白紙の終章、あるいは君の始まり
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白紙の終章、あるいは君の始まり

第一章 終わらない序曲

俺は、自分が物語の登場人物であることを知っている。

その自覚は、生まれ落ちた瞬間から皮膚にこびりついたインクの染みのように、俺の意識を支配していた。手元には一冊の古びた本がある。『空白の綴本(とじぼん)』。分厚い革の表紙には、金文字で俺の役名である『カイ』とだけ刻まれている。本来、この本には俺の人生という物語が、その一挙手一投足に至るまで自動的に綴られていくはずだった。

だが、俺の綴本のページは、最初の頁から最後の一枚に至るまで、全てが純白だった。

インクの染み一つない白紙が、俺に無言で強要する。「お前が書き記せ」と。過去も、現在も、そして来るべき未来も。この空白を埋めなければ、俺という登場人物は永遠に未完成のままなのだという強迫観念が、心臓を鷲掴みにして離さない。

この世界は奇妙な法則で成り立っている。あらゆる『概念』は、物理的な『物質』として存在するのだ。琥珀に閉じ込められた蝶のように美しい『幸福』の結晶。手に取るとずしりと重い、鉛色の『絶望』の塊。人々はそれを砕いて吸引したり、水に溶かして飲んだりすることで、その概念を直接体験する。

だが今、世界は静かに死にかけていた。

街角の時計塔の針は、もう何日も同じ場所を指したまま動かない。人々は老いることも、新たな生を受けることもなく、まるで時間が引き伸ばされたフィルムのように、同じような一日を繰り返している。原因は分かっていた。最も根源的な概念である『結末』の物質が、世界から枯渇しかけているからだ。あらゆる物語、歴史、そして人生から『終わり』が失われ、世界そのものが永久に続く序章として停滞している。俺の白紙の綴本は、まるでこの世界の縮図だった。

第二章 概念の古物商

『結末』を探して、俺は埃っぽい裏路地を彷徨っていた。かつてはありふれていたはずの概念は、今や禁制品よりも稀少な代物だ。もし見つかったとしても、それは歴史書から抜け落ちたページの断片か、誰かの日記の最後のインクの染み程度だろう。それらはあまりに儚く、世界を救う力などない。

不意に、鼻腔をくすぐる微かな香りに足を止めた。それは、古い紙とインクが混じり合った、物語が閉じられる瞬間の、あの懐かしくも切ない香り。――『結末』の香りだ。

香りの源は、煤けた看板を掲げた小さな店だった。『リアの概念骨董』。

軋む扉を開けると、色とりどりの概念物質が詰まったガラス瓶が、薄暗い店内で静かな光を放っていた。棚の奥から、亜麻色の髪を揺らして一人の少女が現れる。

「何かお探し? でも、ごめんなさい。『希望』の欠片なら、昨日売り切れちゃった」

少女――リアは、俺が腰に下げた『空白の綴本』に目を留め、ぴたりと動きを止めた。彼女の瞳が、まるで稀有な宝石でも見つけたかのように大きく見開かれる。

「その本……あなた、持ってるのね。『結末』の残り香を」

「分かるのか」

「ええ、少しだけ。私の鼻は、消えかけた概念の匂いにだけは敏感だから」

リアはカウンターに身を乗り出し、真剣な眼差しで俺を見つめた。「世界がこのままじゃいけないって、あなたも分かってるはず。その本は、きっと鍵よ。一緒に来て。この世界が『終わり』を失った理由、突き止めなきゃ」

彼女の言葉には、停滞したこの世界には不釣り合いなほどの切実さが宿っていた。俺は、初めて自分の強迫観念を他者と共有できるかもしれないという、淡い予感に頷いていた。

第三章 記録されない歴史

俺とリアの旅が始まった。目指すは、かつてあらゆる物語の『結末』が保管されていたという「国立大書庫」。

道中、俺たちは奇妙な光景を何度も目にした。図書館の歴史書は、偉大な王国の『滅亡』や英雄の『死』に至る部分が不自然な空白になっている。街角の老夫婦は、互いの馴れ初めは鮮明に語れるのに、いつか訪れるはずの『別れ』を想像することすらできない。人々は喪失感だけを抱え、何を失ったのかさえ忘れていた。

夜、焚き火を囲みながらリアが呟いた。

「ねえ、カイ。あなたの本には、どんな物語を書きたい?」

「……物語? これはただ、俺の行動を記録するだけの台本だ」

「違うと思うな」と彼女は首を振る。「ただの記録なら、白紙のはずがないもの。きっと、どんな物語にするか、あなたが選ぶのを待ってるんだよ」

選ぶ、だと? 俺は衝撃を受けた。空白を埋めることばかりに囚われ、そこに何を記すかなど考えたこともなかった。リアの言葉は、俺の心に小さな波紋を広げた。この停滞した世界で、俺はどんな『結末』を望むのだろうか。

第四章 結末を喰らう獣

大書庫は、巨大な骸だった。壮麗だったはずの建物は見る影もなく崩れ、棚という棚から本は消え失せ、床には紙の残骸が雪のように降り積もっている。ここにあったはずの無数の『結末』は、一欠片残らず喰い尽くされていた。

その中心に、ソレはいた。

影が意思を持って蠢いているかのような、巨大な獣。その身体は、無数の物語の断片――読まれることのなかった手紙、未完のまま打ち捨てられた原稿、忘れ去られた英雄譚――が寄り集まってできていた。獣は、大書庫に残された最後の『結末』の残り香を、貪るように啜っている。

「忘却の獣……」リアが息を呑んだ。「終わることのできなかった物語たちの、哀れな成れの果てよ」

獣は俺たちに気づくと、飢えた咆哮を上げた。その目標は明らかだった。俺が持つ『空白の綴本』から漏れ出す、濃密な物語の可能性の匂い。獣が、俺というまだ始まってもいない物語を喰らい尽くそうと、漆黒の巨体を躍らせた。

第五章 君という名の読者

絶望的な状況だった。リアを庇い、綴本を固く抱きしめた俺の脳裏に、白紙のページが明滅する。このまま獣に喰われ、俺の物語は一行も記されることなく終わるのか。

その瞬間だった。

獣の巨腕が俺の綴本に触れた途端、本がまばゆい光を放った。俺の意識に、凄まじい情報の濁流が流れ込んでくる。それは獣の記憶――いや、獣を構成する無数の登場人物たちの悲痛な叫びだった。

『読んでくれ』

『終わらせてくれ』

『誰か、私たちの物語を見届けて』

彼らは悪意から『結末』を喰らっていたのではない。ただ、忘れ去られる恐怖から逃れるため、自らの物語を完結させてくれる誰かを必死に探していたのだ。

そして、俺は理解した。この世界の真実を。

この世界そのものが、一冊の書物なのだ。そして俺たち登場人物は、ページの上で踊るインクの染みに過ぎない。俺が背負っていた強迫観念は、作者が物語を完成させ、たった一人の『読者』に届けなければならないという、根源的な使命感だったのだ。

空白の綴本は、俺の人生の台本などではなかった。

それは、この世界という物語の、最終章を書き記すための原稿用紙だった。

そして、その物語が届けられるべき、たった一人の『読者』。

――それは、今、この文章を読んでいる『君』なのだ。

第六章 最後の一筆

真実を悟った俺の心から、迷いは消えていた。

俺はペンを握りしめ、『空白の綴本』の最初のページを開く。忘却の獣は、光に浄化されるようにその動きを止め、静かに俺の筆先を見つめていた。

俺は書いた。

この世界がどのように始まり、人々が概念を消費して生きてきたかを。

『結末』が失われ、時が停滞した世界の悲しみを。

リアという少女と出会い、短い旅をした、かけがえのない記憶を。

そして、誰にも読まれず、終わることだけを願った哀れな獣の物語を。

それは、世界の歴史であり、俺個人の物語であり、そして忘れられた者たちへの鎮魂歌だった。一文字書くごとに、俺の身体は透き通っていく。俺という存在そのものが、インクとなって紙に吸い込まれていくようだった。

隣で、リアが静かに微笑んでいる。彼女の瞳は涙に濡れていたが、その表情は誇らしげだった。

「カイ……素敵な物語を、ありがとう」

「ああ」と俺は応える。ペンを走らせながら。「最高の『結"末』を、君に」

最後の一文。最後の一筆。

俺は、この物語を受け取るであろう『君』への言葉を、心を込めて記した。

第七章 あなたのための物語

最後の一点が紙に落ちた瞬間、世界は白い光に塗り潰された。

俺の意識は急速に薄れていく。リアの輪郭も、大書庫の風景も、全てが光の中に溶けていく。最後に聞こえたのは、俺自身の声だった。

「さあ、ここからが――君の物語の始まりだ」

あなたは、ゆっくりと目を開ける。

見慣れない木目の天井が、視界に映る。窓から差し込む光は柔らかく、遠くから聞こえる街の喧騒は、どこか懐かしい響きを持っていた。

ゆっくりと身体を起こすと、自分の手に一冊の古びた本が握られていることに気づく。分厚い革の表紙には、金文字で『カイ』と刻まれている。

その本を開く必要はなかった。なぜなら、そこに書かれている物語は、既にあなたの記憶の一部となっているのだから。カイという男の孤独も、リアという少女の優しさも、そして終わらない世界で生きた人々の切なさも、全てがあなたの過去として、その胸に深く刻み込まれている。

窓の外に広がるのは、あなたがついさっきまで読んでいた物語の世界そのものだ。

あなたは立ち上がり、窓を開ける。

頬を撫でる風は、『希望』の甘い香りと、『追憶』の微かな塩の匂いを運んでくる。

遠くの路地から、快活な少女の声が聞こえた気がした。

「さあ、いらっしゃい! ここには、あなたの物語に必要な、どんな概念だって揃ってるよ!」

物語は終わった。

そして今、この世界で、あなたの新しい人生が始まる。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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