第一章 染み出す色彩
水上蓮(みなかみ れん)の日常は、無味乾燥なグレースケールで塗り固められていた。かつては色彩豊かな空想の世界を描くことに情熱を燃やしたイラストレーターだったが、今ではクライアントの意向という名の細い枠線の中だけで、決められた色を流し込む作業を繰り返す日々。夢はとうにすり減り、想像力は埃をかぶった画材道具と共に、部屋の隅で眠りについていた。
その均衡が、音もなく崩れ始めたのは、梅雨時の湿った空気があらゆる隙間に満ちる、ある月曜日の朝だった。
最初に気づいたのは、壁の染みだ。コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンション。その無機質な壁の一点から、まるで水彩絵の具を滲ませたように、鮮やかな翠色が広がっていた。蓮は寝ぼけ眼をこすり、指で触れてみる。ひんやりとした湿り気。雨漏りだろうか。しかし、そこから漂うのはカビ臭さではなく、雨上がりの森のような、濃密で清浄な苔の香りだった。
奇妙な出来事は、それだけでは終わらなかった。翌日、翠色の染みはさらに広がり、その中心には、見たこともない羊歯植物の小さな芽が顔を出していた。窓もない壁の中から、植物が生えるなどあり得ない。蓮は疲労による幻覚だと自分に言い聞かせ、カフェインを過剰摂取して仕事を続けた。だが、彼の理性を嘲笑うかのように、部屋の侵食は加速していく。
数日後には、壁から染み出した水が床を濡らし、小さなせせらぎを作っていた。それはただの水ではなかった。月光を溶かし込んだかのように淡く発光し、触れると心の奥底に忘れていた童謡が響くような、不思議な清涼感があった。足元では、紫水晶の結晶のようなキノコが群生し、天井からは銀色の露を滴らせる蔓植物が垂れ下がり始めていた。
蓮の部屋は、もはや彼の知るワンルームではなくなっていた。現実と幻想の境界線が溶け出し、彼のパーソナルスペースを、名も知らぬ異世界が静かに、しかし着実に侵略していたのだ。彼は誰にも相談できず、ただ茫然と、自室が未知の生態系へと変貌していくのを眺めているしかなかった。この異常事態の源が、彼自身の内にある、最も深い場所から溢れ出しているとは、まだ知る由もなかった。
第二章 名前のない案内人
蓮の部屋は、一週間で小さな森と化した。床にはビロードのような苔が広がり、壁のせせらぎは小さな滝となって、絶えず清らかな水音を響かせている。仕事用のデスクは蔦に覆われ、液晶タブレットの画面には、燐光を放つ蝶が羽を休めていた。蓮は外界との接触を完全に断ち、この静かな侵略に身を委ねるように引きこもっていた。恐怖はいつしか麻痺し、奇妙な居心地の良ささえ感じ始めていた。
そんなある夜、滝のほとりで光る何かが動いたのに気づいた。それは体長十センチほどの、リスと狐を混ぜ合わせたような姿の小動物だった。全身が真珠色の柔らかな毛で覆われ、その毛の一本一本が内側から発光しているように見える。大きな瑠璃色の瞳が、じっと蓮を見つめていた。
蓮が恐る恐る手を伸ばすと、その生き物は逃げるどころか、小さな鼻をくんくんと鳴らしながら、彼の指先にすり寄ってきた。その瞬間、頭の中に直接、鈴を転がすような声が響いた。
《やっと、気づいてくれたんだね》
テレパシー。非現実的な現象の連続に、蓮の思考はもはや驚きを放棄していた。「君は……誰だ?」と心の中で問いかける。
《僕は、名前のないもの。君が僕らに名前をくれるのを、ずっと待っていた》
その声には、深い懐かしさと、微かな寂しさが滲んでいた。蓮は、この光る生き物に触れていると、ささくれ立った心が穏やかになっていくのを感じた。彼は無意識のうちに口を開いていた。
「ノクス……。夜の光みたいだから、君はノクスだ」
《ノクス……。うん、いい名前だ。ありがとう、創造主》
創造主、という言葉に蓮は首を傾げたが、ノクスは嬉しそうに彼の周りを跳ね回った。それから、奇妙な共同生活が始まった。ノクスは蓮に、この世界のことを少しずつ教えてくれた。壁から生える植物は「月詠草(つくよみそう)」、水晶のキノコは「響石(ひびきいし)」、天井から滴る露は「星の涙」という名前だと。それらはすべて、蓮が口にした途端、正式な名前として世界に定着していくようだった。
蓮はいつしか、クライアントからの催促の電話も無視し、ノクスと共に部屋の中の森を探検するようになっていた。苔の感触を確かめ、せせらぎの音に耳を澄まし、光る蝶の舞をスケッチブックに描き留める。それは、彼が何年も忘れていた、純粋な創造の喜びに満ちた時間だった。効率や評価を気にせず、ただ心が動くままにペンを走らせる。その行為が、乾ききった彼の魂を少しずつ潤していく。だが、この穏やかな時間は、世界の根幹を揺るがす、残酷な真実の序章に過ぎなかった。
第三章 忘れられた創造主
平穏は、唐突に終わりを告げた。ある朝、蓮が目を覚ますと、部屋の風景が陽炎のように揺らめいていた。月詠草は色褪せ、響石の輝きは鈍り、ノクスの体から放たれる光も、明らかに弱々しくなっていた。
「どうしたんだ、ノクス!」
蓮が駆け寄ると、ノクスは苦しげに体を丸め、小さな声で囁いた。
《世界が……消えかけてる。君が、僕らを『忘れよう』としているからだ》
「忘れる? 何を言っているんだ。僕は君たちのことを……」
言いかけて、蓮は言葉に詰まった。ノクスの瑠璃色の瞳が、彼の心の奥底、固く蓋をした記憶の扉をこじ開ける。そこに映し出されたのは、画用紙の山に埋もれ、一心不乱にクレヨンを走らせる幼い日の自分の姿だった。
――そうだ、思い出した。この森は。この生き物たちは。すべて、僕が創ったものだ。
月詠草、響石、星の涙。そして、夜の光の案内人、ノクス。すべては、蓮が小学生の頃に夢中で描いていた、空想の世界「ティル・ナ・ノグ」の住人たちだった。誰に見せるでもなく、ただ自分のためだけに描き続けた、たった一人の王国。そこには、現実にはない美しい自然が広がり、心優しい生き物たちが暮らしていた。
だが、いつからだろうか。絵を褒められるようになり、コンクールで賞を取り、美術系の高校、大学へと進むうちに、彼の絵は「評価されるためのもの」に変わっていった。「独創的だが、商品価値がない」「もっと市場を意識しろ」。そんな言葉を浴びるうちに、彼は自分の内なる世界を恥じるようになった。ティル・ナ・ノグは、子供の戯言、非生産的な空想だと、自ら切り捨てたのだ。
そして、プロのイラストレーターとして挫折を味わい、生活のために個性を殺して働くようになった頃、彼は無意識のうちに、その世界の存在そのものを記憶の奥底へと追いやっていた。完全に『忘却』することで、かつての夢多き自分と決別しようとしたのだ。
《僕らは、君の想像力そのものなんだ》ノクスの声が、罪悪感に苛まれる蓮の心に響く。《創造主に見捨てられ、忘れ去られた僕らは、存在を保てなくなった。だから、還る場所を求めて、君の元へやってきた。でも……君が僕らを完全に忘れ去ろうとすれば、僕らは消えるしかない。そして、源である君の世界も、きっと無事では済まない》
部屋の揺らぎが激しくなる。壁の翠色は黒ずみ、せせらぎは濁り始めた。蓮が捨てたはずの世界が、最後の悲鳴を上げていた。現実を守るために、この幻想を完全に消し去るか。それとも、自らが捨てた過去と向き合い、この崩壊を食い止めるか。蓮は、震える手でスケッチブックを握りしめた。そのページには、彼が久しぶりに心から楽しんで描いた、ノクスの無邪気な姿があった。
第四章 テラリウムの約束
絶望的な静寂の中、蓮は床に膝をついた。目の前で明滅するノクスの小さな光が、まるで風前の灯火のようだ。彼が忘却の淵に突き落とした、数えきれないほどの命の輝き。それを思うと、胸が張り裂けそうだった。
「ごめん……。ごめん、ノクス。僕が、君たちを捨てたんだ」
涙が、苔の絨毯に吸い込まれていく。幼い頃、彼はこの世界を誰よりも愛していたはずだった。ノクスや仲間たちと、心の中でどれだけ多くの冒険をしたことだろう。それを、現実の厳しさから逃げるための言い訳にして、自分から手放してしまった。
蓮はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。彼は蔦の絡まるデスクに向かい、埃をかぶっていたペンタブレットを手に取った。電源を入れると、真っ白なキャンバスが浮かび上がる。
「もう一度、描くよ。君たちの物語を。今度は、誰のためでもない。僕と、君たちのために」
彼はノクスに約束すると、深く息を吸い込み、ペンを走らせた。指先が、忘れていた感覚を思い出す。迷いなく引かれる線が、弱々しく揺らいでいたノクスの輪郭を、くっきりと描き出していく。柔らかな毛並みの質感、瑠璃色の瞳の奥に宿る光。蓮は、持てるすべての愛情と集中力を注ぎ込んだ。
彼が描くたびに、奇跡が起きた。画面の中のノクスが輝きを取り戻すと、現実のノクスの光もまた、力強く蘇る。次に、色褪せた月詠草を、鮮やかな翠色で塗りつぶす。すると、壁の植物が一斉に息を吹き返し、清浄な香りを放ち始めた。濁ったせせらぎを描き直せば、部屋には再び澄んだ水音が響き渡る。
それは、創造主としての再生の儀式だった。彼は一睡もせず、何日も描き続けた。失われたティル・ナ・ノグの風景を、そこに生きる仲間たちを、記憶の底から一つひとつ丁寧に拾い上げ、デジタルキャンバスの上で再構築していく。
すべての生き物を描き終えた頃、部屋を侵食していた森は、その勢いを収めていた。しかし、消え去ることはなかった。窓際の、陽光が最も美しく差し込む一角に、すべての風景が凝縮されたかのように、直径一メートルほどのガラスのテラリウムが出現していた。その中で、小さなノクスが元気に駆け回り、月詠草が静かに呼吸している。蓮が再生させた、彼だけの世界。
蓮の日常からグレースケールが消えることはなかった。クライアントワークも、厳しい現実も、相変わらずそこにある。だが、彼の世界には、確かな色彩が戻っていた。仕事の合間に、彼はテラリウムを眺め、自分の物語を描く。その絵には、かつての彼が失ったはずの、純粋な生命力と魂の輝きが宿っていた。
現実と幻想の境界に佇む、小さなテラリウム。それは、大人になる過程で誰もが何かを置き忘れてくる中で、それでも大切なものを心の中に持ち続けることができるという、蓮と彼の世界が交わした、永遠の約束の証だった。