***第一章 閉じた本の囁き***
神保町の古書街の片隅に佇む「滄浪堂(そうろうどう)」。その埃とインクの匂いが染みついた空間が、水野カナタの世界のすべてだった。三十路を前にした彼は、ここで黙々と古書の整理をしながら、現実から一枚隔てたような静かな日々を送っていた。幼い頃に両死別し、唯一の肉親だった祖母も数年前に他界してからは、彼の心はいつも所在なげに宙を彷徨っていた。
そんなカナタには、誰にも話したことのない秘密があった。それは、幼い記憶のなかにだけ存在する「硝子(がらす)の森」の原風景だ。陽光を浴びて七色に輝くガラスの葉、水晶のように透き通った幹を持つ木々、そして地面を覆う瑠璃色の苔。そこは、悲しみも孤独も存在しない、絶対的な安息の場所だった。大人になるにつれてその森の記憶は薄れ、今では夢の残滓のように、心の片隅にかろうじてその輪郭を留めているだけだった。
ある雨の日の午後、店の奥深く、買い取ったまま忘れ去られていた蔵書の山を整理していたカナタは、一冊の奇妙な本を見つけた。それはどの国の言葉も記されていない、ただ滑らかな深緑色の革で装丁された無地の本だった。表紙にも背表紙にも、タイトル一つない。好奇心に駆られてページをめくると、そこには上質なクリーム色の紙が、ただただ白紙のまま続いていた。
失望しかけたその時、ふと、本の革から漂う微かな香りに気づいた。懐かしい香りだった。それは、白檀のような、それでいて雨上がりの土のような、不思議な安らぎを与える匂い。その匂いを吸い込んだ瞬間、カナタの脳裏に閃光が走った。そうだ、これは――硝子の森の匂いだ。忘れかけていた記憶の扉が、軋みながら開く音がした。
その夜、カナタは奇妙な本を枕元に置いて眠りについた。すると、彼は久しぶりに硝子の森の夢を見た。だが、いつもと違う。夢の中の彼は、あの白紙の本を手にしていた。そして、彼が森の奥へと一歩踏み出すたびに、本のページに淡い光のインクで文字が浮かび上がってくるのだ。
『――森が、君を待っている』
その言葉は、囁き声となってカナタの鼓膜を震わせた。それは、現実を覆す、甘美な囁きだった。
***第二章 森への誘い***
あの日を境に、カナタの世界は静かに変容し始めた。古書店の窓ガラスに、ふと硝子の木々が揺らめく幻影が映り込む。通勤電車の窓を叩く雨音が、ガラスの葉が触れ合う澄んだ音色に聞こえる。彼の五感は、現実の風景の向こう側に、確かに存在するはずの森の気配を捉え始めていた。
カナタは、あの緑色の革本が「硝子の森」への道標なのだと確信するようになった。彼は毎晩、本を胸に抱いて眠った。すると、夢の中の森は日に日に鮮明さと奥行きを増していった。最初は入り口を彷徨うだけだったのが、やがて小道を見つけ、水晶の川を渡り、光る苔の絨毯を踏みしめて、さらに奥深くへと進めるようになった。
現実での彼は、相変わらず滄浪堂の静かな店員だった。しかし、その内面は異世界への憧憬で満たされ、かつてない高揚感に包まれていた。孤独だったはずの日常が、森への準備期間のように思えてくる。彼の心は、もはや埃っぽい古書店にはなく、夜ごと訪れる幻想の森にあった。
夢の森を探索するうち、カナタは、いつも少し離れた場所から自分を見守っている「影」のような存在に気づいた。その影は、特定の形を持たず、ただ優しい気配だけを漂わせていた。不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、その影からは、忘れてしまった誰かの温もりに似た、深い懐かしさを感じた。カナタは、その影こそが森の案内人であり、いつか自分を森の中心へと導いてくれる存在なのだと信じた。
「もう少しだ。もう少しで、僕は本当の居場所に帰れる」
本を握りしめ、カナタは呟いた。現実世界の人間関係や将来への不安は、硝子の森の輝きに比べれば、色褪せた些末な事にしか思えなくなっていた。彼は自ら、現実世界との繋がりを断ち切るように、その美しい幻想へと沈み込んでいった。
***第三章 砕け散る硝子***
満月の光が窓から差し込む夜だった。カナタはいつものように本を抱きしめ、意識を夢の世界へと飛ばした。今夜は違う、という確信があった。夢の景色はこれまでになく明瞭で、空気は濃密な期待に満ちていた。
彼は森の奥へ、奥へとひた走った。すると、開けた場所に、天を衝くほど巨大なガラスの樹がそびえ立っているのが見えた。樹全体が内側から淡い光を放ち、その荘厳な美しさにカナタは息を呑んだ。そして、その大樹の根元に、あの「影」が静かに佇んでいた。
カナタがゆっくりと近づくと、影は陽炎のように揺らめき、徐々に人の輪郭を帯びていった。深く刻まれた優しい皺。少し寂しげに細められた目元。その姿がはっきりと結ばれた時、カナタの全身は凍りついた。
「ばあ、ちゃん……?」
そこに立っていたのは、数年前に亡くなったはずの祖母、水野千代の姿だった。
祖母の幻影は、悲しみと愛情が入り混じった、複雑な微笑みを浮かべていた。「カナタ。よく来たね」その声は、記憶の中のままの温かさだった。
「どうして……。ここは、硝子の森は、異世界じゃなかったのか?」混乱するカナタに、祖母は静かに真実を語り始めた。
「この森はね、お前が作った場所なんだよ。お父さんとお母さんがいなくなってしまったあの日、小さなお前は、自分の心を壊してしまわないように、この美しい森を心の中に作り上げたんだ」
硝子の森は、異世界などではなかった。それは、幼いカナタが耐え難い現実から逃避するために、無意識に構築した心象風景――セーフプレイスだったのだ。
「私はね、お前が語ってくれるこの森の話を聞くのが大好きだった。だから、お前が寂しくないように、お前の物語の登場人物になって、ずっとここで待っていたんだよ」
祖母の言葉が、雷となってカナタの胸を撃った。では、あの本は?あの懐かしい匂いは?
「あの本は、私が使っていた日記帳さ。お前の語る美しい森の物語を、いつか書き留めておいてやろうと思ってね。結局、何も書けないままになってしまったけど……。匂いは、私が好きだった白檀のお香と、この革の匂いが移っただけだよ」
異世界への扉だと思っていたものは、封印していたトラウマと、祖母の深い愛情への扉だった。その事実に、カナタの世界は音を立てて崩壊した。信じていた唯一の安息の地が、自らが作り出した幻想。心の支えだと思っていた光が、実は癒えない傷の裏返しだったという絶望。
足元の瑠璃色の苔が色を失い、輝いていたガラスの木々には無数の亀裂が走る。美しいはずの森が、彼の心の崩壊と共鳴するように、ガラガラと砕け散っていく。カナタはその場に膝から崩れ落ち、声を殺して泣いた。
***第四章 開かれた頁の向こう***
砕け散る世界の中心で、祖母の幻影は優しくカナタの頭を撫でた。その手触りは、夢とは思えないほどリアルだった。
「泣かなくていいんだよ、カナタ。この森を作った頃のお前は、まだ小さくて、一人で現実と向き合うにはあまりに無力だった。でも、今は違う」
祖母の言葉が、彼の心の奥深くに染み込んでいく。
「お前はもう一人じゃない。お前が目を背けてきただけさ。滄浪堂のご主人の不器用な優しさも、常連客のおじさんとのくだらない世間話も、雨上がりのアスファルトの匂いも……。お前のいる世界は、ちゃんと美しいんだよ。この森と同じくらいにね」
その言葉に、カナタはハッとした。彼が色褪せていると切り捨てた現実。そこにも確かに、ささやかな光は存在していた。自分がそれを見ようとしていなかっただけなのだ。
涙で滲む視界のなか、彼は祖母を見上げた。「ありがとう、ばあちゃん。……もう、大丈夫だよ」
彼がそう告げた瞬間、祖母は満足そうに微笑み、その姿が光の粒子となって薄れていった。巨大なガラスの樹も、森のすべてが輝く塵となり、夜空に舞い上がっていく。それは、世界の終わりではなく、美しい夜明けのように見えた。
次にカナタが目を開けた時、彼は自室のベッドの上にいた。窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。枕元には、あの深緑色の革本が静かに横たわっていた。もうそれは、異世界への妖しい誘惑を秘めた魔導書には見えなかった。ただの、祖母の温かい思い出が詰まった、かけがえのない形見に見えた。
数日後、カナタは滄浪堂のカウンターで、あの白紙の本を開いていた。彼は万年筆を手に取り、その最初のページに、震える手でインクを落とした。
『第一章 硝子の森の入り口』
彼は、自分と祖母が紡いだ、哀しくも優しい物語を、今度は自分の手で書き記し始めた。それは過去との決別ではない。辛い記憶も、温かい愛情も、そのすべてを抱きしめ、自分の物語として未来へ歩みだすための、静かな儀式だった。
窓の外では、街路樹の葉が木漏れ日を浴びて、きらきらと輝いている。それはまるで、かつて夢見た硝子の森の輝きが、現実の世界にそっと溶け込んだかのようだった。
カナタは、もう異世界を探すことはないだろう。なぜなら、物語はどこか遠くにあるのではなく、傷つき、再生し、今を生きる自分自身の心の中にこそ、息づいているのだと知ったからだ。開かれた本の頁は、彼の未来そのものだった。
硝子の森の書架
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