***第一章 消えたカヌレ***
高槻陽一の人生は、まるで彼が愛する活版印刷の版組のように、寸分の狂いもなく整然と組まれていた。朝は六時に起床し、きっちり七分茹でた卵とトーストを食べる。八時には仕事場である工房に入り、夕方五時まで、インクと紙の匂いに満たされた静寂の中で、金属活字と向き合う。時代遅れだと笑われようと、彼はこの規則正しいリズムと、指先に伝わる活字の確かな重みを愛していた。
だが、彼の完璧な日常には、たった一つだけ、甘く切ないイレギュラーが存在した。毎月二十七日。十年前に亡くなった妻、美咲の月命日だ。その日だけは、陽一は仕事を早めに切り上げ、駅前の小さなパティスリーに立ち寄る。そして、美咲が生前こよなく愛したカヌレを二つ買うのだ。一つは彼女の分、もう一つは、彼女の思い出と共にそれを食べる自分の分。
その日も、陽一はいつものように、艶やかな黒糖色のカヌレを仏壇に供え、手を合わせた。「美咲、また一月経ったよ」。静かに語りかけ、自分用のカヌレを口に運ぶ。外側はカリッと香ばしく、内側はラム酒の香りがふわりと鼻を抜ける、もっちりとした食感。目を閉じれば、隣で「美味しいね」と笑う美咲の顔が浮かんでくるようだった。
異変に気づいたのは、翌朝のことだった。
朝食の準備を終え、仏壇に朝の挨拶をしようとした陽一は、思わず息を呑んだ。昨日供えたはずのカヌレが、綺麗さっぱり消えていたのだ。小皿の上には、微かなパン屑が数粒残るのみ。彼のカヌレは、昨夜のうちに食べてしまっている。つまり、美咲のために供えた、一つだけのカヌレが、忽然と姿を消したのだ。
「……まさか」。
陽一は家中を点検した。窓も玄関も、鍵はしっかりと掛かっている。昨夜、不審な物音は一切聞こえなかった。そもそも、こんな小さなカヌレ一つを盗むために、わざわざ家に侵入する泥棒がいるだろうか。
考えられる可能性は一つだけ。自分が昨夜、寝ぼけて二つとも食べてしまったのではないか。陽一は自分の記憶力を疑った。しかし、あのカヌレを二つ同時に食べるなど、この十年で一度もしたことがない。それは、彼にとって美咲との約束のようなものだったからだ。
首を傾げながらも、陽一はその日は自分の記憶違いということにして、日常に戻った。だが、彼の整然とした心の中に、小さな、しかし無視できない染みが広がっていくのを感じずにはいられなかった。それは、完璧に組まれた版に落ちた、一滴のインクのようだった。
***第二章 閉じた時間、開いた扉***
次の月の二十七日、陽一は半ば実験するような気持ちで、再びカヌレを二つ買った。彼はいつもより念入りに戸締りを確認し、仏壇に手を合わせた後、リビングのソファでうたた寝もせず、寝室のベッドに入った。整然とした彼の日常が、一つの謎によって僅かに、しかし確実に乱されていた。
そして翌朝。陽一が恐る恐る仏壇を確かめると、結果は同じだった。小皿は空っぽ。美咲のためのカヌレだけが、またしても消えていた。
「あり得ない……」
もはや記憶違いではない。これは現実に起きていることだ。陽一の脳裏に、非科学的な言葉が浮かんだ。まさか、美咲の霊が本当に食べに来ているのだろうか?いや、そんな馬鹿な。彼は合理主義者だった。だが、他にどう説明すればいいのか。彼の心は、合理と非合理の間で大きく揺れ動いた。
陽一は工房にいても、仕事に集中できなかった。金属活字を拾う指先が、微かに震える。ふと、彼は工房の片隅に置かれた古い木箱に目をやった。中には、美咲が使っていたガーデニング用品や、他愛ない手紙が仕舞われている。彼女はいつも、陽一の頑ななほどの真面目さを「あなたの良いところだけど、たまには肩の力を抜かなきゃ、活字みたいに固まっちゃうよ」と、花のように笑っていた。
その言葉を思い出し、陽一は家の裏手にある勝手口へと向かった。そこには、かつて美咲が可愛がっていた老猫のために取り付けた、小さなペット用のドアがあった。猫が亡くなって久しいが、陽一はそれを塞ぐことも忘れて、そのままにしていたのだ。屈んで調べてみるが、ドアには特に変わった様子はない。大人が通れる大きさではないし、そもそも近所にそんな非常識なことをする人間がいるとは思えなかった。
謎は深まるばかりだった。消えたカヌレは、まるで陽一の閉じた心、止まった時間を、外から静かにノックしているかのようだった。彼は防犯カメラの設置まで考えたが、亡き妻の仏壇を監視するような行為に、強い抵抗を感じた。
「美咲……一体、どういうことなんだ」
答えのない問いが、静まり返った家に虚しく響いた。彼は、この不可解な現象と向き合う覚悟を決めるしかなかった。次の月命日、この目で真実を確かめる、と。
***第三章 深夜の訪問者***
そして、三度目の月命日の夜が来た。陽一はカヌレを供えた後、電気をすべて消し、仏壇の見えるリビングの隅に身を潜めた。毛布を被り、息を殺す。時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。時間が経つにつれ、睡魔が彼を襲ったが、固い決意がそれを振り払った。
午前二時を回った頃だった。静寂を破り、カタリ、と微かな音が裏の勝手口の方から聞こえた。陽一は心臓が跳ね上がるのを感じ、全身を硬直させた。音はゆっくりと、しかし確実にリビングに近づいてくる。それは、大人の足音ではなかった。もっと軽く、慎重な、小さな歩みだった。
やがて、暗闇の中に小さな影が浮かび上がった。影はまっすぐに仏壇へと向かい、そこに躊躇いがちに手を伸ばす。月明かりが、その正体を朧げに照らし出した。そこにいたのは、幽霊でもなければ、凶悪な侵入者でもない。隣の家に住む、まだ小学校に上がったばかりくらいの、小さな男の子だった。
男の子は小さな手でカヌレを一つ掴むと、それを宝物のように胸に抱き、踵を返そうとした。その瞬間、陽一は抑えていた声で言った。
「……そこで何をしている」
びくり、と小さな肩が跳ねた。男の子は凍りついたように動きを止め、ゆっくりと振り返る。その顔は恐怖と驚きに歪み、大きな瞳には涙の膜が張っていた。手にしたカヌレを、落としそうになるほど震えている。
陽一は静かに立ち上がり、電気をつけた。眩しさに目を細めた男の子は、陽一の顔を見ると、わっと泣き出しそうになった。陽一の中には、驚きと共に、自分の聖域を侵されたことに対するわずかな怒りがこみ上げていた。しかし、目の前で怯える小さな背中を見ていると、その怒りは急速に萎んでいった。
「どうして、こんなことをしたんだい」
できるだけ優しい声で尋ねると、男の子はしゃくりあげながら、途切れ途切れに話し始めた。
「……お母さんが、入院してるんだ。病気で……」
「お母さんが?」
「うん……。お母さん、カヌレが大好きで……『これを食べると元気になる』って、いつも言ってたから……」
男の子は、涙で濡れた顔を懸命に上げた。
「だから、仏様にお供えしてあるカヌレをもらったら、きっと一番ご利益があると思って……。お母さんの写真の前に、お供えしてたんだ。早く元気になりますようにって……ごめんなさい……!」
その言葉は、陽一の胸を強く、鋭く撃ち抜いた。
泥棒でも、いたずらでもない。ただ、病気の母を想う、子供の純粋で切実な祈り。その姿は、十年前、病室で美咲の手を握り、回復を祈り続けた自分自身の姿と、痛いほどに重なった。自分は一体、何を疑っていたのだろう。ルールや秩序、そんなもので固められた自分の世界の、なんと脆く、独りよがりなことか。
美咲が言っていた「固まっちゃうよ」という言葉が、雷鳴のように頭の中で響いた。そうだ、自分は固まっていた。悲しみの中に心を閉ざし、整然とした日常という殻に閉じこもっていたのだ。
***第四章 三人分の甘い香り***
陽一は、泣きじゃくる男の子の前にそっとしゃがみこんだ。そして、怒る代わりに、その小さな頭を優しく撫でた。
「そうか……。お母さんのために、願掛けをしていたんだな」
男の子は、こくりと頷いた。陽一は立ち上がると、彼の手を引いてキッチンへと向かった。温かいミルクを淹れてやると、男の子は少し落ち着きを取り戻し、小さな声で「健太です」と名乗った。
「健太くん。もう、こっそり入ってこなくていい。おじさんが、君の分も用意しておくから。な?」
陽一の言葉に、健太は驚いたように顔を上げ、そして、安心したように再び涙をこぼした。その夜、二人は並んでキッチンに座り、陽一は残っていた自分用のカヌレを半分こにして、健太と一緒に食べた。
翌日、陽一の行動は変わった。彼は工房で、最も美しい書体の活字を選び出し、一枚のカードを印刷した。『早く元気になって、息子さんと一緒にカヌレを食べに来てください』。そのシンプルなメッセージに、彼の不器用ながらも温かい心が込められていた。そして、いつものパティスリーでカヌレを三つ買い、そのカードを添えて、健太の母親が入院する病院へとお見舞いに向かったのだ。
数ヶ月後、よく晴れた秋の午後。高槻家の縁側には、三つの人影があった。陽一と、健太と、そしてすっかり元気になった健太の母親だ。三人の前には、カヌレが三つ並んだ皿が置かれている。
「高槻さんのカヌレのおかげで、本当に元気が出ました」
健太の母親が、柔らかな笑顔で言った。その笑顔が、どことなく美咲に似ているような気がして、陽一は少しだけ胸が詰まった。
「いや……私こそ、教えられたんです。大切なことを」
彼はそう言うと、健太の頭をくしゃりと撫でた。
いつの間にか、仏壇のカヌレは消えなくなっていた。その代わり、陽一の家の食卓には、誰かと共に食べるための温かいお茶と、甘いお菓子が置かれるようになった。美咲が亡くなってから止まっていた時間が、再びゆっくりと動き出したようだった。
陽一は空を見上げた。澄み切った青空が広がっている。美咲が取り付けたままになっていたあの小さなペットドアが、十年という時を経て、こんなにも温かい縁を運んできてくれた。
「美咲。君が、繋いでくれたのかな」
心の中で語りかけると、涼やかな風が陽一の頬を撫でていった。それはまるで、空の上からの優しい返事のようだった。仏壇には、今も変わらずカヌレが一つ供えられている。だが、それはもう、喪失の証ではない。過去への感謝と、未来へと続く、温かな希望の象徴として、甘い香りを放っていた。
月命日のカヌレ
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