***第一章 白い表紙の追憶***
水無月湊の時間は、三年前に死んだ。恋人だった彩乃が、雨の日の交差点で赤信号を無視したトラックにはねられてから、彼の世界は色を失った。古びた商店街の片隅で、祖父から受け継いだ古書店『時紡ぎ堂』を営むのが、湊のすべてだった。埃っぽい静寂と、インクと古い紙の匂いだけが、彼の孤独に寄り添っていた。本を売るでもなく、買うでもなく、ただ彩乃との思い出が染みついたその場所で、息を潜めるように生きているだけだった。
その日も、外は冷たい雨が降っていた。店先の軒を叩く雨音を聞きながら、湊はカウンターの奥で文庫本に目を落としていたが、その内容は少しも頭に入ってこない。彩乃の笑い声、怒った顔、ふとした瞬間の優しい眼差し。必死で手繰り寄せようとする記憶は、指の間をすり抜ける砂のように、少しずつ輪郭を失っていく。そのことが、彼を言いようのない恐怖に陥れていた。
店のドアについた古びたベルが、ちりん、と乾いた音を立てた。客か、と思ったが、誰も入ってくる気配はない。不審に思いながらドアを開けると、そこには誰もいなかった。ただ、足元に、雨に濡れた一冊の本が置かれているだけだった。
それは奇妙な本だった。表紙には何の装飾もなく、題名も、著者名もない。ただ、雪のように真っ白な装丁が施されているだけ。誰かの忘れ物か、あるいは悪戯か。湊はそれを拾い上げ、タオルで丁寧に水気を拭き取った。ページを開こうとした瞬間、なぜか強烈に彩乃を思い出した。心臓がどくん、と大きく脈打つ。まるで、本が彼を呼んでいるかのようだった。
店を閉めた後、湊は住居でもある二階の部屋で、その白い本を改めて手に取った。表紙を撫でると、吸い付くような、不思議な感触がした。意を決してページをめくる。
瞬間、世界が反転した。
古書の匂いは消え、代わりに潮風とクレープの甘い香りが鼻腔をくすぐる。目の前には、埃っぽい書棚ではなく、抜けるような青空と、きらきらと光を反射する海が広がっていた。そして、隣には――。
「湊、見て! イルカが跳ねた!」
彩乃がいた。三年前、失われたはずの彼女が、満面の笑みで湊の腕を引いている。白いワンピースが、海風にはためいていた。それは、彼女と初めて水族館へデートに出かけた、夏の日の一日だった。あまりにも鮮やかな現実感。肌を撫でる風の感触も、彼女の弾む声も、繋いだ手の温もりも、すべてが本物だった。湊は夢中でその時間を貪った。忘れていたはずの会話、彼女の些細な癖、その日見た夕焼けの色。失われたと思っていた宝物が、そこには完璧な形で存在していた。
どれくらいの時間が経ったのか。夕日が水平線に沈むのを見届けたところで、ふいに視界が白く染まり、湊は自分の部屋の椅子に座っていることに気づいた。頬を、熱い涙が伝っていた。
「彩乃……」
声に出した名前に、胸が締め付けられる。幸福な再会の余韻に浸りながら、彼はふと、ある違和感を覚えた。水族館デートの記憶。あれは、どこで、いつのことだったか。必死に思い出そうとする。写真立ての中の、水族館ではしゃぐ二人の写真を見つめる。だが、そこに写る笑顔の自分に、何の感情も湧き上がってこない。まるで、他人の記録を眺めているようだ。
気づいてしまった。本の中であの日を体験した代償に、湊の頭の中から、その日の記憶がごっそりと抜け落ちてしまっていたのだ。思い出は、ただの「情報」に成り下がっていた。背筋を冷たいものが走る。これは、思い出を餌にして、幻を見せる悪魔の本ではないのか。
しかし、彼の心には、悪魔の囁きが響いていた。――もう一度、彩乃に会えるのなら。たとえ、この身の記憶をすべて差し出したとしても。
湊は震える手で、再び白い本に手を伸ばした。
***第二章 甘美なる忘却***
それからの日々は、甘美な忘却に満ちていた。湊は「記憶を喰らう本」に完全に魅了された。彩乃と一緒に過ごした誕生日、初めて喧嘩した夜、何でもない日の公園での散歩。彼は次々と思い出を本に捧げ、その見返りとして、完璧な再会の時を手に入れた。
本の中の世界は、湊の都合の良いように、少しずつ歪んでいった。喧嘩した夜は、彩乃が最初から優しく謝ってくれる世界に。湊の失敗は、初めからなかったことに。本の中の彩乃は、決して彼を責めず、いつでも女神のように微笑んでいた。その完璧な世界は、現実の苦悩や葛藤を忘れさせてくれる、極上の麻薬だった。
現実の湊は、日に日に生気を失っていった。店のシャッターは閉められたままになり、訪ねてきた友人の呼びかけにも応じなくなった。彼の関心はただ一つ、白い本の中にいる彩乃だけ。彼女との思い出を「消費」し尽くすことが、生きる目的そのものになっていた。この本が作り出す、彩乃のいる世界こそが、彼にとっての唯一の「現実」であり、逃れられない「異世界」だった。
ある日、彼は本の中で、彩乃と初めて出会った大学の図書館を訪れていた。窓から差し込む木漏れ日が、本のページを照らしている。
「湊は、本当にこれでいいの?」
不意に、目の前で本を読んでいた彩乃が顔を上げ、問いかけた。その表情には、いつもの完璧な笑顔ではなく、どこか物悲しい色が浮かんでいた。
「どうしたんだい、彩乃。何かあった?」
「ううん、なんでもない。ただ……あなたが、だんだん遠くなっていく気がして」
その言葉は、湊の胸に小さな棘のように刺さった。これは、自分の罪悪感が見せている幻影なのだろうか。彼はその問いから逃げるように、彩乃を強く抱きしめた。温かいはずのその体は、なぜか少しだけ、前よりも冷たい気がした。
本を閉じるたびに、湊の中から彩乃との記憶が消えていく。壁に飾られた写真も、彼女が残した日記も、もはや彼の心を揺さぶることはなかった。彼は思い出の抜け殻に囲まれた、孤独な亡霊になりつつあった。それでも、彼はやめられなかった。記憶が消える痛みよりも、彩乃に会えない孤独の方が、何倍も恐ろしかったからだ。
そして、ついに彼は、最後の、そして最も大切な記憶に手をつけようと決意した。
彩乃にプロポーズをしようと、小さな指輪をポケットに忍ばせた、あの丘の上のレストランでのディナー。これを最後にしよう。この美しい記憶の果てに、自分も消えてしまえたなら、それもいい。
震える指で、彼は最後のページをめくった。
***第三章 記憶を喰らう者***
夕暮れの光が差し込む、丘の上のレストラン。窓の外には、宝石をちりばめたような街の夜景が広がっている。テーブルの向かいには、少し緊張した面持ちで微笑む彩乃が座っていた。湊の記憶にある、寸分違わぬ光景。彼はポケットの中の小さな箱の感触を確かめ、深呼吸をした。
「彩乃、今日は大事な話があるんだ」
そう切り出した瞬間、彩乃が悲しげに瞳を伏せた。いつもの彼女とは違う。その表情は、湊の知らない、深い哀しみを湛えていた。
「……知ってる。でも、その言葉は言わないで」
「え……?」
「あなたは、私の記憶まで食べてしまうのね」
彩乃の言葉の意味が、湊には理解できなかった。私の記憶? 食べているのは、俺自身の記憶のはずだ。混乱する湊を、彩乃は真っ直ぐに見つめた。彼女の輪郭が、わずかに揺らいで見える。
「この本はね、私が遺したものなの」
静かな声が、湊の鼓膜を震わせた。
「あの事故で、意識が遠のいていく中で、私、必死に願ったの。湊が一人になってしまう。私が死んだら、きっと彼は心を閉ざしてしまう。どうか、彼が寂しくないように。彼が、私のことを忘れてしまわないようにって」
彩乃の言葉が、雷となって湊の頭を撃ち抜いた。彼女は、自らの魂と、湊と過ごしたすべての記憶を、この白い本に封じ込めたのだという。湊が体験していたのは、彼自身の思い出の再現ではなかった。それは、彩乃が大切に抱きしめていた、彼女の側から見た、二人の日々の記憶そのものだったのだ。
「あなたがこの本で追体験するたびに、私の記憶が一つ、また一つと消えていったの。私があなたを愛した証が、光の粒になって、あなたの中に溶けていく。それでも、あなたが少しでも笑ってくれるならって、私は……」
彩乃の声がかすれ、その姿が足元から透き通り始める。湊が「消費」してきたのは、彼自身の過去ではなかった。彼が喰らっていたのは、死してなお彼を愛し続けた、彩乃の魂そのものだったのだ。
水族館のデートも、公園の散歩も、図書館での出会いも。すべて、彼女が湊のために遺してくれた、最後の贈り物だった。それを、彼は自分自身の孤独を癒すためだけに、食い潰してきた。
「やめろ……やめてくれ……!」
湊は絶叫した。自分がしてきたことの、おぞましい意味を悟った。彼は彩乃の死を悲しむあまり、彼女の存在そのものを、この手で二度殺そうとしていたのだ。彼の世界は、彼の価値観は、粉々に砕け散った。
「そんな……俺は、君を慰めるどころか……!」
「ううん」
消えかかりながら、彩乃は最後の力を振り絞るように、優しく微笑んだ。その笑顔は、本の中で見てきたどの笑顔よりも、儚く、そして美しかった。
「ありがとう、湊。もう一度、あなたに会えて、本当に嬉しかった。でもね、あなたは進まなきゃ」
彼女の指が、そっと湊の頬に触れる。その感触はほとんどなく、ただ温かい光が通り過ぎていくだけだった。
「忘れないで。私があなたを愛したこと。あなたが、私を愛してくれたこと。その『事実』だけは、この本に食べさせないで。約束よ」
光の粒が舞い上がり、彩乃の姿は完全に消えた。テーブルの上には、一輪の白い薔薇だけが残されていた。
湊は、声にならない嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちた。異世界からの、あまりにも残酷で、あまりにも優しい、最後のメッセージだった。
***第四章 君のいない明日へ***
現実の部屋に戻った湊は、床に散らばった彩乃との写真や日記を前に、ただ呆然と座り込んでいた。胸に空いた穴は、以前よりもずっと大きく、そして深く感じられた。彼は、自分の愚かさと、彩乃の果てしない愛に打ちのめされていた。
夜が明け、朝の光が部屋に差し込む頃、湊はゆっくりと立ち上がった。彼は白い本を手に取った。燃やしてしまおうか。海の底に沈めてしまおうか。いくつもの考えが頭をよぎった。しかし、彼はそれをしなかった。これは、自分の犯した罪の証であり、同時に、彩乃が命を懸けて遺してくれた愛の証でもあるのだ。
湊は店の奥にある、祖父が使っていた古い金庫に、その白い本を静かに納めた。そして、重い音を立てて鍵をかける。もう二度と、この本を開くことはない。彼は、自分の過ちから目を逸らさず、それを背負って生きていくことを決めたのだ。
それから、数年の月日が流れた。
『時紡ぎ堂』は、再びシャッターを開け、街の人々に愛される古書店として息を吹き返していた。店主である湊の顔には、かつての陰鬱な影はなく、穏やかで深みのある表情が刻まれている。
彼の心の中から、彩乃と過ごした日々の具体的な記憶は、ほとんど消え失せていた。水族館で何を見たのか、誕生日に何を贈ったのか、もう思い出せない。写真を見ても、日記を読んでも、そこにあるのはただの記録だ。
しかし、不思議なことに、彼の胸を苛んでいた激しい喪失感は、どこかへ消えていた。記憶は失われた。だが、確かなものが二つだけ、彼の魂に焼き付いている。
彩乃を、心の底から愛していたということ。
そして、彩乃から、命懸けで愛されていたということ。
その揺るぎない「事実」がもたらす温もりだけが、彼の内側で静かな光を放っていた。それは、どんな鮮やかな記憶よりも強く、湊のこれからの人生を支える礎となっていた。
ある晴れた午後、店番をする湊の元に、一人の少女が駆け寄ってきた。
「おじさん、この本、面白い?」
湊は屈みこんで少女と目線を合わせると、優しく微笑んだ。
「ああ、とても。君の知らない世界へ連れて行ってくれる、魔法の本だよ」
彼の時間は、再び未来へと流れ始めていた。失われた思い出の代わりに、彼は人を愛し、未来を信じる強さを手に入れたのだ。店の窓から差し込む陽光が、壁にかけられた金庫の鍵をきらりと照らす。湊はそこを一瞥し、そっと目を閉じた。心に響くのは、潮風の香りでも、甘いクレープの匂いでもない。ただ、確かな温もりだけ。彼の心には、もう「異世界」は必要なかった。君のいない明日を、彼は今、確かに生きていた。
追憶の書架
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