕け散る楽園

奏がこの世界に来てから、どれくらいの時が経ったのだろうか。時間の感覚は曖昧だったが、彼とリラが紡いだ光は、庭の一角を小さな楽園に変えていた。しかし、その楽園に、ある時から静かな影が差し始める。

リラの体が、時折、ふっと透けるようになったのだ。彼女が笑うと生まれる光の蝶も、以前より力がなく、すぐに消えてしまう。奏が心配して尋ねても、リラは「大丈夫」と笑うだけだった。だが、彼女の笑顔そのものが、儚く揺らめいているように見えた。

ある夜、リラは急に苦しみだし、その場にうずくまった。彼女の体から光が急速に失われ、ワンピースの白さが色褪せていく。

「リラ!」

奏が駆け寄ろうとした時、庭の最も深い場所から、静かな声が響いた。

「その子に触れてはならぬ。おぬしの言葉で、あの子の魂を繋ぎ止めるのだ」

声のした方を見ると、そこに立っていたのは、樹の皮のような皺を顔に刻んだ老人だった。彼は庭そのものが意思を持ったような、不思議な存在感を放っていた。

「あなたは……?」

「わしはこの庭の番人。そして、終わりを待つ魂たちの案内人じゃ」

老人は静かに語り始めた。その言葉は、奏が築き上げた安らぎの世界を根底から破壊する、残酷な真実だった。

「この言霊の庭は、現実の世界で、肉体という器を離れた魂が、最期の時を過ごす場所。いわば、黄昏の停留所よ」

「……魂? じゃあ、リラは……」

「あの子は、この庭で最も長くおぬしを待ち続けた魂。……おぬしが忘れてしまった、たった一人の妹、水月遥(みづき はるか)の魂じゃ」

遥。その名を聞いた瞬間、奏の頭を激痛が襲った。封印していた記憶の扉が、軋みながらこじ開けられる。

―――幼い頃、公園からの帰り道。手を繋いでいたはずの妹。飛び出してきた車。甲高いブレーキ音。小さな手が、彼の指から滑り落ちる感触。

奏は、十年前のあの日から、妹が植物状態で病院のベッドに眠り続けているという現実から目を背けてきた。妹の存在そのものを、記憶の奥底に塗り込めて生きてきたのだ。

「あの子は、尽きかけている命の灯火のすべてを使って、おぬしをここに呼び寄せた。もう一度、大好きなお兄ちゃんの、優しい言葉が聞きたかったのじゃよ。おぬしがこの世界で紡ぐ物語は、あの子の魂を彩る、最後の光だったのじゃ」

奏は愕然とした。自分の逃避場所だと思っていたこの美しい世界は、妹の命そのものだった。自分が感じていた安らぎは、消えゆく妹の魂の上で成り立つ、あまりにも身勝手な幻だったのだ。足元から世界が崩れ落ちるような感覚。彼が紡いだ光の狼も、空飛ぶ魚も、今はすべてが妹の命を削って生まれた、悲しい幻影にしか見えなかった。

「ああ……」

奏の口から漏れたのは、言葉にならない、黒い絶望の澱だった。楽園は、音を立てて砕け散った。

第四章 君に捧ぐ言の葉

目の前で苦しむリラ――遥の姿と、老人の言葉が、奏の心を抉った。自分はなんて愚かだったのだろう。妹の命の叫びを、心地よい物語として消費していただけではないか。自己嫌悪が黒い棘となって、彼の全身を突き刺す。

しかし、俯く彼の脳裏に、リラの屈託のない笑顔が蘇った。彼女は一度も彼を責めなかった。ただ、純粋に彼の言葉を求め、その光に喜び、笑っていた。遥は、兄を憎んでいたわけではない。ただ、もう一度、会いたかったのだ。兄の優しい声が、聞きたかったのだ。

奏は顔を上げた。涙が頬を伝っていたが、その瞳にはもう迷いはなかった。彼は、逃げるのをやめる。忘れていた妹と、そして彼女の「死」と、真正面から向き合うことを決意した。

彼はゆっくりと遥のそばに膝をつき、その冷たくなりかけた小さな手を、そっと握った。

「遥……ごめんな。ずっと、一人にして」

彼の言葉は、震えながらも、温かい黄金色の光となって遥を包んだ。それは、おとぎ話の光ではない。真実の、そして悔恨の光だった。

「遥に、最後の物語を聞かせるよ。これは、僕とお前が、本当に一緒に過ごした日々の物語だ」

奏は語り始めた。それは、彼が必死に忘れようとしていた、かけがえのない記憶の断片だった。

初めて二人で自転車に乗れた日。公園のブランコをどちらが高く漕げるか競ったこと。些細なことで喧嘩して、母に叱られた夜。ベランダに出て、一緒に流れ星を探した夏。

彼の言葉の一つ一つが、力強い光の奔流となった。庭は、二人の思い出の光景で満たされていく。公園の砂場が、夏の夜空が、幼い兄妹の笑い声が、幻想的な光となって庭を駆け巡った。それは、この言霊の庭が始まって以来、最も強く、最も美しい光だった。

遥の苦しげな表情が、次第に和らいでいく。透き通った瞳が、穏やかに奏を見つめていた。

「……思い出した。ぜんぶ、思い出したよ」

か細い声が、光の旋律となって響く。

「楽しかったね、お兄ちゃん。……ありがとう」

遥は、満足げに微笑んだ。その体は眩い光に包まれ、ゆっくりと粒子になって空へ溶けていく。奏は涙を流しながら、ただ、その光景を見送った。光が完全に消え去った時、庭は静寂に包まれた。

気づくと、奏は図書館の修復室の床に座り込んでいた。頬には、乾いた涙の跡があった。目の前には、あの白紙だった本が開かれている。しかし、ページはもはや白紙ではなかった。そこには、彼が最後に遥に語った物語が、一字一句、美しい金色のインクで綴られていた。

奏は本を抱きしめ、図書館を飛び出した。向かったのは、十年もの間、足を運ぶことを避けてきた病院だった。

病室のドアを開けると、そこには静かに眠る遥がいた。生命維持装置の電子音が、無機質に響いている。奏はベッドの傍らに座り、妹の痩せた手を握った。もう、その手が握り返されることはない。

だが、彼の心は不思議と穏やかだった。虚無感ではなく、確かな温もりがそこにあった。自分は、妹と確かに心を通わせたのだ。彼女が遺してくれたこの温もりと、言葉の本当の力を胸に、生きていこう。

数日後、奏は自分の机に向かっていた。真っ白な原稿用紙を前に、彼は万年筆を握る。かつて彼を世界から隔てていたガラスは、もうない。彼の瞳には、静かだが、揺るぎない意志の光が宿っていた。

彼は、新しい物語の第一行を、ゆっくりと書き始めた。それは、誰かの孤独な心に寄り添うための、温かい言葉を紡ぐ、彼の人生という物語の、本当の始まりだった。

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